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十章
11、乾かしてください
旦那さまは、わたくしに無茶をしたと自覚なさっているのでしょう。
お風呂から上がっても、しばらく機嫌を取ってくださいました。
わたくし、もう機嫌は直っていたんですよ。でも、旦那さまが甘やかそうとなさるんですもの。甘えるのが礼儀ですよね。
「翠子さん。俺に何かしてほしいこととかある?」
「何でもよろしいんですか?」
「できる範囲のことなら。うーん、たとえば今すぐにさくらんぼを買って来いというのは無理だが。もう店も閉まっているし」
「さくらんぼの時季は過ぎていますよ」
「それもそうか」と、旦那さまはご自分のあごに手を当てていらっしゃいます。きっと、今が旬の果物は何かを考えているのでしょうね。
「髪を乾かしてください」
「はい?」
「今日は湿気が多いので、なかなか乾かないんです」
ほら、と言いつつわたくしは湿り気の残る髪を持ち上げました。
いっそ文子さんのように肩よりも短く切ってしまえば、乾くのも早いのでしょうけど。そこまでハイカラなおしゃれは、わたくしには難しいです。
「まぁ、それでいいなら」
旦那さまは立ち上がると、手拭いと櫛を持っていらっしゃいました。
縁側に座るわたくしの髪を少し取り、手拭いで挟んで湿気を吸わせていきます。
いつもは自分でしているので、旦那さまに乾かしてもらうのは特別感があります。
夕立を降らせていた重い雲はすでに去り、朱と紫に染まる夕空が濡れた木々の葉を照らしています。
二人の間に会話はありません。
ただ、ねぐらへ帰る鳥の物寂しい声が聞こえるばかりです。
ふと、慣れた香りが鼻をかすめました。
わたくしの大好きな、檸檬と薄荷の香り。いつもの旦那さまの匂いです。
振り返ろうとした時、背後から抱きしめられました。
旦那さまの横顔が、わたくしの顔のすぐ傍にあります。瞼を閉じていらっしゃるので、存外長い睫毛がはっきりと見えます。
「旦那さま?」
返事はありません。けれど、わたくしの手を取ると、指先にキスをなさいます。
わたくしは、旦那さまにもたれかかりました。浴衣越しの逞しい胸が、わたくしの背を受け止めてくださいます。
とても静かな夕暮れは、まるで旦那さまとわたくしの二人だけしか存在しないように感じます。
「ね、旦那さま」
沈黙に耐え切れずに話しかけようとすると、わたくしの唇の前に人差し指が添えられました。
「もう少し待っていてごらん。宵の明星が輝きだすから」
まるで喋っていれば、星の煌めく音が聞こえないとでもいう風に、旦那さまは小声で囁きます。
華やいだ花びら色の空が、徐々に紺から藍色へと移っていきます。
そう、まるで夕暮れの結晶が砕けて、夜に溶け込んでいくようです。
空の片隅に、きらりと光るものが見えました。
「あっ」
声を上げたわたくしは、慌てて手で口を押えました。
そんなことがあるはずはないのに、密やかに輝く星が消えてしまいそうで。
「ここは街だから、星がそんなには見えないが。別荘に行けば満天の星が望める。一緒に見ような」
旦那さまは小指をわたくしの前に差し出しました。
約束の指きりです。
「外で夜更かししてもいいんですか?」
「俺が一緒なら」
「楽しみです」
宵の明星の邪魔をしないように、わたくし達は互いの耳元で囁きました。
笠井家が持っていた別荘は森の中だったので、木々の枝の間から天の川は見えましたけど。星座はよく分からなかったのです。
絡ませたままの小指を、旦那さまはなかなか離してはくださいません。
髪だってまだ乾いてはいません。
お願いはなんだって聞いてあげるとおっしゃったのに、中途半端なままです。
それでも、こうして静かに過ぎていく夕暮れを、ただ寄り添って眺めているだけで、とても嬉しいのです。
