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十章
7、夕立ち【1】
昼食後、先生は職員室に戻られました。
裁縫室から出ていくときに、何度も振り返るので、わたくしは廊下に出てお見送りをしました。
職員室と裁縫室は同じ二階にあるので、先生が職員室に入るまで見ていることができます。
お仕事、頑張ってくださいね。翠子はお裁縫を頑張ります。
「先生の意外な一面を見せてもらったわ」
「怖くないでしょう?」
「そうね。あれが高瀬先生の素の顔なのね」
午前中は心ここにあらずといった文子さんでしたが。今は、平常心といった感じです。
よかったです。
だって型紙を切り抜いただけでは、何をしに来たのか分かりませんもの。
お裁縫室の中に留まっていた甘い水蜜桃の香りが、窓から吹き込む潮風に薄らいでいきます。
わたくしは待ち針で型紙を留めた布を、鋏で裁っていきました。じゃき、じゃき……と力を入れて切っていきます。
布地を買う時に、お店の方が鋏を入れて「すーっ」と裂くように、鋏の刃を動かさずに布を裁つのを見るのは、爽快感があるのですけど。
自分では、そんな風にはできません。
「翠子さんは、この服は高瀬先生との子どもを想像しながら作るの?」
「なっ! 何を仰るの?」
もう少しで、縫い代部分を切り落としてしまうところでした。
確かに自分でもそんな風なことを口にしましたけど。先生といい文子さんといい、どうして深く追究しようとするのでしょう。
「あら、でも結婚するんでしょう?」
「します……けど」
自分で口にして、はっとしました。
そうですよね。今、先生はわたくしのことを許嫁として扱っていらっしゃいます。同じ家で暮らしておりますし、女学校を卒業したら夫婦になるのですもの。
二人の子どもだって、現実的なことです。
「翠子さん、大丈夫? 顔が赤いわ」
「いえ、なにも。平気ですよ」
まだまだ自分のことは子どもだと思っておりました。でも、先生との結婚は遠い未来のことではないのです。
さっき先生が、わたくしとの子どもの話で戸惑っていらっしゃいましたけど。
今になってわたくしにも、恥ずかしさが生じてきました。
◇◇◇
簡単小児服の前身頃と後ろ身頃を、しつけ糸で綴じたわたくしと文子さんは、裁縫室を出ました。
職員室に鍵を返すためです。
高瀬先生もちょうど仕事を終えたらしくて、一緒に職員室を出ました。偶然ってあるんですね。
なぜか美術の皆月先生が、にやにやと笑っているのが気になりましたけど。
校門で文子さんと別れ、わたくしと旦那さまは一緒に帰路につきました。
今日はよく晴れていたのですけど、そのせいで入道雲が発達して、遠くから雷の音も聞こえてきました。
「夕立が来そうです。急いだ方がいいですね」
「そうだな」
日傘は、傘の代わりにはなりませんもの。ですが、ひんやりとした湿った風が肌を撫でたと思うと、すぐに雨のひとしずくが落ちてきました。
湿った大気のにおいと、熱せられた土が濡れたにおいが立ち込めます。
あっという間でした。
地面に大きな水玉模様ができ、それがしみこんでいったと思うと、頭や体を激しい雨が叩きつけたのです。
「きゃあっ」
痛いほどの雨です。なのに、急に雨は小降りになりました。
いいえ、違います。旦那さまが、わたくしに覆いかぶさるように抱きしめてくださっているのです。
「だめです。旦那さまが濡れてしまいます」
あの叩きつける激しい雨を、旦那さまはすべて背中で受け止めています。すぐに開襟シャツはぐっしょりと濡れて、体に張り付いてしまっています。
なのに、わたくしはたくましい腕と胸に守られて、さほど濡れてもおりません。
「嫌です。離してください。わたくしは平気ですから、旦那さまはご自分を濡れないようになさって」
「無茶を言うな」
「だって。きゃあ!」
稲光に視界が黄色く染まりました。同時に、耳をつんざく轟音が響きます。
「近いな。このまま外にいては危ない」
「え、ええ」
「少しだけ我慢できるね?」
旦那さまはそう仰ると、ご自分の鞄をわたくしの頭上にかざしてくださいました。鞄の革を叩きつける雨の音。暗い空からは、ゴロゴロと不気味な音が聞こえてきます。
手を引かれた状態で走ると、ぬかるんだ地面から水が跳ねあがります。旦那さまは迷うことなく、近くの建物に入りました。
木造の二階建てで、外階段があります。そして同じようなドアがいくつも並んでいました。
「確か201号が空いているはずだ」
カンカン……と金属の階段を上がって、二階の一番端の部屋に入ります。
あの、ここって下宿なのでは? 近くの大学生が暮らしている建物ですよね。
