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七章
8、見ない方がいいな
「どうかした?」
俺が尋ねると、翠子さんは表情を引き締めた。
「いえ、一緒に帰ることができないのは寂しいけれど。翠子はちゃんと我慢します」
「そうだな。そんな日もある」
平然と答えたつもりだが、俺だって心中穏やかでいられるはずがない。あなたに袖を引っ張られて、いじらしい姿を見せられて、なおも冷静でいられるならば。それはただの朴念仁だ。
「学校から家までの二十分ほどのことですものね。大丈夫ですよ」
そう。たったの二十分だ。他人が聞けば、つまらないことで寂しがるなと叱られるかもしれない。けれど、当たり前のように毎日一緒に登下校していると、あなたと離れるその距離が、たいそう遠く感じられることだろう。
翠子さんを抱き寄せて、そのひたいにくちづける。
彼女も俺と同じ思いなのか、背中に手をまわしてしがみついてきた。あれほど楽しみにしていたさくらんぼを残したままで。
「銀司がついていてくれるし、この家に戻ればお清だっている。あなたを独りきりにするわけではない」
「ええ……」
「参ったな。そんな様子では、俺は出張があっても出かけにくくなる」
「分かっているんです、我儘だと。でも、寂しくないなんて嘘はつけないんです」
翠子さんの薄紅の唇からこぼれる言葉は、まるで儚い結晶だ。けれど、そのきらめく結晶は澄んでいるのに虹色に煌めき、俺を捕らえて離さない。
他人には、理解されにくい寂しさだろう。何を甘えているんだと叱られるかもしれない。
だが、彼女は家族に捨てられた身だ。いや、ただ捨てられたのではなく社員の生活を救い、叔父の虚栄心を満たすために家族から手放された。
愛情が不変でないことを嫌というほど知っている翠子さんを、寂しがるなと叱ることなんてできやしない。
◇◇◇
翌日。女学校には他校の先生方がいらっしゃいました。
授業もご覧になるので、日中緊張が続きました。
わたくしの学級は校庭で体育の参観で、内容は徒競走です。
体育の時間は、着物の両の袂をたすき掛けにして背中にまわします。もっとハイカラな女学校ではセーラー服にひざ丈のブルマを履くそうですが、うちの学校は袴の前後の紐を折り曲げて、裾を短くします。
「恥ずかしいわね。見知らぬ先生に見られるのは」
文子さんが、短めの袴をしきりに気になさっています。
他校の先生の案内をなさっているのは、校長先生と教頭先生です。高瀬先生は授業中なのかお姿が見えません。
学校では、会えない時間の方が多いのが当たり前なのですけど。なんだか今日は不安です。帰りの約束がないからでしょうか。
◇◇◇
俺は二階の教室の窓辺から、校庭を見下ろしていた。
ちょうど今は六年生に数学の問題を解かせているところだ。さらさらと帳面を走る鉛筆の音をさせているのは、ごく少数で、ほとんどの女生徒の手は止まっている。
ああ、翠子さんが走る番だ。隣は友人の深山文子さん。
窓を開いた教室に、号令の音が聞こえた。背中にまわした袂が、ひらひらとなびいてまるで蝶のようだ。二本のおさげにした髪も、風を受けて左右に揺れる。
彼女の走りは……まぁ、あまり言及しないでおこう。とりあえず翠子さんにとってはゴールの白い紐よりも、まずは深山文子さんの背中を追いかけることが最重要課題のようだ。
「あっ」
俺は思わず声を上げてしまった。
「先生。どうかなさいましたか?」
「いや、何でもない」
ふー、剣呑剣呑。もう少しで「危ない」と口に出してしまうところだった。
翠子さんがよろけて転びそうになったからな。だが、なんとか体勢を整えて、また走りだした姿を見て俺は安堵の息をついた。
ああ、もう。怪我なんかしたら、次の休み時間に俺は翠子さんの元へ行ってしまいそうだ。
頼むから、最後まで転ぶことなく走ってくれ。
同じ班の女生徒二人がゴールし、それに続いて深山さん、最後に翠子さんが走り終えた。肘は開いているし、足も上がっていないし……彼女の運動音痴っぷりはよく見せてもらった。
だがまぁ、よかった。転ばずに済んで。
と思ったのも束の間、深山さんと談笑しながら歩いていた翠子さんがつまずいた。
なんでだ! そこに石なんかないだろうが。
さすがに声には出さなかったが、顔には出ていたらしい。
一番前の生徒が、怪訝な表情で俺を見上げる。
案ずるな、女生徒よ。今はまだ問題を解かせている時間だ。授業放棄ではないぞ。
倒れそうになった翠子さんの腕を、とっさに深山さんが掴む。
いいぞ、深山さん。よくやった。先日、俺のことを目の前で怖いと言った無礼は許してやろう。
しかし、なんか……あれだな。恋人を心配するというよりも、保護者的な感覚になってやしないか?
