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七章
17、大切なもの
ふいに銀司さんが椅子から立ち上がります。そして直立して、わたくしに向き直りました。
「ぼくは、この家に来るまで。旦那さまに会うまで、いくつか仕事をクビになっているんです。本当に覚えも要領も悪くて、無能なんです」
「わたくしには、そんな風には思えません」
だって、的確におじさまから隠してくださいました。旦那さまが見つけてくださるように、目印を地面に撒いて。あの燐寸は、銀司さんのものであると分かるのは旦那さまだけです。
地面に燐寸が落ちていたからといって、他の誰も気に留めることはないでしょう。
しかもとても大事な思い出の品です。
「銀司さんには行動力も決断力もおありです。そんな人が、無能な訳がありません」
わたくしは椅子に座ったままで、テーブル越しの銀司さんを見上げます。銀司さんは、なぜか困ったような、今にも泣きだしそうな笑顔を浮かべました。
「昔、旦那さまにも同じことを言ってもらえました。銀司、お前はちゃんと仕事の手順を教えてもらっていないんだ、と。相手に訊いたとしても『見て覚えろ』と言われたんじゃないか、と。確かにその通りだったんです」
隣の席に座っていらっしゃる旦那さまは、小さくうなずきました。そして仰いました。
「『見て覚えろ』『技術は盗め』は言う方は簡単だ。だが奴らは気づいていない。仕事の手順を言語化する能力が自分にないことを、間違えやすい部分をまとめる労力を放棄している事実を。仕事や技術を継承することは、本来論理的でなければならない。感覚に頼っていたら、勘の鋭い者にしか伝えられない」
わぁ、一刀両断です。
これは銀司さんがこれまでお仕えしてきたお家の人に対して、相当怒っていらっしゃるのですね。
「自分に教える力がない者の傲慢な意見を、むやみに信じるな。銀司、お前は仕事ができる男だ」
「旦那さま……」
銀司さんは燐寸箱を抱きしめて、深々と頭を下げました。
「俺は、旦那さまと翠子さまを主として、これからも心を込めてお仕えします」
顔を上げた銀司さんは、わたくしが初めて見るとても鮮やかな笑顔でした。
南の島で育ったという銀司さん。ええ、きっと子どもの頃はこんな輝く表情で、翡翠から瑠璃の色へと変化する澄んだ海で遊んでいるのが想像できる、それはもうとびきりの笑顔だったのです。
「そういえば欧之丞さま。買い物に出かけたときに、琥太郎さまにお会いしましたよ」
お清さんに話しかけられた旦那さまは、神妙な表情を浮かべました。
「琥太郎兄さんか。何か言っていたか?」
「欧之丞さまに渡したいものがあると仰っていましたよ」
「分かった。ありがとう。お清」
琥太郎さんって誰でしょう、と首を傾げたわたくしに「欧之丞さまの幼馴染みなんですよ。尋常小学校と高等学校がご一緒でねぇ。大学は違うんですけど、下宿先は同じだったんですよ」と、お清さんが教えてくださいました。
いいですね、幼馴染み。
残念なことにわたくしには、そういう素敵な存在はおりません。
部屋に戻ると、西日が前栽の木々の葉を穏やかに照らしていました。
にぎやかな蝉しぐれが聞こえるのに、お屋敷は不思議と静寂に包まれています。
旦那さまは縁側に座って、わたくしをお呼びになりました。
浴衣に着がえたわたくしは、藺草の座布団を敷いて隣に座ります。
「ありがとう、翠子さん。銀司があんなにも嬉しそうにしているのを、初めて見た」
「大事な物をいつまでも手放せない気持ちは、よく分かるんです。とくに……」
口ごもったわたくしを、旦那さまが見逃すわけがありません。
「なに?」と続きを喋るように促されます。
「とくに旦那さまの物は大事なんです。わたくしも、おそらく銀司さんも」
「俺の? まぁ、銀司が燐寸を大切にしてくれるのは分かるというか、ありがたいが」
旦那さまは、きょとんとした表情をなさいます。
もう、ご存じないのですね。わたくしがどれほどお慕いしているのか。
わたくしは箪笥に向かい、引き出しを開けました。座敷の奥まった部分は薄暗いので、電燈を点けます。
そして、この家に引き取られたときに持参した風呂敷包みを取りだしました。
そして中に入っているものを後ろ手に持って、旦那さまの背後に回ります。
「翠子さん?」
「ほら、これです。わたくしの大事な物は」
