170 / 247
九章
22、スパルタ【3】
かち……かち、と時計の長針がゆっくりと動く音がする。
翠子さんは、古文の簡単な文法を一生懸命解いていた。一語一語、辞書で引いて。遅々として勉強は進まないが、この努力が後々実を結ぶのだ。
頑張りなさい。
そう思って見守っていると、なぜか翠子さんの首が、かくっと下がった。
「まさか……眠ったのか?」
信じられない。時計を見上げると、まだ勉強を始めて三十分だ。
普段なら、そのまま横にして休ませてやるところだが。今の俺はスパルタだ。
なぜなら、二人の生活を守るため。善意の塊である校長が「笠井さんを卒業まで面倒見ますよ。うちは息子も自立して静かですから、環境もいいですよ」などと、言い出さないためにも、成績向上は必須だ。
というか、いくら一人暮らしをしているとはいえ息子がいる家に、翠子さんを預けられるか。
俺は座卓の前に胡坐をかくと、膝に翠子さんを座らせた。
「旦那さま……おやすみなさい」
うん、違うぞ。今の俺は君の寝台じゃない。
さらりと俺の頬をくすぐる彼女の黒髪を、三つ編みにしてやる。紐やリボンが手近にないから、三つ編みの先端を少し上の部分にくぐらせて、強めに引っ張る。
これで三つ編みは、少し解けにくくなる。
我ながら手慣れたものだ。
なぜなら、翠子さんを愛している時にどうしても彼女の長い髪が邪魔になることがある。
とはいえ、行為を中断してまで紐を探すつもりはない。
必要に駆られた応急処置なので、常に解けないこともないのだが。
「ほら、目を覚ましなさい。桃が待っているぞ」
こくりと翠子さんはうなずいた。鉛筆を手に取り、眠い目をこすりながら辞書を引いている。
とはいえ昼下がりに眠くならないはずがない。
「翠子さん、眠ってしまったら罰を与えるよ」
彼女の耳元で囁いて、その耳朶を軽く噛む。「きゃあ」と短い悲鳴を上げて、翠子さんは目を覚ました。
「これが罰ですか? 翠子、噛まれてしまうのですか」
「いーや、これは予告。夜に酷いことをするよ」
「それは、困ります」
俺の膝にすっぽりと収まったままで、翠子さんは課題に取り組んでいく。
そう、真面目にやればできるんだよ。あなたは。
調べたり辞書を引くのを面倒くさがって、適当に解くからいけないんだ。
裁縫の授業の袋物は、あんなにきれいに丁寧に作っていたのになぁ。針で指をついても挫けない心が、裁縫に対してはあったのだろうか。
「翠子さん。どうして裁縫は成績が上がったんだ?」
「内緒です」
ちょうど俺に背を向けているから、翠子さんの表情は詳しくは分からない。
まぁ、今は勉強中だ。無駄に声をかけてもいけない。
だが、なぜ裁縫だけ? 昼食後にお清に「翠子さんの代わりに、袋を縫ってあげたのか?」と尋ねてみたが「そんなことはしませんよ。運針をお教えしただけです」と言っていた。
何か作りたいものでもあるのだろうか。俺に言えば、買ってあげるのに……と考えて、はっとした。
俺に言えない物か。着物の襦袢とか? いや、それならお清に言えばいいことだろう。
水蜜桃を食べたい一心なのか、俺に酷いことをされたくないのか、翠子さんは熱心に問題を解いている。
さっきまでスパルタ一辺倒に傾いていた俺の心は、今や千々に乱れている。
あなたはいったい何を縫いたいんだ、と。
「できましたっ!」
明るい声で翠子さんが言うから、俺はぐだぐだした妄想から引き離された。
危ないところだった。
俺の妄想の中では、校長先生の家に居候をしている翠子さんが、帰省中の大学生の息子に半巾を縫い、布と同色の糸でイニシャルまで刺繍してプレゼントしているところまで、話が進んでいた。
しかも大学生の息子がお礼のついでに、翠子さんを抱きしめたのだ。
絶対に、翠子さんを校長の家に預けるものかと俺は決意した。
まぁ、全部妄想なんだが。
