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八章
16、夜襲
一人きりの部屋は、時計の針の音がやたらと大きく聞こえます。
わたくしは旦那さまの文机で『少女画報』を開いていました。『少女の友』はもう読んでしまったのです。
「白色美顔水……。わたくしも美顔水をつけた方がいいのかしら」
この後起こることを考えると少女小説が頭に入らずに、わたくしは広告ばかりを目で追いながら、髪に結んだ藤色のリボンに触れていました。
時計の針の音に、わたくしの心臓の音。頁をめくる音に木々の葉が揺れる音。
静かな夜のはずなのに、どの音も小さいはずなのに。とてもうるさく思えます。
「そうです。マフラーがありました」
急いで箪笥の引き出しから風呂敷包みを取りだし、懐かしいマフラーをきゅっと握りしめます。
「……旦那さま」
翠子、頑張ります。でも、でも……不安なのです。今こそ旦那さまに抱きしめていただきたいのに。
旦那さま。お会いしたいです。今すぐにも。
その時、玄関の方で荒っぽい音が聞こえました。ガタガタと引き戸を無理に開けようとする音です。
「ま、待ってください。今、鍵を開けますから」
「早よ開けんかい。蹴破るぞ」
お清さんの声に被さって、乱暴な言葉遣いが響きます。
「旦那さま……翠子は、頑張りたく……ありません」
戸が開かれる音が聞こえると、ドタドタと、この家ではまず聞くことのない無遠慮な足音が近づいてきます。
わたくしはマフラーに顔を埋めて、震えていました。
旦那さま、旦那さま。怖いです。
「おう、あんたやな。笠井翠子。一緒に来てもらうで」
顔に傷のある男に腕を掴まれて、立ち上がらされます。髪に結んだリボンがするりとほどけて落ちていきました。
わたくしはマフラーを、さらにぎゅっと抱きしめます。
「なんや、夏やゆうのに、マフラーなんか持ちよって」
「離してください。大事な物なんです」
「けっ。こんな古臭いマフラー」
男は吐き捨てましたが、わたくしからマフラーを取り上げることはしませんでした。
腕を引かれて歩きはじめたとき、わたくしは膝の力が抜けて畳の上にへたり込んでしまいました。
男はわたくしを見下ろしていましたが、不意にがっしりとした手が、わたくしの頭を撫でました。
無言のまま、そしてしかめっ面のままでしたが。声にはならない「嬢ちゃん、あんたの為や。頑張れ」という声が聞こえた気がしました。
わたくしはうなずいて、一歩を踏み出しました。
マフラーは持っていきません。失くしたくない大事な物ですもの。大丈夫、明日にはこの家に戻ってこられますから。
◇◇◇
日がとっぷりと暮れた頃、俺と琥太郎兄さんはさびれた花街にいた。
電燈や瓦斯燈が珍しくもないというのに、通りの明かりは昔ながらの常夜燈だ。
燈籠の中に火が入り、しかもベンガラ格子の中に春をひさぐ女性たちが座っている。
どの女性も気だるそうで、赤い格子からは煙草の煙が流れ出してくる。
「江戸時代?」
「まるで時が止まっとうみたいやな」
俺と琥太郎兄さんが並んで歩いていると、格子から手が伸びてきた。
「ちょいと兄さん、遊んでいきなよぉ」
「あら、いい男。退屈させないよ」
赤い肌襦袢だけをしどけなくまとい、女たちが真っ赤な唇の端をにぃっと上げる。
白粉の匂いがやけにきつい。それが煙草のヤニ臭さと混じるものだから、正直きつい。
「俺、茉莉花の匂いが好きです」
「乙女かよ、お前は」
琥太郎兄さんに、頭を小突かれた。
いいじゃないか、別に。茉莉花が好きでも。
見世を物色するように眺めているのは、作業着であるナッパ服を着た男たちだ。機械油のにおいが鼻をかすめる。
空を仰げば、歓楽街の向こうに煙突の群れが見える。あまり気にしていなかったが、空気も悪い気がする。
「ここは工場が多いからな。三條組が取り仕切っている歓楽街とは、ずいぶんと趣がちゃうやろ。うちの方は、船員や船の乗客相手の店が多いからな」
「翠子さんは、この歓楽街に売られるはずだったのか」
「そう。そしてこれから売られる予定でもある」
無神経な物言いに、俺は琥太郎兄さんを睨みつけた。背後に立つ斉川は、かろうじて俺を詰るのを我慢しているようだ。