お風呂から上がっても、しばらく機嫌を取ってくださいました。
わたくし、もう機嫌は直っていたんですよ。でも、旦那さまが甘やかそうとなさるんですもの。甘えるのが礼儀ですよね。
「翠子さん。俺に何かしてほしいこととかある?」
「何でもよろしいんですか?」
「できる範囲のことなら。うーん、たとえば今すぐにさくらんぼを買って来いというのは無理だが。もう店も閉まっているし」
「さくらんぼの時季は過ぎていますよ」
「それもそうか」と、旦那さまはご自分のあごに手を当てていらっしゃいます。きっと、今が旬の果物は何かを考えているのでしょうね。
「髪を乾かしてください」
「はい?」
「今日は湿気が多いので、なかなか乾かないんです」
ほら、と言いつつわたくしは湿り気の残る髪を持ち上げました。
いっそ文子さんのように肩よりも短く切ってしまえば、乾くのも早いのでしょうけど。そこまでハイカラなおしゃれは、わたくしには難しいです。
「まぁ、それでいいなら」
旦那さまは立ち上がると、手拭いと櫛を持っていらっしゃいました。
縁側に座るわたくしの髪を少し取り、手拭いで挟んで湿気を吸わせていきます。
いつもは自分でしているので、旦那さまに乾かしてもらうのは特別感があります。
夕立を降らせていた重い雲はすでに去り、朱と紫に染まる夕空が濡れた木々の葉を照らしています。
二人の間に会話はありません。
ただ、ねぐらへ帰る鳥の物寂しい声が聞こえるばかりです。
ふと、慣れた香りが鼻をかすめました。
わたくしの大好きな、檸檬と薄荷の香り。いつもの旦那さまの匂いです。
振り返ろうとした時、背後から抱きしめられました。
旦那さまの横顔が、わたくしの顔のすぐ傍にあります。瞼を閉じていらっしゃるので、存外長い睫毛がはっきりと見えます。
「旦那さま?」
返事はありません。けれど、わたくしの手を取ると、指先にキスをなさいます。
わたくしは、旦那さまにもたれかかりました。浴衣越しの逞しい胸が、わたくしの背を受け止めてくださいます。
とても静かな夕暮れは、まるで旦那さまとわたくしの二人だけしか存在しないように感じます。
「ね、旦那さま」
沈黙に耐え切れずに話しかけようとすると、わたくしの唇の前に人差し指が添えられました。
「もう少し待っていてごらん。宵の明星が輝きだすから」
まるで喋っていれば、星の煌めく音が聞こえないとでもいう風に、旦那さまは小声で囁きます。
華やいだ花びら色の空が、徐々に紺から藍色へと移っていきます。
そう、まるで夕暮れの結晶が砕けて、夜に溶け込んでいくようです。
空の片隅に、きらりと光るものが見えました。
「あっ」
声を上げたわたくしは、慌てて手で口を押えました。
そんなことがあるはずはないのに、密やかに輝く星が消えてしまいそうで。
「ここは街だから、星がそんなには見えないが。別荘に行けば満天の星が望める。一緒に見ような」
旦那さまは小指をわたくしの前に差し出しました。
約束の指きりです。
「外で夜更かししてもいいんですか?」
「俺が一緒なら」
「楽しみです」
宵の明星の邪魔をしないように、わたくし達は互いの耳元で囁きました。
笠井家が持っていた別荘は森の中だったので、木々の枝の間から天の川は見えましたけど。星座はよく分からなかったのです。
絡ませたままの小指を、旦那さまはなかなか離してはくださいません。
髪だってまだ乾いてはいません。
お願いはなんだって聞いてあげるとおっしゃったのに、中途半端なままです。
それでも、こうして静かに過ぎていく夕暮れを、ただ寄り添って眺めているだけで、とても嬉しいのです。
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