翠子さんは、古文の簡単な文法を一生懸命解いていた。一語一語、辞書で引いて。遅々として勉強は進まないが、この努力が後々実を結ぶのだ。
頑張りなさい。
そう思って見守っていると、なぜか翠子さんの首が、かくっと下がった。
「まさか……眠ったのか?」
信じられない。時計を見上げると、まだ勉強を始めて三十分だ。
普段なら、そのまま横にして休ませてやるところだが。今の俺はスパルタだ。
なぜなら、二人の生活を守るため。善意の塊である校長が「笠井さんを卒業まで面倒見ますよ。うちは息子も自立して静かですから、環境もいいですよ」などと、言い出さないためにも、成績向上は必須だ。
というか、いくら一人暮らしをしているとはいえ息子がいる家に、翠子さんを預けられるか。
俺は座卓の前に胡坐をかくと、膝に翠子さんを座らせた。
「旦那さま……おやすみなさい」
うん、違うぞ。今の俺は君の寝台じゃない。
さらりと俺の頬をくすぐる彼女の黒髪を、三つ編みにしてやる。紐やリボンが手近にないから、三つ編みの先端を少し上の部分にくぐらせて、強めに引っ張る。
これで三つ編みは、少し解けにくくなる。
我ながら手慣れたものだ。
なぜなら、翠子さんを愛している時にどうしても彼女の長い髪が邪魔になることがある。
とはいえ、行為を中断してまで紐を探すつもりはない。
必要に駆られた応急処置なので、常に解けないこともないのだが。
「ほら、目を覚ましなさい。桃が待っているぞ」
こくりと翠子さんはうなずいた。鉛筆を手に取り、眠い目をこすりながら辞書を引いている。
とはいえ昼下がりに眠くならないはずがない。
「翠子さん、眠ってしまったら罰を与えるよ」
彼女の耳元で囁いて、その耳朶を軽く噛む。「きゃあ」と短い悲鳴を上げて、翠子さんは目を覚ました。
「これが罰ですか? 翠子、噛まれてしまうのですか」
「いーや、これは予告。夜に酷いことをするよ」
「それは、困ります」
俺の膝にすっぽりと収まったままで、翠子さんは課題に取り組んでいく。
そう、真面目にやればできるんだよ。あなたは。
調べたり辞書を引くのを面倒くさがって、適当に解くからいけないんだ。
裁縫の授業の袋物は、あんなにきれいに丁寧に作っていたのになぁ。針で指をついても挫けない心が、裁縫に対してはあったのだろうか。
「翠子さん。どうして裁縫は成績が上がったんだ?」
「内緒です」
ちょうど俺に背を向けているから、翠子さんの表情は詳しくは分からない。
まぁ、今は勉強中だ。無駄に声をかけてもいけない。
だが、なぜ裁縫だけ? 昼食後にお清に「翠子さんの代わりに、袋を縫ってあげたのか?」と尋ねてみたが「そんなことはしませんよ。運針をお教えしただけです」と言っていた。
何か作りたいものでもあるのだろうか。俺に言えば、買ってあげるのに……と考えて、はっとした。
俺に言えない物か。着物の襦袢とか? いや、それならお清に言えばいいことだろう。
水蜜桃を食べたい一心なのか、俺に酷いことをされたくないのか、翠子さんは熱心に問題を解いている。
さっきまでスパルタ一辺倒に傾いていた俺の心は、今や千々に乱れている。
あなたはいったい何を縫いたいんだ、と。
「できましたっ!」
明るい声で翠子さんが言うから、俺はぐだぐだした妄想から引き離された。
危ないところだった。
俺の妄想の中では、校長先生の家に居候をしている翠子さんが、帰省中の大学生の息子に半巾を縫い、布と同色の糸でイニシャルまで刺繍してプレゼントしているところまで、話が進んでいた。
しかも大学生の息子がお礼のついでに、翠子さんを抱きしめたのだ。
絶対に、翠子さんを校長の家に預けるものかと俺は決意した。
まぁ、全部妄想なんだが。
あなたにおすすめの小説
お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、お兄ちゃんなのにお兄ちゃんじゃない!?
