【第一部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

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九章

4、旦那さまです

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 放課後、わたくしはいつものように先生のお仕事が終わるのを待っていました。
 先生と一緒なら、やたらと早い門限も関係ありません。
 でも、今日は教室に文子さんも残っています。

「あのね、翠子さん。休み時間に聞きそびれたんだけど」
「はい、なんですか?」

 やはり琥太郎さんからの手紙のことでしょうか。和歌での恋文なんて、どきどきしますけど。でも、お相手が任侠の世界の方ですから……。

「まず質問ひとつめね。門限のこと、旦那さまに訊くって言ってたけど。翠子さん、おじさんの家に居候しているのよね」

 ぎくっ。風呂敷を包んでいたわたくしは、結び目をぎゅっと引っ張ってしまいました。

「それから、ふたつめ。翠子さん、高瀬先生とどういう関係? 筆記帳に似顔絵を描くということは、少なからず恋心があるということでしょう? それと翠子さんが最近大人びたのと、つながりがあるのかしら」

 ぎくっ、ぎくっ。風呂敷包みは、さらに固く結ばれました。
 いつも一緒にいるからでしょうか。文子さんは、なかなかに鋭いです。

「嘘とか、適当なごまかしは聞きたくないの。本当は以前から気づいていたけれど、翠子さんは訊かれたくないだろうから、黙っていたの。今のわたしには余裕がないし、恋愛について教えてほしいの」

 そう仰ると、文子さんはわたくしに向かって「お願い、翠子さん」と頭を下げました。
 肩よりも少し上で切りそろえた黒髪が、さらりと流れます。
 
 わたくしも文子さんに嘘はつきたくありません。
 でも、先生……旦那さまとのことですので、一存で決めてしまうわけにもいかず。
 どうしたものかと口ごもっていると、不意に背後からわたくしの肩に手が置かれました。

 よく知っている手の大きさ、そして重み。
 振り返ると、わたくしの席の後ろに高瀬先生が立っていらっしゃいました。
 まだ夕暮れには早いですが、先生の背後から日光が差し込んでいるので、その顔は逆光になって表情は分かりません。

「高瀬先生っ」

 素っ頓狂な声を上げたのは、文子さんです。
 先生は左手をわたくしの肩に置いたまま、右手でわたくしの髪をすくいました。そして、その髪に軽くくちづけをなさいます。

 ま、待ってください。ここは学校ですよ、教室ですよ。文子さんがいらっしゃるんですよ。
 なのに先生はわたくしの髪から唇を離さないばかりか、じっと文子さんを見据えます。

「お察しの通り、俺が翠子さんの『旦那さま』だ」

 文子さんとわたくし達だけしかいない教室は、しばし沈黙に包まれました。
 遠くから船の汽笛の音が聞こえます。短音三回。確か「機関を後進中にしている」の合図だと、以前一緒に帰宅途中の先生が教えてくださったことがあります。
 いえ、今はそんなことは関係ないですのに。
 先生が自ら、文子さんに秘密を明かしたことで頭がパニック状態です。

「旦那さま……って。先生が翠子さんの?」
「そう、妻と旦那。未来のだけどな」

 先生はわたくしとご自分を、交互に指さします。
 文子さんは、口をぽかんと開いたままで放心していました。

「写生大会の時に、翠子さんをご自分の影にいれてらしたから。好意はお持ちだと思ってましたけど」
「あるさ。溢れるくらいにな」
「じゃあ、翠子さんが最近大人びてきたのは」

 ふっと、先生は口許だけに笑みを浮かべました。そしてあろうことか、とんでもないことを仰います。

「子どもには聞かせられない。『少女の友』に投稿すれば、大作家先生が激怒どころか、卒倒するだろうな」

 その答えの意味を悟ったのでしょう。文子さんは、顔を真っ赤になさいました。まるで茹で蛸のように。
 ふしゅー、という湯気の音すら聞こえそうです。
 
「だ、旦那さまということは、お二人は一緒に暮らしているんですよね」
「そりゃな。危険な実家に翠子さんを置いておけるか。俺の家が一番安全だ」

 文子さんは、しばらく瞼を閉じていろいろと考えている様子でした。笠井家が困窮して梅干しだけのお弁当や、すりきれたブーツを履いていたわたくしが、ある日を境に元の生活水準に戻ったのですから。いろいろと察するところがあるのでしょう。

 しばらく経って、文子さんは椅子から立ち上がると高瀬先生に向き直りました。

「とても大事な秘密を、教えてくださってありがとうございます。わたしを信じてくださったのだから、決して口外はしません」

 深々と先生に頭を下げた文子さんが、次に顔を上げた時は不思議と晴れ晴れとした表情をなさっていました。
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