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八章
13、愛情過多
「あぁ。ごめん、ごめん。そうではなくて」
旦那さまはわたくしの夏布団をめくろうとなさいますが。わたくしは必死でそれを阻止します
「翠子はもう寝ています」
「また、それ? じゃあ寝言でもいいから付き合ってくれ」
今更、焦ったような声を出しても知りませんよ。なのに、旦那さまは布団に向かって一生懸命語りかけてきます。
「俺、子どもの頃に猫を飼ったことがあるんだ。黒猫だが、まるで燕尾服を着ているかのように、首というか胸元が白くてな。それは美しく可愛らしい猫だった」
「初めて聞きます」
「うん、人に話したことはない。それでだな、あまりにも可愛すぎて、常に抱っこをして、その背やお腹を存分に吸い、何度も何度も頭と喉を撫でて……嫌われた」
それは嫌われますよ。ご存知ですか? 自業自得というんです。
「廊下で猫と鉢合わせをするだろう? すると、一歩後ずさって、脱兎のごとく逃げていくんだ。猫なのに。結局、その猫はお清に懐いてしまってな。俺の足音を聞くと、お清の後ろに隠れてしまうんだ」
旦那さまは遠い目をなさいました。
まぁぁ。なんと憐れな。
その時、胸の内に浮かんだ気持ちをなんと呼ぶのでしょう。
途方に暮れた少年の頃の旦那さまの姿を想像すると、愛おしくてなりません。
「好きなものとの、距離の取り方が難しいんだ。そうだ、銀司にも言われたことがある。旦那さまは花をお育てにならないでください、と。水をやりすぎて、根腐れしてしまうんだそうだ」
「今も昔も愛情過多なのですね」
「寝言で返事してくれて、ありがとう」
もう、しょうがありませんね。
それまで背中を向けていましたが、わたくしは旦那さまの方に向き直りました。
すぐに意地悪をなさるくせに、いじらしいことを仰るから。翠子はすぐに絆されてしまいます。
◇◇◇
翌朝、白い木造の校舎へ向かう翠子さんの背中を見送りつつ、俺は教員専用の玄関へと向かった。
今日の午後には、駅で琥太郎兄さんと待ち合わせだ。
「うぅ、気が重い」
授業の準備を整えてから、まずは受け持ちの学級へと向かう。
足取りが重いのは、学級へ向かうのが嫌なのではなく、夕方からの約束のせいだ。
そう、翠子さんの叔父、くそ馬鹿野郎の三木達比古の動きを完全に押さえるために、俺は花街へと向かわなくてはならないし、翠子さんに多大な我慢と辛抱を強いることになる。
「う……っ。無理だ」
廊下の途中で壁に頭をついて立ち止まると、途中のクラスのドアガールが、ひらひらと袂をひらめかしながら駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか、高瀬先生」
「まぁ、顔が真っ青。お加減が悪いのでは?」
ありがとう、優しいな。うちの学校の生徒は。
だが、そんな清らかな君たちには教えられないよ。先生は今夜、行きたくもない歓楽街に連れていかれるんだよ、とは。
琥太郎兄さんは「そんなん普通やろ」と言うのだが。あの人は三條組の若頭だからな。この辺りの歓楽街では顔だし、別の土地に行こうが慣れたものだろう。
「用事があるから行くが、俺は翠子さんに操を立てているんだ」と告げると、琥太郎兄さんは心底馬鹿にしたように「はっ。おもろいな、お前」と吐き捨てた。
嫌いだ。穢れた大人なんて。
俺も大概、翠子さんに対しては、人に言えない酷いことをしている大人ではあるが……。
「高瀬先生がいらっしゃいました」
ようやくうちの学級にたどり着くと、廊下に立つドアガール係の女生徒が、教室に向かって声をかけた。
俺が教室内に入ると、翠子さんと深山文子さんが顔を突き合わせていた。
どうやら数学の質問をしていたようで、教科書と帳面が開いてある。
不思議なものだ、と俺は口元をほころばせた。
あんなにも数学が苦手だったのに。俺と毎日、放課後も家でも勉強していたから、いつの間にか翠子さんは人に教えることができるほどになっている。
というか、苦手意識が強すぎて基礎を疎かにしていたんだよな。
あれはどうかと思うぞ。
「先生? どうかなさいまして」
「あ、ああ。すまない」
生徒に声をかけられて、俺は我に返った。教壇に向かう途中で、つい翠子さんを眺めていたから。
気を引き締めないとな。
翠子さんが俺に気づいて顔を上げる。さっきまで一緒に登校していたというのに、あなたの顔を見るだけでこんなにも心が弾むなんて。我ながらどうかしている。
それと同時に良心が傷むんだ。
それはなにも花街に行くことではない。あなたに不安な一晩を過ごさせることになるのが、とてつもなくつらいんだ。
