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九章
1、門限
翌朝、わたくしと旦那さまはいつものように一緒に登校しました。
昨日の街は、晴れてはいても空が濁りのある青でしたけど。やはり煤煙のない澄み渡る青空は、見ていて気持ちがいいです。
「もう三木達比古が、翠子さんにまとわりつくこともない。だから一人で登校してもいいし、外出も自由だ。まぁ、門限は設けさせてもらうが」
「何時ですか?」
「……五時」
旦那さまは渋い表情を浮かべて、ぽつりと呟きます。
提示された時刻は、今までよりも早いものでした。授業が終わって少し友人と話をしていたら、すぐに四時半になってしまいます。
学校から高瀬邸まで二十分。門限ぎりぎりです。
「困りました」
「門限を遅くしてほしいのか?」
「ええ。でないと困ります」
「だがそれ以上遅くしたら、放課後あいつらに待ち伏せされるぞ」
あいつら? 誰のことでしょうか。
旦那さまにた尋ねましたが「まぁ、いろんな奴らだ」と言葉を濁されます。
わたくしは途方に暮れて立ち止まりました。
「だって、高瀬先生のお仕事が終わるのを待っていたら、門限に間に合いません」
「は?」
「ですから。これまでのように一緒に帰りたいのですけど。それは無理ということですね。寂しいですし、残念ですけど。お家で先生のお帰りを待っていますね」
◇◇◇
俺はちょっと頭の中が混乱しているのかもしれない。
いつもの小路から大通りへとそろそろ出る頃だ。今朝も、大通りの角に近くに学舎のある私大生が立っている。
手に握りしめているのは、恋文だろうな。強く握りすぎて、紙がしわくちゃになっているぞ。その手汗で濡れた恋文を、翠子さんに差し出させるわけにはいかない。
なので、そいつの視線から翠子さんを隠すべく、俺は彼女の斜め前を歩いた。
私大生は、俺が邪魔だと言わんばかりに立っていた場所を変える。
こんなのはもう慣れた。君で三人目だからな。
だが翠子さんは、こうして大学生に待ち伏せされている事実に気づいていない。
奴らは、山から下りた猪のように翠子さんに向かって突進してくるものだから、そのたびに彼女の前に立ちふさがらなくてはならない。
そんな時に、翠子さんが門限を遅くしてほしいと言い出したものだから。
いや、無理だろ。
帰宅途中にギラギラした目つきの猛獣が、なぜか可愛らしい水色だのピンク色だのの封筒に入った恋文を持って、胸をトゥンクとときめかせながら、翠子さんを待っているんだぞ。
まるで檻のない動物園を、彼女一人で歩かせるようなものじゃないか。
保護者(ではないが)としても、教育的な観点からも、門限を遅らせるわけにはいかない。
なのに……。
「いつも先生をお待ちして、一緒に帰るのが楽しかったのですけど。しょうがありませんね。先生もお忙しいですから」
いや、俺も一緒に帰りたいのだが。
紫陽花に埋もれたり、西日の差す教室で本を読みながら俺を待つあなたの姿を見つけるのは、心が大層ときめくんだ。
俺は、はっとした。
もしかして俺も立場が違えば、恋文を手に翠子さんが通るのを待つ身になっていたのか?
