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七章
14、旦那さまは可愛いのですから
翌朝、旦那さまと共に登校していると、女学校の近くに銀司さんの姿がありました。
まだ高瀬家での仕事の時間ではありません。ゆっくりなさりたいでしょうに、地面を見ながら行きつ戻りつしています。声をかけるには相当に距離があります。
きっと燐寸を探していらっしゃるのでしょう。
その日、わたくしは授業中も気がそぞろでした。大切な燐寸を早くお返ししなければと、そればかりを考えて、いつも以上に授業に身が入りません。
「いたっ」
お裁縫の時間、わたくしは針を指に刺してしまいました。
裁板の上で、袋物をこしらえている時でした。指先からぷっくりと血が盛り上がったと思うと、赤い一筋が垂れました。
「まぁ大変。笠井さん、職員室へお行きなさい。いらっしゃる先生に、お薬箱を出してもらうといいわ」
裁縫の先生に勧められて、一人職員室へと向かいます。文子さんが「ついていきましょうか?」と言ってくださるのを、丁寧にお断りします。裁縫が遅れれば、持ち帰りの宿題になってしまいますから。
「失礼します」と断って、職員室に入ると、そこには高瀬先生がいらっしゃいました。先生お一人だけです。
まぁ、なんと嬉しいことでしょう。
偶然とはいえ、お会いできるなんて。
「あれ? み……笠井さん。どうかしたのか。今は授業中だろ」
「あ、はい。その、お裁縫で指を怪我してしまいまして」
高瀬先生は椅子を倒しそうな勢いで立ち上がると、慌てた様子でわたくしの元へいらっしゃいました。
「大丈夫か? どこだ。右手……いや、左手か」
「たいしたことはないんです」
わたくしは怪我をした左手を上げましたが、いつの間にか指先から血がたらりと流れていました。
「え? ひゃあ」
もう血は止まっているとばかり思っていたので、たいした出血でもないのに、したたる血に目眩がしました。
ふわっとした浮遊感の後、わたくしの体は高瀬先生に抱きとめられました。
「済まない。今のは倒れて頭を打つと危ないから」
「あ、はい。ありがとうございます」
不思議です。家ではしょっちゅう抱きしめられているというのに。場所が変わっただけで、こんなにもぎこちないのですから。
「立っているとよくないから、椅子に腰かけなさい。いや、歩かない方がいいか」
そう仰ると、先生はわたくしを横抱きになさいました。
ま、待ってください。ここは職員室です。ええ、きっと先生はわたくしでなくても、女生徒が貧血でも起こそうものならこうして軽々と運ぶでしょうけれど。
でも、家での……先生ではなくて旦那さまの、あの抱き上げられる感覚が甦って。わたくしは身を小さくして瞼をぎゅっと閉じました。
「えーと、薬箱ってどこなんだ?」
どきどきしているのはわたくしばかりで、先生はわたくしを椅子に座らせると、急いだ様子で戸棚の引き出しを順に開けておられます。
「みどり……笠井さん。指を心臓よりも低い位置に置くんじゃないぞ」と、指示なさいながら。
薬箱を見つけたらしい先生は、蓋を開いて肩を落としました。
なぜか手には、ねじ回しとトンカチが。
「違う。工具箱じゃない、薬箱はどこだ」
次の箱を開けると、今度は「裁縫箱、お前じゃない」と肩を落としておられます。
そんな後ろ姿を眺めていると、指先はじんじんと痛むのに、なぜか顔がほころんできました。
「かわいいです」
「うん、そうだな。翠子さんは可愛い。って、しまった。ここは学校か。笠井さんは可愛い……? いや、担任が口にしてはまずいだろ」
「いえ、かわいいのは先生です」
「へ?」
先生は珍妙な声を出して、振り返りました。右手には誰かの先生のお土産なのか、お茶請け用の菓子箱、左手には薬箱を持っていらっしゃいます。
「よかったです。薬箱が見つかって」
「いや、待て翠子さん。今、聞き捨てならないことを言っただろ」
「先生、ここは学校ですよ」
「じゃあ、家に帰ってから聞くとしよう」
渋々といったご様子で、先生はわたくしの元へいらっしゃいました。手には菓子箱を持って。
「おいしそうですね」
「なんでだ!」
「なぜでしょうね」
先生が取りだしたのは包帯ではなく、薄茶色の皮の温泉まんじゅうでした。
菓子箱は紙でできており、薬箱は木箱です。どうしたら間違えられるのでしょう。
どきどきしていたのはわたくしばかりではなく、先生もだったのですね。