旦那さまはわたくしの夏布団をめくろうとなさいますが。わたくしは必死でそれを阻止します
「翠子はもう寝ています」
「また、それ? じゃあ寝言でもいいから付き合ってくれ」
今更、焦ったような声を出しても知りませんよ。なのに、旦那さまは布団に向かって一生懸命語りかけてきます。
「俺、子どもの頃に猫を飼ったことがあるんだ。黒猫だが、まるで燕尾服を着ているかのように、首というか胸元が白くてな。それは美しく可愛らしい猫だった」
「初めて聞きます」
「うん、人に話したことはない。それでだな、あまりにも可愛すぎて、常に抱っこをして、その背やお腹を存分に吸い、何度も何度も頭と喉を撫でて……嫌われた」
それは嫌われますよ。ご存知ですか? 自業自得というんです。
「廊下で猫と鉢合わせをするだろう? すると、一歩後ずさって、脱兎のごとく逃げていくんだ。猫なのに。結局、その猫はお清に懐いてしまってな。俺の足音を聞くと、お清の後ろに隠れてしまうんだ」
旦那さまは遠い目をなさいました。
まぁぁ。なんと憐れな。
その時、胸の内に浮かんだ気持ちをなんと呼ぶのでしょう。
途方に暮れた少年の頃の旦那さまの姿を想像すると、愛おしくてなりません。
「好きなものとの、距離の取り方が難しいんだ。そうだ、銀司にも言われたことがある。旦那さまは花をお育てにならないでください、と。水をやりすぎて、根腐れしてしまうんだそうだ」
「今も昔も愛情過多なのですね」
「寝言で返事してくれて、ありがとう」
もう、しょうがありませんね。
それまで背中を向けていましたが、わたくしは旦那さまの方に向き直りました。
すぐに意地悪をなさるくせに、いじらしいことを仰るから。翠子はすぐに絆されてしまいます。
◇◇◇
翌朝、白い木造の校舎へ向かう翠子さんの背中を見送りつつ、俺は教員専用の玄関へと向かった。
今日の午後には、駅で琥太郎兄さんと待ち合わせだ。
「うぅ、気が重い」
授業の準備を整えてから、まずは受け持ちの学級へと向かう。
足取りが重いのは、学級へ向かうのが嫌なのではなく、夕方からの約束のせいだ。
そう、翠子さんの叔父、くそ馬鹿野郎の三木達比古の動きを完全に押さえるために、俺は花街へと向かわなくてはならないし、翠子さんに多大な我慢と辛抱を強いることになる。
「う……っ。無理だ」
廊下の途中で壁に頭をついて立ち止まると、途中のクラスのドアガールが、ひらひらと袂をひらめかしながら駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか、高瀬先生」
「まぁ、顔が真っ青。お加減が悪いのでは?」
ありがとう、優しいな。うちの学校の生徒は。
だが、そんな清らかな君たちには教えられないよ。先生は今夜、行きたくもない歓楽街に連れていかれるんだよ、とは。
琥太郎兄さんは「そんなん普通やろ」と言うのだが。あの人は三條組の若頭だからな。この辺りの歓楽街では顔だし、別の土地に行こうが慣れたものだろう。
「用事があるから行くが、俺は翠子さんに操を立てているんだ」と告げると、琥太郎兄さんは心底馬鹿にしたように「はっ。おもろいな、お前」と吐き捨てた。
嫌いだ。穢れた大人なんて。
俺も大概、翠子さんに対しては、人に言えない酷いことをしている大人ではあるが……。
「高瀬先生がいらっしゃいました」
ようやくうちの学級にたどり着くと、廊下に立つドアガール係の女生徒が、教室に向かって声をかけた。
俺が教室内に入ると、翠子さんと深山文子さんが顔を突き合わせていた。
どうやら数学の質問をしていたようで、教科書と帳面が開いてある。
不思議なものだ、と俺は口元をほころばせた。
あんなにも数学が苦手だったのに。俺と毎日、放課後も家でも勉強していたから、いつの間にか翠子さんは人に教えることができるほどになっている。
というか、苦手意識が強すぎて基礎を疎かにしていたんだよな。
あれはどうかと思うぞ。
「先生? どうかなさいまして」
「あ、ああ。すまない」
生徒に声をかけられて、俺は我に返った。教壇に向かう途中で、つい翠子さんを眺めていたから。
気を引き締めないとな。
翠子さんが俺に気づいて顔を上げる。さっきまで一緒に登校していたというのに、あなたの顔を見るだけでこんなにも心が弾むなんて。我ながらどうかしている。
それと同時に良心が傷むんだ。
それはなにも花街に行くことではない。あなたに不安な一晩を過ごさせることになるのが、とてつもなくつらいんだ。
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