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十章
19、南国の果実【2】
とてもいい香りがします。
甘くて、これまでに嗅いだことのないような、魅惑的な香り。
なぁに? わたくし本当に南国に来てしまったのかしら。
一人で妄想遊びをしていたら、本当に南国の姫君になったのかしら。
素敵。
これはきっとわたくしの夢の中ですね。
ならば自由にしていいのです。
わたくしは辺りを見回しました。下僕はいません。よかった。旦那さまは大好きですけど、あの性質の悪い下僕は苦手なことこの上ないです。
「笑っておられますね、翠子さま」
「素敵な夢でも見てるんだろ。ああ、銀司。済まないが、包丁と皿を持ってきてくれないか? そうだな、フォークもだ。三人分な。お清の分は明日剥くとしよう」
「あのー、旦那さま。ぼくが出ている間に、服を着せてあげてくださいませんか?」
「そうだな。寝間着を着せておくか」
なぜか銀司さんと旦那さまの声が聞こえます。
不思議ですね。まぁいいでしょう。
わたくしは沙漠を思い浮かべました。ええ、月の沙漠をはるばると旅の駱駝が行くんです。王子様とお姫様をのせて、ゆったりと。
そんな詩と挿画を見たことがあります。あれは『少女倶楽部』だったでしょうか。
朧にけぶる月の夜を、二頭の駱駝が進んでいくんです。
王子も姫も無言で、ただ聞こえるのは砂が風で流れる音だけでしょうか。
本当に、素敵な夢ですね。南国の香りまでするんですもの。
うっとりとまどろんでいると、ちょんちょんと唇をつつく指の感触がありました。
促されるままに、わたくしは唇を開きます。
ええ、素直ですから。
口に小さなひとかけらが入ってきました。それは柔らかく舌の上で潰れます。桃? 水蜜桃? いいえ、違います。
もっと濃厚な甘さで、少し青っぽい匂いがして。でもとてもとても美味しくて、太陽の光を凝縮させたような甘味です。
「……もっと」
「まったく、私のお姫さまは欲張りでいらっしゃる」
あら? なぜあの生意気な下僕の声が?
ですが、わたくしの疑問は再び口に入ってきた甘味にかき消されました。
今度は、さきほどのような強烈な甘さではありません。柿……とも違いますけど。なんでしょうか。
でも、こちらも美味しいです。
「あの、旦那さま。どうして『私』と仰っているんですか? ここ、職場じゃありませんよ」
「ああ、気にしないでくれたまえ、銀司くん。私はこのお姫さまの下僕なんだよ」
「……訳が分かりません」
「ちなみに、下僕として参加できるのは私だけなので、銀司くんにはご遠慮願うよ」
「参加したくもありませんよ。そんな妙な遊び」
もう、銀司さんったら失礼ですよ。妙な遊びだなんて。本来は、わたくし一人の楽しみだったんです。
なのに、あの不埒で生意気な下僕が乱入してくるから、おかしくなるんです。
「で、お姫さま。どちらの果物がお好みですか? 最初のが菴羅。二つめが木瓜でございますよ」
「……菴羅のお代わりを、所望します」
「翠子さま、本当に眠っていらっしゃるんですか?」
「はい、そこ。お姫さまの邪魔をしない」
下僕が、銀司さんにえらそうな口をきいています。
まったく、早々に退場してもらわなくては。
わたくしは眠い目をこすって、体を起こしました。
ええ、びっくりしました。
だって、銀司さんがわたくしの顔を覗きこんでいらっしゃるんですもの。わたくしは、なぜか旦那さまのお膝に座っている状態です。
寝間着は……着ていますね。よかったです。
「夢を見ていたんです。それはもうとびきり美味しい果実をいただいて。あれが楽園を追われる原因となった禁断の果実なのでしょうか」
「それはリンゴだな」
「では幻だったのかしら。『あんら』と『もっか』と聞こえたのですけど」
銀司さんが、わたくしの前にお皿を二つ差し出しました。
ひとつには爽やかな黄色い果実。これは、切り口がとろけそうです。もうひとつには、橙色の少しばかり硬そうな果実です。
「黄色いのが菴羅で、橙色のが木瓜ですよ。翠子さまは、菴羅がお好みのようですね。木瓜には檸檬をかけてもいいんです」
「夢ではなかったの?」
「寝ながら果物を食べる人を、初めて見ました」
銀司さんの指摘に、わたくしは徐々に顔が熱くなるのを感じました。
寝ながら? 夢を見つつ、わたくしは果物を食べて……なおかつ。
「そうそう、私のお姫さまはお代わりを所望されていましたね」
出た。出ました。悪の下僕です。
下僕は、さも楽しそうに笑っています。
「寝ている人の口に、食べ物を入れるのはよくないと思います」
「まさか両方とも食べた上に、お代わりを欲しがるとは思わなかったので。あ、でも喉に詰まらないように、小さくしてさしあげましたよ。お姫さま」
もう、知りません。
わたくしは頬を膨らませて、下僕に背中を向けました。
今日はもう、お話ししてあげないんです。顔も見せてあげないんです。
