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九章
15、パラソル【4】
旦那さまは早足で、しかも足が長いので、ずんずんと進んでいかれます。わたくしは追いつくのがやっとで、その日はワンピースを着ていたのですが。裾が足に絡まりそうになりました。
海岸通りのような開けた明るい場所ではなく、旦那さまは薄暗い細道へと入っていきました。船員さんが多いのでしょうか。辺りには白い船員服やセーラー服を着た殿方の姿が目立ちます。
立ち並ぶ店はどれも扉が小さく、窓には薄いカーテンが掛けられているせいで中の様子は窺えません。
旦那さまは、その中の一軒に入っていきました。
仄暗い店内で船員さんの隣に女給さんが座っています。
それも横並びで、しなだれかかっているんです。
船員さんの煙草に、女給さんが燐寸で火をつけます。狭い店内には煙が充満して、眼も喉も痛いです。
「ねぇ、あたしにも飲ませてよ」
女給さんはお店の人なのに、なぜかお客さんにお酒をねだっています。船員さんの肩に頭をもたれかけていますが、とても恋人のようではありません。
けだるそうな、倦怠感に溢れた場所です。
「あ、あの。旦那さま。ここは?」
「ここもカフェーだ」
「でも、前回連れて行ってくださったお店とは……」
「ここもカフェーなんだよ。そして女給は、ああいう仕事が最近増えている。賃金自体が安いからな。客からの心付けが収入源となるんだ」
普通に、お客様にコーヒーを運ぶのではないのですか?
わたくし、見知らぬ男性にしなだれかかることはできません。
「あらぁ。女の子をこんなお店につれてくるなんて、悪い方」
白粉のにおいのきつい女給さんが、旦那さまとわたくしに声をかけてきます。先日連れていかれた歓楽街のような淫靡な感じではありませんが。
それでも女給さん達が、わたくしを値踏みするようにじろじろと眺めています。
「ああ、済まない。満席みたいだから、またの機会にするよ」
うなだれたわたくしの肩を抱いて、旦那さまが店外に出ました。
ようやく紫煙は消えましたが。ほんの少しの間、店内にいただけでも服や髪に煙草のにおいがしみついたように思えました。
「……少女雑誌の購入はやめます」
明るい海岸通りまで出た時、わたくしはそう伝えました。声は震えていたかもしれません。
「日傘も、高価ですから。結構です」
「翠子さん、そういうつもりでカフェーに連れて行ったんじゃない」
旦那さまはなぜかおろおろとなさっていますが。でも、わたくしにお金を稼ぐことの大変さを教えるために、あのカフェーに入ったんですよね?
没落した身であるのに、何を気楽に贅沢を楽しもうとしているんだと、戒めようとなさったんですよね。
増長していた自分が恥ずかしくなります。ふいにサラセン様式の白亜の百貨店も、港に停泊する商船も、湿気が多くてぼやける水平線も、何もかもが滲んでいきました。
ふいに旦那さまが立ち止まり、大きなため息をつきました。
「済まなかった。俺は、言葉が足りないんだよな」
「旦那さま?」
「……金額の問題じゃないんだ。あなたが実録物が好きで、心をときめかせているのは分かる。だが……」
旦那さまの言葉は、歯切れが悪いです。
ポケットからハンカチを出して、わたくしの涙をぬぐってくださいました。
少ししゃがんでいらっしゃるので、いつもは高い位置にある旦那さまの顔が、同じ高さにあります。
「その、ときめきの女学生実録物は、どれも作家先生に叱責されているのだろう?」
「はい、そうですけど」
わたくしは鼻声で答えました。みっともないですけど。
「逢引きも接吻も叱られるんだよな」と尋ねられたので、わたくしはこくりと頷きます。
旦那さまはわたくしの耳元に、口をお寄せになりました。
「いつかあなたが、俺に愛されていることは間違いだと、作家先生のお説教が正しいのだと信じて、俺を遠ざけることが怖いんだ」
「そんな理由だったのですか?」
わたくしはてっきり、無駄遣いを諫められているとばかり思っていました。
旦那さまは仏頂面をなさっていますが、少し耳が赤いです。
「俺は、あなたに無茶な抱き方を強要するからな」
「それは……その」
こんなにも日差しが明るいのに。石畳の道を、華やいだご婦人たちが歩いていらっしゃるのに。
旦那さまの囁きは、わたくし達の周囲だけを宵闇へと包みました。
海風が吹いて、潮の香りがするはずですのに。なぜか夜にひっそりと開く白い花が香ったように感じました。
「あなたに嫌われたくないのに、あなたが嫌がることをしてしまうんだ」
そのまま背を向けて百貨店の方へ向かわれるので、わたくしは慌てて旦那さまを追いました。
「わたくしが旦那さまを嫌いになることなんて、ありません」
「だが、日傘を買わせてもらえない」
「買ってください。ちゃんと使います、大事にします」
「大事にしすぎて、登下校時に使わないなんてことはないな?」
「はい」
「それならいいだろう」
なんだか趣旨がずれているように思いますが。
作家先生の苦言と叱責は真に受けないこと、日傘をちゃんと使うことを交換条件に、二つの少女雑誌の定期購入は許可をいただきました。
海岸通りのような開けた明るい場所ではなく、旦那さまは薄暗い細道へと入っていきました。船員さんが多いのでしょうか。辺りには白い船員服やセーラー服を着た殿方の姿が目立ちます。
立ち並ぶ店はどれも扉が小さく、窓には薄いカーテンが掛けられているせいで中の様子は窺えません。
旦那さまは、その中の一軒に入っていきました。
仄暗い店内で船員さんの隣に女給さんが座っています。
それも横並びで、しなだれかかっているんです。
船員さんの煙草に、女給さんが燐寸で火をつけます。狭い店内には煙が充満して、眼も喉も痛いです。
「ねぇ、あたしにも飲ませてよ」
女給さんはお店の人なのに、なぜかお客さんにお酒をねだっています。船員さんの肩に頭をもたれかけていますが、とても恋人のようではありません。
けだるそうな、倦怠感に溢れた場所です。
「あ、あの。旦那さま。ここは?」
「ここもカフェーだ」
「でも、前回連れて行ってくださったお店とは……」
「ここもカフェーなんだよ。そして女給は、ああいう仕事が最近増えている。賃金自体が安いからな。客からの心付けが収入源となるんだ」
普通に、お客様にコーヒーを運ぶのではないのですか?
