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九章
7、恋文【2】
便箋と封筒はあげると言ったのに、翠子さんはそれでは納得しなかった。
どうしても、どーしても恋文が欲しいのだそうだ。
「翠子さんなら、いずれ恋文がもらえるだろう」
現に今日も、あなたに恋文を渡そうとした青年もいたことだしな。まぁ、俺が防いだし、今後も防ぐ予定だが。
とはいえ、翠子さんが一人の時はさすがの俺でも防御のしようがない。
「誰からでもいいんじゃありません」
座った俺の顔を、翠子さんが覗きこんでくる。顔の位置がとても近くて、茉莉花のいい香りが鼻をかすめる。
きっと今日も乾燥花を、浴衣の衿の部分に入れているのだろう。
「誰でもいいから恋文が欲しいなんて、思いません。旦那さまじゃなきゃ嫌なんです。旦那さまからの恋文だけが欲しいんです」
なんであなたは俺を困らせつつも、こんなにも喜ばせるんだ。
一途なほどにまっすぐで、溢れる愛の言葉を惜しげもなくくれる。
ああ、そうか。だから俺もあなたに恋文を送りたくて、便箋を買ったのだ。この想いを消えていく声としての言葉ではなく、形にしたかったのだ。
消える言葉は儚く美しいが、その煌めきを反芻したい時もある。
突然、背中の一点を押される感覚がした。翠子さんが俺の背中に指をあてているのだ。浴衣の生地を通して、その指が動いていくのが分かる。
まずは左から右へまっすぐに、そして下に曲線を描きながら指は下りていく。これは「て」だろう。
次にまた左から右だが、すぐに翠子さんの指は下に向かい、次に角度の異なる縦線を二本と、短い線を二つ刻んだ。「が」?
最後の文字は想像した通り「み」だった。
「そんなに欲しいのか?」
「はい、とっても」
「善処する」
そう返事すると、翠子さんの浴衣のお尻の部分に柴犬みたいな尻尾が見えた気がした。それはぱたぱたと嬉しそうに全力で振られているんだ。
俺はしゃがみこんだまま、膝の上で腕を組んで顔を埋めた。
そうか、そんなにも俺からの恋文が欲しいのか。うん、先生は頑張るよ。文学的な表現は疎いけど。数学教師だけど。
背中には、今も翠子さんの指の感触が残っている。
俺ももしかしたら、翠子さんからの恋文が欲しいのかもしれない。
◇◇◇
夕食を終えた俺たちは、一緒に風呂に入った。
最初の頃は恥じらっていた翠子さんも、今では当たり前のように入浴してくれる。
「ね、旦那さま。恋文は急ぎませんから。でも楽しみに待っていますね」
カンテラの心もとない明かりに照らされて、翠子さんの辺りの湯が、温かな色に染まっている。
俺はふと思いついて、浴槽の中で翠子さんの背後に回った。二人で浸かっても広々とした浴槽だから、湯が溢れることはなかったが。波が立って、翠子さんの胸の辺りでゆらゆらと揺れた。
「練習をさせてくれ」
「はい? 何のでしょうか」
俺は翠子さんの背中に人差し指を置いた。すべらかなその肌の上で、スーッと指を動かす。
「んっ。くすぐったいです」
「こら、動かない」
軽く叱責したのだが、翠子さんは俺の指から逃げようと身をよじらせる。
これじゃ、何の文字を書いているのかさっぱり分からないだろうに。
翠子さんは体をもぞもぞと動かしながら、しばし考え込んでいた。天井に答えが書いてあるわけでもあるまいに、湯気の向こうからぽたりと落ちてくる水の雫を眺めている。
「最初のが『あ』ですね。次が『い』『し』『て』『い』『る』」
すべて正確に解読するという才能を、翠子さんは見せつけた。
うわぁぁぁ。恥ずかしい。なんだこれ、新手の拷問か。
確かに俺が翠子さんの背に書いた文字だ。一字一句間違ってはいない。
なんの衒いもなく、ひねりもない言葉なのに。
それを伝えたい本人に読み上げられるとは。なんでこんなに恥ずかしいんだ。
「旦那さま?」
返事をしない俺を不思議に思ったのか、翠子さんが振り返る。
頼む。こっちを見ないでくれ。
俺は彼女の動きを封じるために、背後から抱きしめた。
その肩に顔を埋めた。風呂に浸かっているから、顔の火照りがなかなか収まりそうにない。
肩越しに翠子さんが手を伸ばして、俺の頭を撫でてくれた。
「わたくし、旦那さまに無理をさせてしまいましたか?」
「いや……いいんだ」
「でも、気持ちが苦しそうでいらっしゃいます。お手紙は、無理にとは言いませんから」
俺は首を振った。
