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八章
12、からかっていますね
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今日は疲れたので、わたくしは早々に布団に入りました。
蚊帳の外では、蚊遣りの煙が薄く揺らめいています。少し湿度のある夜風に吹かれて、前栽の柳の葉が気だるげに揺れました。
旦那さまは、文机に向かって琥太郎さんから渡された手紙に目を通しておられます。
浴衣の背中をじっと見つめるわたくしの視線に気づいたのでしょう。旦那さまが振り返って微笑みます。
「どうした? 眩しくて眠れないのか?」
「いえ、そういうわけでは」
いつもと同じ部屋、いつもと同じ旦那さまの姿。それを眺めているだけで、安心するんです。
「宵祭りに連れて行ってくださって、ありがとうございます」
「楽しんでいただけましたか? お嬢さま」
「はい。また連れて行ってくださってもよろしくてよ」
高慢な物言いで返してみると、旦那さまは一瞬意外な顔をなさりましたが、すぐに笑みを浮かべました。
文机から離れて、わたくしの傍に腰を下ろすと頭を撫でてくださいます。
「明日の夕方、琥太郎兄さんと出かける予定ができたんだ。ちゃんとあなたを家に送り届けてから出かけるから。留守番できるね」
「はい」
「まぁ、家にお清も銀司もいるから寂しいということはないか。明日は二人には泊まり込んでもらうから、あなたが一人きりになることはないが」
「その日の内にお戻りにならないんですか?」
「汽車で少し遠出をね。基本的に向こうで一泊することになる」
わたくしは頭に載せられた旦那さまの手を、自分の頬に触れさせました。
「寂しいですよ。他に何人いても、誰がいても。旦那さまがいらっしゃらないと、翠子は胸にぽっかりと穴が開いてしまいそうです」
「よく意地悪をするのに?」
そう問いかける旦那さまは、なぜか笑いをこらえるように唇を噛みしめていらっしゃいます。
「い、意地悪は嫌いです。でも、旦那さまのことは好きです」
旦那さまの肩が小刻みに震えだしました。そのせいで、わたくしの頬を撫でる大きな手も震えています。
なのに、目は細めていらっしゃるのに、口はへの字に結んで。妙なお顔をなさっています。
「あ、あの。わたくし変なことを申しましたか」
「も……いっかい」
「はい?」
「さっきの科白をもう一回だよ」
促されるままに「意地悪は嫌いですけど、旦那さまのことは好きです」と伝えます。
今度はちゃんと聞き取れたはずなのに「後半部分をもう一度」なんて仰います。
これは、からかっていますね。
「ちゃんと言いました。わたくしはもう寝ますよ」
「ああ、ニッポノホンが欲しいなぁ。それであなたを蓄音機屋に連れていくんだ」
わたくしの頬を撫でながら、旦那さまが突拍子もないことを仰います。しかも脈絡がありません。
ニッポノホンは明治の頃から売られている蓄音機です。朝顔形のラッパがついた、相当に高価なものですよ。確かこの間、海岸通りのショーウインドーで八十円の値がついていたように思います。
通りすがりの殿方が「俺の月給よりもずいぶんと高いなぁ」と話していたのを聞いた覚えがあります。
「聴きたいレコードでもあるんですか?」
「聴きたいレコードを作るんだよ。蓄音機屋で、翠子さんの声をレコードに録音してもらうんだ。そうすればいつでも翠子さんの声が聴けるからな」
「わたくし、歌はお世辞にもうまいとは言えませんよ」
「だろうね」
まぁ、なんて失礼な。もう、知りません。
わたくしは夏布団を頭までかぶりました。こうすれば意地悪な旦那さまの顔を見ずに済みます。
蚊帳の外では、蚊遣りの煙が薄く揺らめいています。少し湿度のある夜風に吹かれて、前栽の柳の葉が気だるげに揺れました。
旦那さまは、文机に向かって琥太郎さんから渡された手紙に目を通しておられます。
浴衣の背中をじっと見つめるわたくしの視線に気づいたのでしょう。旦那さまが振り返って微笑みます。
「どうした? 眩しくて眠れないのか?」
「いえ、そういうわけでは」
いつもと同じ部屋、いつもと同じ旦那さまの姿。それを眺めているだけで、安心するんです。
「宵祭りに連れて行ってくださって、ありがとうございます」
「楽しんでいただけましたか? お嬢さま」
「はい。また連れて行ってくださってもよろしくてよ」
高慢な物言いで返してみると、旦那さまは一瞬意外な顔をなさりましたが、すぐに笑みを浮かべました。
文机から離れて、わたくしの傍に腰を下ろすと頭を撫でてくださいます。
「明日の夕方、琥太郎兄さんと出かける予定ができたんだ。ちゃんとあなたを家に送り届けてから出かけるから。留守番できるね」
「はい」
「まぁ、家にお清も銀司もいるから寂しいということはないか。明日は二人には泊まり込んでもらうから、あなたが一人きりになることはないが」
「その日の内にお戻りにならないんですか?」
「汽車で少し遠出をね。基本的に向こうで一泊することになる」
わたくしは頭に載せられた旦那さまの手を、自分の頬に触れさせました。
「寂しいですよ。他に何人いても、誰がいても。旦那さまがいらっしゃらないと、翠子は胸にぽっかりと穴が開いてしまいそうです」
「よく意地悪をするのに?」
そう問いかける旦那さまは、なぜか笑いをこらえるように唇を噛みしめていらっしゃいます。
「い、意地悪は嫌いです。でも、旦那さまのことは好きです」
旦那さまの肩が小刻みに震えだしました。そのせいで、わたくしの頬を撫でる大きな手も震えています。
なのに、目は細めていらっしゃるのに、口はへの字に結んで。妙なお顔をなさっています。
「あ、あの。わたくし変なことを申しましたか」
「も……いっかい」
「はい?」
「さっきの科白をもう一回だよ」
促されるままに「意地悪は嫌いですけど、旦那さまのことは好きです」と伝えます。
今度はちゃんと聞き取れたはずなのに「後半部分をもう一度」なんて仰います。
これは、からかっていますね。
「ちゃんと言いました。わたくしはもう寝ますよ」
「ああ、ニッポノホンが欲しいなぁ。それであなたを蓄音機屋に連れていくんだ」
わたくしの頬を撫でながら、旦那さまが突拍子もないことを仰います。しかも脈絡がありません。
ニッポノホンは明治の頃から売られている蓄音機です。朝顔形のラッパがついた、相当に高価なものですよ。確かこの間、海岸通りのショーウインドーで八十円の値がついていたように思います。
通りすがりの殿方が「俺の月給よりもずいぶんと高いなぁ」と話していたのを聞いた覚えがあります。
「聴きたいレコードでもあるんですか?」
「聴きたいレコードを作るんだよ。蓄音機屋で、翠子さんの声をレコードに録音してもらうんだ。そうすればいつでも翠子さんの声が聴けるからな」
「わたくし、歌はお世辞にもうまいとは言えませんよ」
「だろうね」
まぁ、なんて失礼な。もう、知りません。
わたくしは夏布団を頭までかぶりました。こうすれば意地悪な旦那さまの顔を見ずに済みます。
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