わたくし、見知らぬ男性にしなだれかかることはできません。
「あらぁ。女の子をこんなお店につれてくるなんて、悪い方」
白粉のにおいのきつい女給さんが、旦那さまとわたくしに声をかけてきます。先日連れていかれた歓楽街のような淫靡な感じではありませんが。
それでも女給さん達が、わたくしを値踏みするようにじろじろと眺めています。
「ああ、済まない。満席みたいだから、またの機会にするよ」
うなだれたわたくしの肩を抱いて、旦那さまが店外に出ました。
ようやく紫煙は消えましたが。ほんの少しの間、店内にいただけでも服や髪に煙草のにおいがしみついたように思えました。
「……少女雑誌の購入はやめます」
明るい海岸通りまで出た時、わたくしはそう伝えました。声は震えていたかもしれません。
「日傘も、高価ですから。結構です」
「翠子さん、そういうつもりでカフェーに連れて行ったんじゃない」
旦那さまはなぜかおろおろとなさっていますが。でも、わたくしにお金を稼ぐことの大変さを教えるために、あのカフェーに入ったんですよね?
没落した身であるのに、何を気楽に贅沢を楽しもうとしているんだと、戒めようとなさったんですよね。
増長していた自分が恥ずかしくなります。ふいにサラセン様式の白亜の百貨店も、港に停泊する商船も、湿気が多くてぼやける水平線も、何もかもが滲んでいきました。
ふいに旦那さまが立ち止まり、大きなため息をつきました。
「済まなかった。俺は、言葉が足りないんだよな」
「旦那さま?」
「……金額の問題じゃないんだ。あなたが実録物が好きで、心をときめかせているのは分かる。だが……」
旦那さまの言葉は、歯切れが悪いです。
ポケットからハンカチを出して、わたくしの涙をぬぐってくださいました。
少ししゃがんでいらっしゃるので、いつもは高い位置にある旦那さまの顔が、同じ高さにあります。
「その、ときめきの女学生実録物は、どれも作家先生に叱責されているのだろう?」
「はい、そうですけど」
わたくしは鼻声で答えました。みっともないですけど。
「逢引きも接吻も叱られるんだよな」と尋ねられたので、わたくしはこくりと頷きます。
旦那さまはわたくしの耳元に、口をお寄せになりました。
「いつかあなたが、俺に愛されていることは間違いだと、作家先生のお説教が正しいのだと信じて、俺を遠ざけることが怖いんだ」
「そんな理由だったのですか?」
わたくしはてっきり、無駄遣いを諫められているとばかり思っていました。
旦那さまは仏頂面をなさっていますが、少し耳が赤いです。
「俺は、あなたに無茶な抱き方を強要するからな」
「それは……その」
こんなにも日差しが明るいのに。石畳の道を、華やいだご婦人たちが歩いていらっしゃるのに。
旦那さまの囁きは、わたくし達の周囲だけを宵闇へと包みました。
海風が吹いて、潮の香りがするはずですのに。なぜか夜にひっそりと開く白い花が香ったように感じました。
「あなたに嫌われたくないのに、あなたが嫌がることをしてしまうんだ」
そのまま背を向けて百貨店の方へ向かわれるので、わたくしは慌てて旦那さまを追いました。
「わたくしが旦那さまを嫌いになることなんて、ありません」
「だが、日傘を買わせてもらえない」
「買ってください。ちゃんと使います、大事にします」
「大事にしすぎて、登下校時に使わないなんてことはないな?」
「はい」
「それならいいだろう」
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