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八章
3、宵祭り【1】
翠子さんは、組み立てられていく夜店をきらきらした瞳で見つめている。
「こら、そんなにゆっくりしていては遅刻だぞ」
「先生はお先にどうぞ」
「目の前で遅刻しそうな生徒を、置いていくなどできないだろう?」
「いえいえ、お気遣いなく」
腕を引っ張っても、翠子さんはなかなか歩き出そうとしない。一緒に暮らす前は、翠子さんはたまに遅刻することがあったが。
使用人を雇う余裕のなくなった笠井家で家事をしていたのも理由だろうが、そればかりではない気がしてきた。
君、興味を引くものがあると、こうして足止めを食らっていたのだな。
「あ、先生。猫です」
「そりゃいるだろ。猫くらい」
翠子さんは、尻尾をぴんと立て金色の毛を朝日に輝かせた猫を、まぶしそうに眺めている。
それはそれは美しく、しなやかな猫だった。
「わたくし、猫って抱っこしたことがないんです」
「それは珍しいな」
「子どもの頃、うちの庭に迷い込んだ猫を撫でたら父に叱られたんです。汚いから触るんじゃないって」
それはまた笠井男爵も厳しいことだ。
「いいですね。一度、撫でてみたいです。ふわふわなんでしょう? 撫でるとごろごろと音がするって本当ですか?」
「本当だよ」
ただし、嫌がっているのにむりやり撫でても音はしないが。
夜店に猫、ここは翠子さんを立ち止まらせる罠が多すぎる。というか、翠子さん。君は十六という年齢の割に、子どもが普通にやってきていることを知らなさすぎるのではないか?
まぁ、それを教えるのが俺の役目でもあるか。
「遅刻せずにちゃんと登校したら、宵祭りに連れてきてやるんだがな」
「本当ですか?」
「ああ、でも翠子さんは夜店の組み立てを見学するんだよな。仕方ないな、俺は先に登校するとしよう」
彼女に背を向けて、道を歩き出す。
すぐに後ろから小走りに近づいてくる足音が聞こえた。
まったく、最初から素直に言うことを聞いていればいいものを。
◇◇◇
その日は宵祭りに行けるということで、うきうきして授業が身に入りませんでした。
夜店ということは縁日ですよね。これまでそういったものに出かけた経験がないので、本当に楽しみです。
ちゃんとした店舗ではない露店で買い物をすることも、買い食いをすることも両親に禁じられていましたし。旦那さまと一緒だと、初めてのことがいっぱいです。
夜の川辺で草むらを飛び交う蛍を眺めるなんて、かつての自分では考えられませんでした。
家と学校の往復、それとお稽古ごとのピアノ。ソシアルダンスも子どもの頃から習いました。
男爵家の娘として必要だからと習わされましたが。どちらも得意ではなく、上達はしませんでした。
笠井の家が没落してからは、慣れぬ家事ばかりで。
わたくし、人並みの遊びを知らぬままだったのですね。
放課後。
帰り道の神社では、朝よりも随分と露店や屋台が組み立てられていました。
まだ日暮れには早いので、お店は開いていません。それでも垂れ幕や幟を見ているだけでも楽しいです。
「旦那さま、ベビーカステラですって。どんなのかしら」
「丸いころっとしたカステラだな」
「四角くないのですか? 画期的ですね」
隣の屋台に目を向けると、長方形の大きな桶に水が張られています。眺めていると、お店のおじさんがボウルからざばっと水を流しいれました。
その中で跳ねる朱色の魚。
「金魚です」
「そうだよ。嬢ちゃんも後で掬いにおいで」
「……釣るのではなく?」
そう言いかけたわたくしの口を、旦那さまが大きな手でふさぎます。
「ポイっていうんだよな、おじさん。針金を輪にして、和紙を張るんだ。それで金魚を掬うんだ」
「おう、仲のいい兄妹だな。兄さん、あとで妹さんを連れてきてやんな」
「……妹」
何気に旦那さまがへこんでしまわれました。
家に戻り、わたくしは浴衣に着がえました。青磁色の総絞りの浴衣は、まるで夏空を写し取ったようです。紺色の帯は、海の色。そして桃色の珊瑚の帯留めが愛らしいです。
旦那さまは洋装に、中折れ帽子を目深にかぶっていらっしゃいます。
「夜なのに、帽子がいりますか?」
「そりゃあな、人出が多いから。学校の生徒に会う可能性もあるだろう?」
それもそうですね。宵祭りに行きたいなんて、無理を言ってしまったでしょうか。
「とはいえ、せっかくの逢引きを邪魔されたくないし、諦めるつもりもない」
「そんな嬉しいことを仰ってくださると、わたくし調子に乗ってしまいますよ」
「今朝、遅刻しなかったから。そのご褒美だな」
旦那さまは、わたくしを甘やかします。
でも、それが心地よいので。存分に甘えたいです。
わたくしは彼の腕に手をかけて、顔を見上げると、にっこりと微笑みました。