「ちゃんと……書くから。待っていてくれ」
どうしても、どーしても恋文が欲しいのだそうだ。
「翠子さんなら、いずれ恋文がもらえるだろう」
現に今日も、あなたに恋文を渡そうとした青年もいたことだしな。まぁ、俺が防いだし、今後も防ぐ予定だが。
とはいえ、翠子さんが一人の時はさすがの俺でも防御のしようがない。
「誰からでもいいんじゃありません」
座った俺の顔を、翠子さんが覗きこんでくる。顔の位置がとても近くて、茉莉花のいい香りが鼻をかすめる。
きっと今日も乾燥花を、浴衣の衿の部分に入れているのだろう。
「誰でもいいから恋文が欲しいなんて、思いません。旦那さまじゃなきゃ嫌なんです。旦那さまからの恋文だけが欲しいんです」
なんであなたは俺を困らせつつも、こんなにも喜ばせるんだ。
一途なほどにまっすぐで、溢れる愛の言葉を惜しげもなくくれる。
ああ、そうか。だから俺もあなたに恋文を送りたくて、便箋を買ったのだ。この想いを消えていく声としての言葉ではなく、形にしたかったのだ。
消える言葉は儚く美しいが、その煌めきを反芻したい時もある。
突然、背中の一点を押される感覚がした。翠子さんが俺の背中に指をあてているのだ。浴衣の生地を通して、その指が動いていくのが分かる。
まずは左から右へまっすぐに、そして下に曲線を描きながら指は下りていく。これは「て」だろう。
次にまた左から右だが、すぐに翠子さんの指は下に向かい、次に角度の異なる縦線を二本と、短い線を二つ刻んだ。「が」?
最後の文字は想像した通り「み」だった。
「そんなに欲しいのか?」
「はい、とっても」
「善処する」
そう返事すると、翠子さんの浴衣のお尻の部分に柴犬みたいな尻尾が見えた気がした。それはぱたぱたと嬉しそうに全力で振られているんだ。
俺はしゃがみこんだまま、膝の上で腕を組んで顔を埋めた。
そうか、そんなにも俺からの恋文が欲しいのか。うん、先生は頑張るよ。文学的な表現は疎いけど。数学教師だけど。
背中には、今も翠子さんの指の感触が残っている。
俺ももしかしたら、翠子さんからの恋文が欲しいのかもしれない。
◇◇◇
夕食を終えた俺たちは、一緒に風呂に入った。
最初の頃は恥じらっていた翠子さんも、今では当たり前のように入浴してくれる。
「ね、旦那さま。恋文は急ぎませんから。でも楽しみに待っていますね」
カンテラの心もとない明かりに照らされて、翠子さんの辺りの湯が、温かな色に染まっている。
俺はふと思いついて、浴槽の中で翠子さんの背後に回った。二人で浸かっても広々とした浴槽だから、湯が溢れることはなかったが。波が立って、翠子さんの胸の辺りでゆらゆらと揺れた。
「練習をさせてくれ」
「はい? 何のでしょうか」
俺は翠子さんの背中に人差し指を置いた。すべらかなその肌の上で、スーッと指を動かす。
「んっ。くすぐったいです」
「こら、動かない」
軽く叱責したのだが、翠子さんは俺の指から逃げようと身をよじらせる。
これじゃ、何の文字を書いているのかさっぱり分からないだろうに。
翠子さんは体をもぞもぞと動かしながら、しばし考え込んでいた。天井に答えが書いてあるわけでもあるまいに、湯気の向こうからぽたりと落ちてくる水の雫を眺めている。
「最初のが『あ』ですね。次が『い』『し』『て』『い』『る』」
すべて正確に解読するという才能を、翠子さんは見せつけた。
うわぁぁぁ。恥ずかしい。なんだこれ、新手の拷問か。
確かに俺が翠子さんの背に書いた文字だ。一字一句間違ってはいない。
なんの衒いもなく、ひねりもない言葉なのに。
それを伝えたい本人に読み上げられるとは。なんでこんなに恥ずかしいんだ。
「旦那さま?」
返事をしない俺を不思議に思ったのか、翠子さんが振り返る。
頼む。こっちを見ないでくれ。
俺は彼女の動きを封じるために、背後から抱きしめた。
その肩に顔を埋めた。風呂に浸かっているから、顔の火照りがなかなか収まりそうにない。
肩越しに翠子さんが手を伸ばして、俺の頭を撫でてくれた。
「わたくし、旦那さまに無理をさせてしまいましたか?」
「いや……いいんだ」
「でも、気持ちが苦しそうでいらっしゃいます。お手紙は、無理にとは言いませんから」
俺は首を振った。
「ちゃんと……書くから。待っていてくれ」
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