裁縫室から出ていくときに、何度も振り返るので、わたくしは廊下に出てお見送りをしました。
職員室と裁縫室は同じ二階にあるので、先生が職員室に入るまで見ていることができます。
お仕事、頑張ってくださいね。翠子はお裁縫を頑張ります。
「先生の意外な一面を見せてもらったわ」
「怖くないでしょう?」
「そうね。あれが高瀬先生の素の顔なのね」
午前中は心ここにあらずといった文子さんでしたが。今は、平常心といった感じです。
よかったです。
だって型紙を切り抜いただけでは、何をしに来たのか分かりませんもの。
お裁縫室の中に留まっていた甘い水蜜桃の香りが、窓から吹き込む潮風に薄らいでいきます。
わたくしは待ち針で型紙を留めた布を、鋏で裁っていきました。じゃき、じゃき……と力を入れて切っていきます。
布地を買う時に、お店の方が鋏を入れて「すーっ」と裂くように、鋏の刃を動かさずに布を裁つのを見るのは、爽快感があるのですけど。
自分では、そんな風にはできません。
「翠子さんは、この服は高瀬先生との子どもを想像しながら作るの?」
「なっ! 何を仰るの?」
もう少しで、縫い代部分を切り落としてしまうところでした。
確かに自分でもそんな風なことを口にしましたけど。先生といい文子さんといい、どうして深く追究しようとするのでしょう。
「あら、でも結婚するんでしょう?」
「します……けど」
自分で口にして、はっとしました。
そうですよね。今、先生はわたくしのことを許嫁として扱っていらっしゃいます。同じ家で暮らしておりますし、女学校を卒業したら夫婦になるのですもの。
二人の子どもだって、現実的なことです。
「翠子さん、大丈夫? 顔が赤いわ」
「いえ、なにも。平気ですよ」
まだまだ自分のことは子どもだと思っておりました。でも、先生との結婚は遠い未来のことではないのです。
さっき先生が、わたくしとの子どもの話で戸惑っていらっしゃいましたけど。
今になってわたくしにも、恥ずかしさが生じてきました。
◇◇◇
簡単小児服の前身頃と後ろ身頃を、しつけ糸で綴じたわたくしと文子さんは、裁縫室を出ました。
職員室に鍵を返すためです。
高瀬先生もちょうど仕事を終えたらしくて、一緒に職員室を出ました。偶然ってあるんですね。
なぜか美術の皆月先生が、にやにやと笑っているのが気になりましたけど。
校門で文子さんと別れ、わたくしと旦那さまは一緒に帰路につきました。
今日はよく晴れていたのですけど、そのせいで入道雲が発達して、遠くから雷の音も聞こえてきました。
「夕立が来そうです。急いだ方がいいですね」
「そうだな」
日傘は、傘の代わりにはなりませんもの。ですが、ひんやりとした湿った風が肌を撫でたと思うと、すぐに雨のひとしずくが落ちてきました。
湿った大気のにおいと、熱せられた土が濡れたにおいが立ち込めます。
あっという間でした。
地面に大きな水玉模様ができ、それがしみこんでいったと思うと、頭や体を激しい雨が叩きつけたのです。
「きゃあっ」
痛いほどの雨です。なのに、急に雨は小降りになりました。
いいえ、違います。旦那さまが、わたくしに覆いかぶさるように抱きしめてくださっているのです。
「だめです。旦那さまが濡れてしまいます」
あの叩きつける激しい雨を、旦那さまはすべて背中で受け止めています。すぐに開襟シャツはぐっしょりと濡れて、体に張り付いてしまっています。
なのに、わたくしはたくましい腕と胸に守られて、さほど濡れてもおりません。
「嫌です。離してください。わたくしは平気ですから、旦那さまはご自分を濡れないようになさって」
「無茶を言うな」
「だって。きゃあ!」
稲光に視界が黄色く染まりました。同時に、耳をつんざく轟音が響きます。
「近いな。このまま外にいては危ない」
「え、ええ」
「少しだけ我慢できるね?」
旦那さまはそう仰ると、ご自分の鞄をわたくしの頭上にかざしてくださいました。鞄の革を叩きつける雨の音。暗い空からは、ゴロゴロと不気味な音が聞こえてきます。
手を引かれた状態で走ると、ぬかるんだ地面から水が跳ねあがります。旦那さまは迷うことなく、近くの建物に入りました。
木造の二階建てで、外階段があります。そして同じようなドアがいくつも並んでいました。
「確か201号が空いているはずだ」
カンカン……と金属の階段を上がって、二階の一番端の部屋に入ります。
あの、ここって下宿なのでは? 近くの大学生が暮らしている建物ですよね。
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