旦那さまもつられて笑みを浮かべます。そんな旦那さまが大好きです。
「こら、そんなにゆっくりしていては遅刻だぞ」
「先生はお先にどうぞ」
「目の前で遅刻しそうな生徒を、置いていくなどできないだろう?」
「いえいえ、お気遣いなく」
腕を引っ張っても、翠子さんはなかなか歩き出そうとしない。一緒に暮らす前は、翠子さんはたまに遅刻することがあったが。
使用人を雇う余裕のなくなった笠井家で家事をしていたのも理由だろうが、そればかりではない気がしてきた。
君、興味を引くものがあると、こうして足止めを食らっていたのだな。
「あ、先生。猫です」
「そりゃいるだろ。猫くらい」
翠子さんは、尻尾をぴんと立て金色の毛を朝日に輝かせた猫を、まぶしそうに眺めている。
それはそれは美しく、しなやかな猫だった。
「わたくし、猫って抱っこしたことがないんです」
「それは珍しいな」
「子どもの頃、うちの庭に迷い込んだ猫を撫でたら父に叱られたんです。汚いから触るんじゃないって」
それはまた笠井男爵も厳しいことだ。
「いいですね。一度、撫でてみたいです。ふわふわなんでしょう? 撫でるとごろごろと音がするって本当ですか?」
「本当だよ」
ただし、嫌がっているのにむりやり撫でても音はしないが。
夜店に猫、ここは翠子さんを立ち止まらせる罠が多すぎる。というか、翠子さん。君は十六という年齢の割に、子どもが普通にやってきていることを知らなさすぎるのではないか?
まぁ、それを教えるのが俺の役目でもあるか。
「遅刻せずにちゃんと登校したら、宵祭りに連れてきてやるんだがな」
「本当ですか?」
「ああ、でも翠子さんは夜店の組み立てを見学するんだよな。仕方ないな、俺は先に登校するとしよう」
彼女に背を向けて、道を歩き出す。
すぐに後ろから小走りに近づいてくる足音が聞こえた。
まったく、最初から素直に言うことを聞いていればいいものを。
◇◇◇
その日は宵祭りに行けるということで、うきうきして授業が身に入りませんでした。
夜店ということは縁日ですよね。これまでそういったものに出かけた経験がないので、本当に楽しみです。
ちゃんとした店舗ではない露店で買い物をすることも、買い食いをすることも両親に禁じられていましたし。旦那さまと一緒だと、初めてのことがいっぱいです。
夜の川辺で草むらを飛び交う蛍を眺めるなんて、かつての自分では考えられませんでした。
家と学校の往復、それとお稽古ごとのピアノ。ソシアルダンスも子どもの頃から習いました。
男爵家の娘として必要だからと習わされましたが。どちらも得意ではなく、上達はしませんでした。
笠井の家が没落してからは、慣れぬ家事ばかりで。
わたくし、人並みの遊びを知らぬままだったのですね。
放課後。
帰り道の神社では、朝よりも随分と露店や屋台が組み立てられていました。
まだ日暮れには早いので、お店は開いていません。それでも垂れ幕や幟を見ているだけでも楽しいです。
「旦那さま、ベビーカステラですって。どんなのかしら」
「丸いころっとしたカステラだな」
「四角くないのですか? 画期的ですね」
隣の屋台に目を向けると、長方形の大きな桶に水が張られています。眺めていると、お店のおじさんがボウルからざばっと水を流しいれました。
その中で跳ねる朱色の魚。
「金魚です」
「そうだよ。嬢ちゃんも後で掬いにおいで」
「……釣るのではなく?」
そう言いかけたわたくしの口を、旦那さまが大きな手でふさぎます。
「ポイっていうんだよな、おじさん。針金を輪にして、和紙を張るんだ。それで金魚を掬うんだ」
「おう、仲のいい兄妹だな。兄さん、あとで妹さんを連れてきてやんな」
「……妹」
何気に旦那さまがへこんでしまわれました。
家に戻り、わたくしは浴衣に着がえました。青磁色の総絞りの浴衣は、まるで夏空を写し取ったようです。紺色の帯は、海の色。そして桃色の珊瑚の帯留めが愛らしいです。
旦那さまは洋装に、中折れ帽子を目深にかぶっていらっしゃいます。
「夜なのに、帽子がいりますか?」
「そりゃあな、人出が多いから。学校の生徒に会う可能性もあるだろう?」
それもそうですね。宵祭りに行きたいなんて、無理を言ってしまったでしょうか。
「とはいえ、せっかくの逢引きを邪魔されたくないし、諦めるつもりもない」
「そんな嬉しいことを仰ってくださると、わたくし調子に乗ってしまいますよ」
「今朝、遅刻しなかったから。そのご褒美だな」
旦那さまは、わたくしを甘やかします。
でも、それが心地よいので。存分に甘えたいです。
わたくしは彼の腕に手をかけて、顔を見上げると、にっこりと微笑みました。
旦那さまもつられて笑みを浮かべます。そんな旦那さまが大好きです。
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