【第一部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

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七章

25、蚊のせいで【2】

 旦那さまは燐寸を擦りますが、なかなか火がつきません。

「おかしいな。湿っているのかな」
「早くしてください。お願いです」

 時計の針のカチカチという音が、妙に大きく聞こえます。耳の近くを刺されているせいでしょうか。脈打つ音もやかましいほどです。
 それに、あの憎い蚊の、小馬鹿にしたようなぷーんという羽音。

 ああ、三か所が同時に熱を持ち、かゆみを主張してわたくしをさいなみます。

「……っ、く……ぅ」

 少しでも、ほんのわずかでも、このかゆさが収まるのであれば。わたくしは拘束されたまま足を布団にこすりつけました。
 あと少し。違うの、指の付け根ではなくて、足の甲なの……。
 必死に身悶えていると、旦那さまに抱き上げられました。

「言うことを聞かない人だな」
「でも……」
「おとなしく待っていなさいと言ったはずだ」

 わたくしを見下ろす旦那さまの目は、怒っていらっしゃいます。蚊遣りの煙が立ちのぼり、蚊帳の中で揺らぎ始めました。

「だ、旦那さまには分からないのです」

 刺された部分に、心臓が散らばっているかのように、どくどくとあちこちで脈打ちます。

「掻きませんから、解いてください」
「見え透いた嘘をつかれて、はいそうですかと言えるはずなどない」

 蚊帳を吊るすには、天井近くの長押なげしに額受けの金具を差して、そこに蚊帳の吊り手をひっかけます。
 だんなさまはわたくしの両腕を上げさせたと思うと、手首の結び目にさらに帯紐を通して、その先を蚊帳ごと金具に掛けてしまいます。

「何をなさるんですか」
「安心しなさい。お仕置きでも折檻でもないから」

 でも、寝間着姿で手も足も縛られた状態で、腕を上げさせられて。こんなの折檻としか思えません。

 旦那さまは「薬を探してくるから」と言い置いて、廊下に出て行ってしまいました。
 わたくし一人が、部屋に残されている状態です。

 なぜこんなことになったのでしょう。蚊のせいなのに、なぜわたくしがこんな辱めを。
 かゆみは一向に引かず、恥ずかしい格好で放置されて、時間ばかりが過ぎていきます。

 庭から蛙の鳴く声が聞こえました。外は暗いので分かりませんが、地面よりは上から聞こえてくるように思えます。もしかすると大きなヤツデの葉に、蛙が乗っているのかもしれません。

 だとすると、わたくしの惨めな姿は、蛙からは丸見えでしょう。そういえば、西洋の童話で蛙にされた王? いえ、王子でしたからしら……そんな話があったような。
 ああ、蛙にされた王子は、こんな破廉恥なわたくしをご覧になって驚いているでしょう。
 国に戻れば、東洋で妙な経験をしたと王女に話して聞かせるのでしょうか。
 高貴な方々の笑い者になるなんて、耐えられません。

 ああ、何やら足音まで聞こえてきます。
 蛙が王子に変身したのでしょうか。
 こんな翠子を見て、お笑いにならないでください。

「う……っ、ぐす……っ」
「翠子さん、大丈夫か? 泣くほどかゆさが辛いのか?」

 襖を開けて、旦那さまが戻っていらっしゃいました。そうです、蛙の王子よ。この方がわたくしを責め苛む魔王なのです。
 
「旦那さまは悪役です」
「何を訳の分からんことを」

 吊るされていた帯紐が解かれると、わたくしは旦那さまの腕に抱きとめられました。足がよろめきましたが、しっかりと受け止められます。

「あなたを縛って吊るすなど、褒められた方法ではないが。さほど時間も経っていないし、掻いて痕が残ることもないだろう」

 壁の時計を見上げた旦那さまは「まだ五分も経っていない」と仰いました。
 ようやくすべての紐から解放されたわたくしは、やはり刺されて膨れた部分に手を伸ばしました。

「まったく言うことを聞かないね、今夜は」

 旦那さまが手にした茶色い小瓶のふたを開けると、つんと鼻を衝く刺激臭がしました。蓋の先についた棒状のガラスに液体をひたして、蚊に刺された足の甲に塗ってくださいます。

「沁みないだろう?」
「……はい」
「掻いたら、沁みて痛くて大変なんだ。ほら、腕と首を出しなさい」

 寝間着の袖をめくってかゆみ止めを塗ってもらい、次は髪を手であげて首筋を旦那さまに向けます。

「あぁ、赤く腫れてしまっている」
「魔王に縛られたわたくしが、その魔王に助けられるなんて」
「……君の妄想が逞しいのが分かったよ」

 首に塗られたかゆみ止めが、たらりと垂れて衿の中へ伝います。その濡れた感触に、少しぞわりと肌が粟立ちます。
 悔しいですけど、ぷんぷんとかゆみ止めのにおいをさせていますけど、魔王に助けられたのは事実です。
 ですが、次に魔王が蚊に刺されたら、わたくしが縛り上げたいと思います。
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