翠子は、怒ってしまったんですからね。
甘くて、これまでに嗅いだことのないような、魅惑的な香り。
なぁに? わたくし本当に南国に来てしまったのかしら。
一人で妄想遊びをしていたら、本当に南国の姫君になったのかしら。
素敵。
これはきっとわたくしの夢の中ですね。
ならば自由にしていいのです。
わたくしは辺りを見回しました。下僕はいません。よかった。旦那さまは大好きですけど、あの性質の悪い下僕は苦手なことこの上ないです。
「笑っておられますね、翠子さま」
「素敵な夢でも見てるんだろ。ああ、銀司。済まないが、包丁と皿を持ってきてくれないか? そうだな、フォークもだ。三人分な。お清の分は明日剥くとしよう」
「あのー、旦那さま。ぼくが出ている間に、服を着せてあげてくださいませんか?」
「そうだな。寝間着を着せておくか」
なぜか銀司さんと旦那さまの声が聞こえます。
不思議ですね。まぁいいでしょう。
わたくしは沙漠を思い浮かべました。ええ、月の沙漠をはるばると旅の駱駝が行くんです。王子様とお姫様をのせて、ゆったりと。
そんな詩と挿画を見たことがあります。あれは『少女倶楽部』だったでしょうか。
朧にけぶる月の夜を、二頭の駱駝が進んでいくんです。
王子も姫も無言で、ただ聞こえるのは砂が風で流れる音だけでしょうか。
本当に、素敵な夢ですね。南国の香りまでするんですもの。
うっとりとまどろんでいると、ちょんちょんと唇をつつく指の感触がありました。
促されるままに、わたくしは唇を開きます。
ええ、素直ですから。
口に小さなひとかけらが入ってきました。それは柔らかく舌の上で潰れます。桃? 水蜜桃? いいえ、違います。
もっと濃厚な甘さで、少し青っぽい匂いがして。でもとてもとても美味しくて、太陽の光を凝縮させたような甘味です。
「……もっと」
「まったく、私のお姫さまは欲張りでいらっしゃる」
あら? なぜあの生意気な下僕の声が?
ですが、わたくしの疑問は再び口に入ってきた甘味にかき消されました。
今度は、さきほどのような強烈な甘さではありません。柿……とも違いますけど。なんでしょうか。
でも、こちらも美味しいです。
「あの、旦那さま。どうして『私』と仰っているんですか? ここ、職場じゃありませんよ」
「ああ、気にしないでくれたまえ、銀司くん。私はこのお姫さまの下僕なんだよ」
「……訳が分かりません」
「ちなみに、下僕として参加できるのは私だけなので、銀司くんにはご遠慮願うよ」
「参加したくもありませんよ。そんな妙な遊び」
もう、銀司さんったら失礼ですよ。妙な遊びだなんて。本来は、わたくし一人の楽しみだったんです。
なのに、あの不埒で生意気な下僕が乱入してくるから、おかしくなるんです。
「で、お姫さま。どちらの果物がお好みですか? 最初のが菴羅。二つめが木瓜でございますよ」
「……菴羅のお代わりを、所望します」
「翠子さま、本当に眠っていらっしゃるんですか?」
「はい、そこ。お姫さまの邪魔をしない」
下僕が、銀司さんにえらそうな口をきいています。
まったく、早々に退場してもらわなくては。
わたくしは眠い目をこすって、体を起こしました。
ええ、びっくりしました。
だって、銀司さんがわたくしの顔を覗きこんでいらっしゃるんですもの。わたくしは、なぜか旦那さまのお膝に座っている状態です。
寝間着は……着ていますね。よかったです。
「夢を見ていたんです。それはもうとびきり美味しい果実をいただいて。あれが楽園を追われる原因となった禁断の果実なのでしょうか」
「それはリンゴだな」
「では幻だったのかしら。『あんら』と『もっか』と聞こえたのですけど」
銀司さんが、わたくしの前にお皿を二つ差し出しました。
ひとつには爽やかな黄色い果実。これは、切り口がとろけそうです。もうひとつには、橙色の少しばかり硬そうな果実です。
「黄色いのが菴羅で、橙色のが木瓜ですよ。翠子さまは、菴羅がお好みのようですね。木瓜には檸檬をかけてもいいんです」
「夢ではなかったの?」
「寝ながら果物を食べる人を、初めて見ました」
銀司さんの指摘に、わたくしは徐々に顔が熱くなるのを感じました。
寝ながら? 夢を見つつ、わたくしは果物を食べて……なおかつ。
「そうそう、私のお姫さまはお代わりを所望されていましたね」
出た。出ました。悪の下僕です。
下僕は、さも楽しそうに笑っています。
「寝ている人の口に、食べ物を入れるのはよくないと思います」
「まさか両方とも食べた上に、お代わりを欲しがるとは思わなかったので。あ、でも喉に詰まらないように、小さくしてさしあげましたよ。お姫さま」
もう、知りません。
わたくしは頬を膨らませて、下僕に背中を向けました。
今日はもう、お話ししてあげないんです。顔も見せてあげないんです。
翠子は、怒ってしまったんですからね。
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