【第一部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

文字の大きさ
132 / 247
八章

16、夜襲

しおりを挟む
 一人きりの部屋は、時計の針の音がやたらと大きく聞こえます。
 わたくしは旦那さまの文机で『少女画報』を開いていました。『少女の友』はもう読んでしまったのです。
 
「白色美顔水……。わたくしも美顔水をつけた方がいいのかしら」

 この後起こることを考えると少女小説が頭に入らずに、わたくしは広告ばかりを目で追いながら、髪に結んだ藤色のリボンに触れていました。

 時計の針の音に、わたくしの心臓の音。頁をめくる音に木々の葉が揺れる音。
 静かな夜のはずなのに、どの音も小さいはずなのに。とてもうるさく思えます。

「そうです。マフラーがありました」

 急いで箪笥の引き出しから風呂敷包みを取りだし、懐かしいマフラーをきゅっと握りしめます。

「……旦那さま」

 翠子、頑張ります。でも、でも……不安なのです。今こそ旦那さまに抱きしめていただきたいのに。
 旦那さま。お会いしたいです。今すぐにも。

 その時、玄関の方で荒っぽい音が聞こえました。ガタガタと引き戸を無理に開けようとする音です。

「ま、待ってください。今、鍵を開けますから」
「早よ開けんかい。蹴破るぞ」

 お清さんの声に被さって、乱暴な言葉遣いが響きます。

「旦那さま……翠子は、頑張りたく……ありません」

 戸が開かれる音が聞こえると、ドタドタと、この家ではまず聞くことのない無遠慮な足音が近づいてきます。
 わたくしはマフラーに顔を埋めて、震えていました。
 旦那さま、旦那さま。怖いです。

「おう、あんたやな。笠井翠子。一緒に来てもらうで」

 顔に傷のある男に腕を掴まれて、立ち上がらされます。髪に結んだリボンがするりとほどけて落ちていきました。
 わたくしはマフラーを、さらにぎゅっと抱きしめます。

「なんや、夏やゆうのに、マフラーなんか持ちよって」
「離してください。大事な物なんです」
「けっ。こんな古臭いマフラー」

 男は吐き捨てましたが、わたくしからマフラーを取り上げることはしませんでした。
 腕を引かれて歩きはじめたとき、わたくしは膝の力が抜けて畳の上にへたり込んでしまいました。

 男はわたくしを見下ろしていましたが、不意にがっしりとした手が、わたくしの頭を撫でました。
 無言のまま、そしてしかめっ面のままでしたが。声にはならない「嬢ちゃん、あんたの為や。頑張れ」という声が聞こえた気がしました。

 わたくしはうなずいて、一歩を踏み出しました。
 マフラーは持っていきません。失くしたくない大事な物ですもの。大丈夫、明日にはこの家に戻ってこられますから。

◇◇◇

 日がとっぷりと暮れた頃、俺と琥太郎兄さんはさびれた花街にいた。
 電燈や瓦斯ガス燈が珍しくもないというのに、通りの明かりは昔ながらの常夜燈だ。
 燈籠の中に火が入り、しかもベンガラ格子の中に春をひさぐ女性たちが座っている。
 どの女性も気だるそうで、赤い格子からは煙草の煙が流れ出してくる。

「江戸時代?」
「まるで時が止まっとうみたいやな」

 俺と琥太郎兄さんが並んで歩いていると、格子から手が伸びてきた。

「ちょいと兄さん、遊んでいきなよぉ」
「あら、いい男。退屈させないよ」

 赤い肌襦袢だけをしどけなくまとい、女たちが真っ赤な唇の端をにぃっと上げる。
 白粉の匂いがやけにきつい。それが煙草のヤニ臭さと混じるものだから、正直きつい。

「俺、茉莉花ジャスミンの匂いが好きです」
「乙女かよ、お前は」

 琥太郎兄さんに、頭を小突かれた。
 いいじゃないか、別に。茉莉花が好きでも。

 見世を物色するように眺めているのは、作業着であるナッパ服を着た男たちだ。機械油のにおいが鼻をかすめる。
 空を仰げば、歓楽街の向こうに煙突の群れが見える。あまり気にしていなかったが、空気も悪い気がする。

「ここは工場が多いからな。三條組が取り仕切っている歓楽街とは、ずいぶんと趣がちゃうやろ。うちの方は、船員や船の乗客相手の店が多いからな」
「翠子さんは、この歓楽街に売られるはずだったのか」
「そう。そしてこれから売られる予定でもある」

 無神経な物言いに、俺は琥太郎兄さんを睨みつけた。背後に立つ斉川は、かろうじて俺をなじるのを我慢しているようだ。
 まだ若い斉川は、俺とは顔なじみではないから。まぁ、しょうがない。
しおりを挟む
感想 10

あなたにおすすめの小説

ヤクザの若頭は、年の離れた婚約者が可愛くて仕方がない

絹乃
恋愛
ヤクザの若頭の花隈(はなくま)には、婚約者がいる。十七歳下の少女で組長の一人娘である月葉(つきは)だ。保護者代わりの花隈は月葉のことをとても可愛がっているが、もちろん恋ではない。強面ヤクザと年の離れたお嬢さまの、恋に発展する前の、もどかしくドキドキするお話。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

最後の女

蒲公英
恋愛
若すぎる妻を娶ったおっさんと、おっさんに嫁いだ若すぎる妻。夫婦らしくなるまでを、あれこれと。

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

虚弱なヤクザの駆け込み寺

菅井群青
恋愛
突然ドアが開いたとおもったらヤクザが抱えられてやってきた。 「今すぐ立てるようにしろ、さもなければ──」 「脅してる場合ですか?」 ギックリ腰ばかりを繰り返すヤクザの組長と、治療の相性が良かったために気に入られ、ヤクザ御用達の鍼灸院と化してしまった院に軟禁されてしまった女の話。 ※なろう、カクヨムでも投稿

お隣さんはヤのつくご職業

古亜
恋愛
佐伯梓は、日々平穏に過ごしてきたOL。 残業から帰り夜食のカップ麺を食べていたら、突然壁に穴が空いた。 元々薄い壁だと思ってたけど、まさか人が飛んでくるなんて……ん?そもそも人が飛んでくるっておかしくない?それにお隣さんの顔、初めて見ましたがだいぶ強面でいらっしゃいますね。 ……え、ちゃんとしたもん食え? ちょ、冷蔵庫漁らないでくださいっ!! ちょっとアホな社畜OLがヤクザさんとご飯を食べるラブコメ 建築基準法と物理法則なんて知りません 登場人物や団体の名称や設定は作者が適当に生み出したものであり、現実に類似のものがあったとしても一切関係ありません。 2020/5/26 完結

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

【完結】女当主は義弟の手で花開く

はるみさ
恋愛
シャノンは若干25歳でありながら、プレスコット伯爵家の女当主。男勝りな彼女は、由緒ある伯爵家の当主として男性と互角に渡り合っていた。しかし、そんな彼女には結婚という大きな悩みが。伯爵家の血筋を残すためにも結婚しなくてはと思うが、全く相手が見つからない。途方に暮れていたその時……「義姉さん、それ僕でいいんじゃない?」昔拾ってあげた血の繋がりのない美しく成長した義弟からまさかの提案……!? 恋に臆病な姉と、一途に義姉を想い続けてきた義弟の大人の恋物語。 ※他サイトにも掲載しています。

処理中です...