あれほど、お兄ちゃんと呼ばれるのを拒否しているのは、俺自身が翠子さんの保護者になりやすいからか。
壁の時計を見ると、予定の時間になっていた。
「では、川森さん。前に出て問題を解いてください」
さて、翠子さんの「旦那さま」の時間はもう終わりだ。
俺は、うなだれながら黒板へと進んだ川森さんに、白墨を渡した。
俺が尋ねると、翠子さんは表情を引き締めた。
「いえ、一緒に帰ることができないのは寂しいけれど。翠子はちゃんと我慢します」
「そうだな。そんな日もある」
平然と答えたつもりだが、俺だって心中穏やかでいられるはずがない。あなたに袖を引っ張られて、いじらしい姿を見せられて、なおも冷静でいられるならば。それはただの朴念仁だ。
「学校から家までの二十分ほどのことですものね。大丈夫ですよ」
そう。たったの二十分だ。他人が聞けば、つまらないことで寂しがるなと叱られるかもしれない。けれど、当たり前のように毎日一緒に登下校していると、あなたと離れるその距離が、たいそう遠く感じられることだろう。
翠子さんを抱き寄せて、そのひたいにくちづける。
彼女も俺と同じ思いなのか、背中に手をまわしてしがみついてきた。あれほど楽しみにしていたさくらんぼを残したままで。
「銀司がついていてくれるし、この家に戻ればお清だっている。あなたを独りきりにするわけではない」
「ええ……」
「参ったな。そんな様子では、俺は出張があっても出かけにくくなる」
「分かっているんです、我儘だと。でも、寂しくないなんて嘘はつけないんです」
翠子さんの薄紅の唇からこぼれる言葉は、まるで儚い結晶だ。けれど、そのきらめく結晶は澄んでいるのに虹色に煌めき、俺を捕らえて離さない。
他人には、理解されにくい寂しさだろう。何を甘えているんだと叱られるかもしれない。
だが、彼女は家族に捨てられた身だ。いや、ただ捨てられたのではなく社員の生活を救い、叔父の虚栄心を満たすために家族から手放された。
愛情が不変でないことを嫌というほど知っている翠子さんを、寂しがるなと叱ることなんてできやしない。
◇◇◇
翌日。女学校には他校の先生方がいらっしゃいました。
授業もご覧になるので、日中緊張が続きました。
わたくしの学級は校庭で体育の参観で、内容は徒競走です。
体育の時間は、着物の両の袂をたすき掛けにして背中にまわします。もっとハイカラな女学校ではセーラー服にひざ丈のブルマを履くそうですが、うちの学校は袴の前後の紐を折り曲げて、裾を短くします。
「恥ずかしいわね。見知らぬ先生に見られるのは」
文子さんが、短めの袴をしきりに気になさっています。
他校の先生の案内をなさっているのは、校長先生と教頭先生です。高瀬先生は授業中なのかお姿が見えません。
学校では、会えない時間の方が多いのが当たり前なのですけど。なんだか今日は不安です。帰りの約束がないからでしょうか。
◇◇◇
俺は二階の教室の窓辺から、校庭を見下ろしていた。
ちょうど今は六年生に数学の問題を解かせているところだ。さらさらと帳面を走る鉛筆の音をさせているのは、ごく少数で、ほとんどの女生徒の手は止まっている。
ああ、翠子さんが走る番だ。隣は友人の深山文子さん。
窓を開いた教室に、号令の音が聞こえた。背中にまわした袂が、ひらひらとなびいてまるで蝶のようだ。二本のおさげにした髪も、風を受けて左右に揺れる。
彼女の走りは……まぁ、あまり言及しないでおこう。とりあえず翠子さんにとってはゴールの白い紐よりも、まずは深山文子さんの背中を追いかけることが最重要課題のようだ。
「あっ」
俺は思わず声を上げてしまった。
「先生。どうかなさいましたか?」
「いや、何でもない」
ふー、剣呑剣呑。もう少しで「危ない」と口に出してしまうところだった。
翠子さんがよろけて転びそうになったからな。だが、なんとか体勢を整えて、また走りだした姿を見て俺は安堵の息をついた。
ああ、もう。怪我なんかしたら、次の休み時間に俺は翠子さんの元へ行ってしまいそうだ。
頼むから、最後まで転ぶことなく走ってくれ。
同じ班の女生徒二人がゴールし、それに続いて深山さん、最後に翠子さんが走り終えた。肘は開いているし、足も上がっていないし……彼女の運動音痴っぷりはよく見せてもらった。
だがまぁ、よかった。転ばずに済んで。
と思ったのも束の間、深山さんと談笑しながら歩いていた翠子さんがつまずいた。
なんでだ! そこに石なんかないだろうが。
さすがに声には出さなかったが、顔には出ていたらしい。
一番前の生徒が、怪訝な表情で俺を見上げる。
案ずるな、女生徒よ。今はまだ問題を解かせている時間だ。授業放棄ではないぞ。
倒れそうになった翠子さんの腕を、とっさに深山さんが掴む。
いいぞ、深山さん。よくやった。先日、俺のことを目の前で怖いと言った無礼は許してやろう。
しかし、なんか……あれだな。恋人を心配するというよりも、保護者的な感覚になってやしないか?
あれほど、お兄ちゃんと呼ばれるのを拒否しているのは、俺自身が翠子さんの保護者になりやすいからか。
壁の時計を見ると、予定の時間になっていた。
「では、川森さん。前に出て問題を解いてください」
さて、翠子さんの「旦那さま」の時間はもう終わりだ。
俺は、うなだれながら黒板へと進んだ川森さんに、白墨を渡した。
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