もう、可愛くて。大好きです。
まだ高瀬家での仕事の時間ではありません。ゆっくりなさりたいでしょうに、地面を見ながら行きつ戻りつしています。声をかけるには相当に距離があります。
きっと燐寸を探していらっしゃるのでしょう。
その日、わたくしは授業中も気がそぞろでした。大切な燐寸を早くお返ししなければと、そればかりを考えて、いつも以上に授業に身が入りません。
「いたっ」
お裁縫の時間、わたくしは針を指に刺してしまいました。
裁板の上で、袋物をこしらえている時でした。指先からぷっくりと血が盛り上がったと思うと、赤い一筋が垂れました。
「まぁ大変。笠井さん、職員室へお行きなさい。いらっしゃる先生に、お薬箱を出してもらうといいわ」
裁縫の先生に勧められて、一人職員室へと向かいます。文子さんが「ついていきましょうか?」と言ってくださるのを、丁寧にお断りします。裁縫が遅れれば、持ち帰りの宿題になってしまいますから。
「失礼します」と断って、職員室に入ると、そこには高瀬先生がいらっしゃいました。先生お一人だけです。
まぁ、なんと嬉しいことでしょう。
偶然とはいえ、お会いできるなんて。
「あれ? み……笠井さん。どうかしたのか。今は授業中だろ」
「あ、はい。その、お裁縫で指を怪我してしまいまして」
高瀬先生は椅子を倒しそうな勢いで立ち上がると、慌てた様子でわたくしの元へいらっしゃいました。
「大丈夫か? どこだ。右手……いや、左手か」
「たいしたことはないんです」
わたくしは怪我をした左手を上げましたが、いつの間にか指先から血がたらりと流れていました。
「え? ひゃあ」
もう血は止まっているとばかり思っていたので、たいした出血でもないのに、したたる血に目眩がしました。
ふわっとした浮遊感の後、わたくしの体は高瀬先生に抱きとめられました。
「済まない。今のは倒れて頭を打つと危ないから」
「あ、はい。ありがとうございます」
不思議です。家ではしょっちゅう抱きしめられているというのに。場所が変わっただけで、こんなにもぎこちないのですから。
「立っているとよくないから、椅子に腰かけなさい。いや、歩かない方がいいか」
そう仰ると、先生はわたくしを横抱きになさいました。
ま、待ってください。ここは職員室です。ええ、きっと先生はわたくしでなくても、女生徒が貧血でも起こそうものならこうして軽々と運ぶでしょうけれど。
でも、家での……先生ではなくて旦那さまの、あの抱き上げられる感覚が甦って。わたくしは身を小さくして瞼をぎゅっと閉じました。
「えーと、薬箱ってどこなんだ?」
どきどきしているのはわたくしばかりで、先生はわたくしを椅子に座らせると、急いだ様子で戸棚の引き出しを順に開けておられます。
「みどり……笠井さん。指を心臓よりも低い位置に置くんじゃないぞ」と、指示なさいながら。
薬箱を見つけたらしい先生は、蓋を開いて肩を落としました。
なぜか手には、ねじ回しとトンカチが。
「違う。工具箱じゃない、薬箱はどこだ」
次の箱を開けると、今度は「裁縫箱、お前じゃない」と肩を落としておられます。
そんな後ろ姿を眺めていると、指先はじんじんと痛むのに、なぜか顔がほころんできました。
「かわいいです」
「うん、そうだな。翠子さんは可愛い。って、しまった。ここは学校か。笠井さんは可愛い……? いや、担任が口にしてはまずいだろ」
「いえ、かわいいのは先生です」
「へ?」
先生は珍妙な声を出して、振り返りました。右手には誰かの先生のお土産なのか、お茶請け用の菓子箱、左手には薬箱を持っていらっしゃいます。
「よかったです。薬箱が見つかって」
「いや、待て翠子さん。今、聞き捨てならないことを言っただろ」
「先生、ここは学校ですよ」
「じゃあ、家に帰ってから聞くとしよう」
渋々といったご様子で、先生はわたくしの元へいらっしゃいました。手には菓子箱を持って。
「おいしそうですね」
「なんでだ!」
「なぜでしょうね」
先生が取りだしたのは包帯ではなく、薄茶色の皮の温泉まんじゅうでした。
菓子箱は紙でできており、薬箱は木箱です。どうしたら間違えられるのでしょう。
どきどきしていたのはわたくしばかりではなく、先生もだったのですね。
もう、可愛くて。大好きです。
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