いやいや、それはない……が。
もし仮に、万が一にでも翠子さんとこういう関係ではなく、彼女に恋文を送る立場になっていたのだとしたら。
押し花のついた、愛らしい封筒と便箋を使用することにしよう。
「翠子さん。門限のことだが、俺と一緒の日は延長していいぞ」
「いいんですか?」
「友人と出かけたい日もあるだろう。そういう時は、事前に知らせなさい。時間が許せば、俺か銀司が迎えに行くから」
翠子さんは「ありがとうございます」と、目をきらめかせた。
そう、俺は大人なので綺麗にてのひらを返すことができるのだ。
始終、俺という壁が立ちはだかっていたため、大学生は結局恋文を渡すことができなかった。
諦めたまえ。君が悪いわけではない。ただ恋する相手を間違えただけだ。
昨日の街は、晴れてはいても空が濁りのある青でしたけど。やはり煤煙のない澄み渡る青空は、見ていて気持ちがいいです。
「もう三木達比古が、翠子さんにまとわりつくこともない。だから一人で登校してもいいし、外出も自由だ。まぁ、門限は設けさせてもらうが」
「何時ですか?」
「……五時」
旦那さまは渋い表情を浮かべて、ぽつりと呟きます。
提示された時刻は、今までよりも早いものでした。授業が終わって少し友人と話をしていたら、すぐに四時半になってしまいます。
学校から高瀬邸まで二十分。門限ぎりぎりです。
「困りました」
「門限を遅くしてほしいのか?」
「ええ。でないと困ります」
「だがそれ以上遅くしたら、放課後あいつらに待ち伏せされるぞ」
あいつら? 誰のことでしょうか。
旦那さまにた尋ねましたが「まぁ、いろんな奴らだ」と言葉を濁されます。
わたくしは途方に暮れて立ち止まりました。
「だって、高瀬先生のお仕事が終わるのを待っていたら、門限に間に合いません」
「は?」
「ですから。これまでのように一緒に帰りたいのですけど。それは無理ということですね。寂しいですし、残念ですけど。お家で先生のお帰りを待っていますね」
◇◇◇
俺はちょっと頭の中が混乱しているのかもしれない。
いつもの小路から大通りへとそろそろ出る頃だ。今朝も、大通りの角に近くに学舎のある私大生が立っている。
手に握りしめているのは、恋文だろうな。強く握りすぎて、紙がしわくちゃになっているぞ。その手汗で濡れた恋文を、翠子さんに差し出させるわけにはいかない。
なので、そいつの視線から翠子さんを隠すべく、俺は彼女の斜め前を歩いた。
私大生は、俺が邪魔だと言わんばかりに立っていた場所を変える。
こんなのはもう慣れた。君で三人目だからな。
だが翠子さんは、こうして大学生に待ち伏せされている事実に気づいていない。
奴らは、山から下りた猪のように翠子さんに向かって突進してくるものだから、そのたびに彼女の前に立ちふさがらなくてはならない。
そんな時に、翠子さんが門限を遅くしてほしいと言い出したものだから。
いや、無理だろ。
帰宅途中にギラギラした目つきの猛獣が、なぜか可愛らしい水色だのピンク色だのの封筒に入った恋文を持って、胸をトゥンクとときめかせながら、翠子さんを待っているんだぞ。
まるで檻のない動物園を、彼女一人で歩かせるようなものじゃないか。
保護者(ではないが)としても、教育的な観点からも、門限を遅らせるわけにはいかない。
なのに……。
「いつも先生をお待ちして、一緒に帰るのが楽しかったのですけど。しょうがありませんね。先生もお忙しいですから」
いや、俺も一緒に帰りたいのだが。
紫陽花に埋もれたり、西日の差す教室で本を読みながら俺を待つあなたの姿を見つけるのは、心が大層ときめくんだ。
俺は、はっとした。
もしかして俺も立場が違えば、恋文を手に翠子さんが通るのを待つ身になっていたのか?
いやいや、それはない……が。
もし仮に、万が一にでも翠子さんとこういう関係ではなく、彼女に恋文を送る立場になっていたのだとしたら。
押し花のついた、愛らしい封筒と便箋を使用することにしよう。
「翠子さん。門限のことだが、俺と一緒の日は延長していいぞ」
「いいんですか?」
「友人と出かけたい日もあるだろう。そういう時は、事前に知らせなさい。時間が許せば、俺か銀司が迎えに行くから」
翠子さんは「ありがとうございます」と、目をきらめかせた。
そう、俺は大人なので綺麗にてのひらを返すことができるのだ。
始終、俺という壁が立ちはだかっていたため、大学生は結局恋文を渡すことができなかった。
諦めたまえ。君が悪いわけではない。ただ恋する相手を間違えただけだ。
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