まだ若い斉川は、俺とは顔なじみではないから。まぁ、しょうがない。
わたくしは旦那さまの文机で『少女画報』を開いていました。『少女の友』はもう読んでしまったのです。
「白色美顔水……。わたくしも美顔水をつけた方がいいのかしら」
この後起こることを考えると少女小説が頭に入らずに、わたくしは広告ばかりを目で追いながら、髪に結んだ藤色のリボンに触れていました。
時計の針の音に、わたくしの心臓の音。頁をめくる音に木々の葉が揺れる音。
静かな夜のはずなのに、どの音も小さいはずなのに。とてもうるさく思えます。
「そうです。マフラーがありました」
急いで箪笥の引き出しから風呂敷包みを取りだし、懐かしいマフラーをきゅっと握りしめます。
「……旦那さま」
翠子、頑張ります。でも、でも……不安なのです。今こそ旦那さまに抱きしめていただきたいのに。
旦那さま。お会いしたいです。今すぐにも。
その時、玄関の方で荒っぽい音が聞こえました。ガタガタと引き戸を無理に開けようとする音です。
「ま、待ってください。今、鍵を開けますから」
「早よ開けんかい。蹴破るぞ」
お清さんの声に被さって、乱暴な言葉遣いが響きます。
「旦那さま……翠子は、頑張りたく……ありません」
戸が開かれる音が聞こえると、ドタドタと、この家ではまず聞くことのない無遠慮な足音が近づいてきます。
わたくしはマフラーに顔を埋めて、震えていました。
旦那さま、旦那さま。怖いです。
「おう、あんたやな。笠井翠子。一緒に来てもらうで」
顔に傷のある男に腕を掴まれて、立ち上がらされます。髪に結んだリボンがするりとほどけて落ちていきました。
わたくしはマフラーを、さらにぎゅっと抱きしめます。
「なんや、夏やゆうのに、マフラーなんか持ちよって」
「離してください。大事な物なんです」
「けっ。こんな古臭いマフラー」
男は吐き捨てましたが、わたくしからマフラーを取り上げることはしませんでした。
腕を引かれて歩きはじめたとき、わたくしは膝の力が抜けて畳の上にへたり込んでしまいました。
男はわたくしを見下ろしていましたが、不意にがっしりとした手が、わたくしの頭を撫でました。
無言のまま、そしてしかめっ面のままでしたが。声にはならない「嬢ちゃん、あんたの為や。頑張れ」という声が聞こえた気がしました。
わたくしはうなずいて、一歩を踏み出しました。
マフラーは持っていきません。失くしたくない大事な物ですもの。大丈夫、明日にはこの家に戻ってこられますから。
◇◇◇
日がとっぷりと暮れた頃、俺と琥太郎兄さんはさびれた花街にいた。
電燈や瓦斯燈が珍しくもないというのに、通りの明かりは昔ながらの常夜燈だ。
燈籠の中に火が入り、しかもベンガラ格子の中に春をひさぐ女性たちが座っている。
どの女性も気だるそうで、赤い格子からは煙草の煙が流れ出してくる。
「江戸時代?」
「まるで時が止まっとうみたいやな」
俺と琥太郎兄さんが並んで歩いていると、格子から手が伸びてきた。
「ちょいと兄さん、遊んでいきなよぉ」
「あら、いい男。退屈させないよ」
赤い肌襦袢だけをしどけなくまとい、女たちが真っ赤な唇の端をにぃっと上げる。
白粉の匂いがやけにきつい。それが煙草のヤニ臭さと混じるものだから、正直きつい。
「俺、茉莉花の匂いが好きです」
「乙女かよ、お前は」
琥太郎兄さんに、頭を小突かれた。
いいじゃないか、別に。茉莉花が好きでも。
見世を物色するように眺めているのは、作業着であるナッパ服を着た男たちだ。機械油のにおいが鼻をかすめる。
空を仰げば、歓楽街の向こうに煙突の群れが見える。あまり気にしていなかったが、空気も悪い気がする。
「ここは工場が多いからな。三條組が取り仕切っている歓楽街とは、ずいぶんと趣がちゃうやろ。うちの方は、船員や船の乗客相手の店が多いからな」
「翠子さんは、この歓楽街に売られるはずだったのか」
「そう。そしてこれから売られる予定でもある」
無神経な物言いに、俺は琥太郎兄さんを睨みつけた。背後に立つ斉川は、かろうじて俺を詰るのを我慢しているようだ。
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