そう言って、旦那さまの首にふわりとそれを巻きつけました。
「ぼくは、この家に来るまで。旦那さまに会うまで、いくつか仕事をクビになっているんです。本当に覚えも要領も悪くて、無能なんです」
「わたくしには、そんな風には思えません」
だって、的確におじさまから隠してくださいました。旦那さまが見つけてくださるように、目印を地面に撒いて。あの燐寸は、銀司さんのものであると分かるのは旦那さまだけです。
地面に燐寸が落ちていたからといって、他の誰も気に留めることはないでしょう。
しかもとても大事な思い出の品です。
「銀司さんには行動力も決断力もおありです。そんな人が、無能な訳がありません」
わたくしは椅子に座ったままで、テーブル越しの銀司さんを見上げます。銀司さんは、なぜか困ったような、今にも泣きだしそうな笑顔を浮かべました。
「昔、旦那さまにも同じことを言ってもらえました。銀司、お前はちゃんと仕事の手順を教えてもらっていないんだ、と。相手に訊いたとしても『見て覚えろ』と言われたんじゃないか、と。確かにその通りだったんです」
隣の席に座っていらっしゃる旦那さまは、小さくうなずきました。そして仰いました。
「『見て覚えろ』『技術は盗め』は言う方は簡単だ。だが奴らは気づいていない。仕事の手順を言語化する能力が自分にないことを、間違えやすい部分をまとめる労力を放棄している事実を。仕事や技術を継承することは、本来論理的でなければならない。感覚に頼っていたら、勘の鋭い者にしか伝えられない」
わぁ、一刀両断です。
これは銀司さんがこれまでお仕えしてきたお家の人に対して、相当怒っていらっしゃるのですね。
「自分に教える力がない者の傲慢な意見を、むやみに信じるな。銀司、お前は仕事ができる男だ」
「旦那さま……」
銀司さんは燐寸箱を抱きしめて、深々と頭を下げました。
「俺は、旦那さまと翠子さまを主として、これからも心を込めてお仕えします」
顔を上げた銀司さんは、わたくしが初めて見るとても鮮やかな笑顔でした。
南の島で育ったという銀司さん。ええ、きっと子どもの頃はこんな輝く表情で、翡翠から瑠璃の色へと変化する澄んだ海で遊んでいるのが想像できる、それはもうとびきりの笑顔だったのです。
「そういえば欧之丞さま。買い物に出かけたときに、琥太郎さまにお会いしましたよ」
お清さんに話しかけられた旦那さまは、神妙な表情を浮かべました。
「琥太郎兄さんか。何か言っていたか?」
「欧之丞さまに渡したいものがあると仰っていましたよ」
「分かった。ありがとう。お清」
琥太郎さんって誰でしょう、と首を傾げたわたくしに「欧之丞さまの幼馴染みなんですよ。尋常小学校と高等学校がご一緒でねぇ。大学は違うんですけど、下宿先は同じだったんですよ」と、お清さんが教えてくださいました。
いいですね、幼馴染み。
残念なことにわたくしには、そういう素敵な存在はおりません。
部屋に戻ると、西日が前栽の木々の葉を穏やかに照らしていました。
にぎやかな蝉しぐれが聞こえるのに、お屋敷は不思議と静寂に包まれています。
旦那さまは縁側に座って、わたくしをお呼びになりました。
浴衣に着がえたわたくしは、藺草の座布団を敷いて隣に座ります。
「ありがとう、翠子さん。銀司があんなにも嬉しそうにしているのを、初めて見た」
「大事な物をいつまでも手放せない気持ちは、よく分かるんです。とくに……」
口ごもったわたくしを、旦那さまが見逃すわけがありません。
「なに?」と続きを喋るように促されます。
「とくに旦那さまの物は大事なんです。わたくしも、おそらく銀司さんも」
「俺の? まぁ、銀司が燐寸を大切にしてくれるのは分かるというか、ありがたいが」
旦那さまは、きょとんとした表情をなさいます。
もう、ご存じないのですね。わたくしがどれほどお慕いしているのか。
わたくしは箪笥に向かい、引き出しを開けました。座敷の奥まった部分は薄暗いので、電燈を点けます。
そして、この家に引き取られたときに持参した風呂敷包みを取りだしました。
そして中に入っているものを後ろ手に持って、旦那さまの背後に回ります。
「翠子さん?」
「ほら、これです。わたくしの大事な物は」
そう言って、旦那さまの首にふわりとそれを巻きつけました。
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