すずなり。
恋愛
幼いころ、母に施設に預けられた鈴(すず)。
お母さん「病気を治して迎えにくるから待ってて?」
その母は・・迎えにくることは無かった。
代わりに迎えに来た『父』と『兄』。
私の引き取り先は『本当の家』だった。
お父さん「鈴の家だよ?」
鈴「私・・一緒に暮らしていいんでしょうか・・。」
新しい家で始まる生活。
でも私は・・・お母さんの病気の遺伝子を受け継いでる・・・。
鈴「うぁ・・・・。」
兄「鈴!?」
倒れることが多くなっていく日々・・・。
そんな中でも『恋』は私の都合なんて考えてくれない。
『もう・・妹にみれない・・・。』
『お兄ちゃん・・・。』
「お前のこと、施設にいたころから好きだった・・・!」
「ーーーーっ!」
※本編には病名や治療法、薬などいろいろ出てきますが、全て想像の世界のお話です。現実世界とは一切関係ありません。
※コメントや感想などは受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
※孤児、脱字などチェックはしてますが漏れもあります。ご容赦ください。
※表現不足なども重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけたら幸いです。(それはもう『へぇー・・』ぐらいに。)
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
女の子がほとんど産まれない国に転生しました。
さくらもち
恋愛
何番煎じかのお話です。
100人に3~5人しか産まれない女の子は大切にされ一妻多夫制の国に産まれたのは前世の記憶、日本で亭主関白の旦那に嫁いびりと男尊女卑な家に嫁いで挙句栄養失調と過労死と言う令和になってもまだ昭和な家庭!でありえない最後を迎えてしまった清水 理央、享年44歳
そんな彼女を不憫に思った女神が自身の世界の女性至上主義な国に転生させたお話。
当面は2日に1話更新予定!
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
お隣さんはヤのつくご職業
古亜
恋愛
佐伯梓は、日々平穏に過ごしてきたOL。
残業から帰り夜食のカップ麺を食べていたら、突然壁に穴が空いた。
元々薄い壁だと思ってたけど、まさか人が飛んでくるなんて……ん?そもそも人が飛んでくるっておかしくない?それにお隣さんの顔、初めて見ましたがだいぶ強面でいらっしゃいますね。
……え、ちゃんとしたもん食え?
ちょ、冷蔵庫漁らないでくださいっ!!
ちょっとアホな社畜OLがヤクザさんとご飯を食べるラブコメ
建築基準法と物理法則なんて知りません
登場人物や団体の名称や設定は作者が適当に生み出したものであり、現実に類似のものがあったとしても一切関係ありません。
2020/5/26 完結
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
**2026.01.02start~2026.01.17end**
◆エブリスタ様にも掲載。人気沸騰中です!
https://estar.jp/novels/26513389
「職場では隙のない完璧な先輩が、家ではゆるニットで甘えてくる。それでも彼女は、まだ俺の恋人じゃない」
まさき
恋愛
会社では完璧で、誰も近づけない先輩。
そんな彼女と、俺は同じ部屋で暮らしている。
「…おかえり」
ゆるニット姿の彼女は、家でだけ甘い声を出す。
近い。甘い。それでも――
「ちゃんと付き合ってから」
彼女は知っている。自分が好きになりすぎることを。
嫌われるのが怖くて、迷惑になるのが怖くて。
だから一歩手前で、いつも笑って止まる。
最初から好きなくせに、言えない彼女と。
気づいているのに、待っている俺の話。