【第一部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

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十章

21、閑話 姫さまは眠ってしまわれた ※銀司視点

 今日の翠子さまは、情緒が不安定なようだ。
 ぼくは、背中を向けてさらに夏布団を頭までかぶってしまわれた翠子さまに視線を向けた。

「旦那さま。何をなさったんです?」
「いや、別に何も」
「嘘ですね」

 翠子さまの睡眠の邪魔をしないように、できる限り小さな声で話すように心がける。
 まだ時刻は遅くはないけど、まぁ、早く眠りたい夜もあるだろうし。

「そういえば、お姫さまがどうとか仰っていましたね」
「ああ、いいな。翠子さんが姫なら、俺は下僕だ」
「王じゃないんですか?」
「王子じゃなくて?」

 旦那さまが、きょとんとした表情をなさるけど。あんた、王子って柄じゃないでしょ。
 横暴な王なら分かるけど。そもそもなんで下僕なんですか。

「姫の我儘に振りまわされる下僕って、いいと思わないか? こう、姫から高飛車に命令されてだな。ぞくぞくするだろ」

 そこは同意できません。
 旦那さまが、マゾヒストだとは思わなかった。

「だが、高飛車なのも一時いっときのこと。夜には……げふん、いや時間はどうでもいいな。姫と下僕の立場が逆転するんだ。楽しいだろ」
「参考までに伺いますが。どこが楽しいんですか?」
「え? 銀司は、そういうの楽しいと思わないのか?」

 あ、やっぱりこの人サディストだ。しかも相当、たちが悪い。
 それから、夜って言いましたよね。白々しい咳でごまかしても駄目ですからね。

 旦那さまは立ち上がって、部屋を出ていかれた。
 ん? よくよく考えたら、今はぼくと翠子さまの二人きりじゃないか。
 しかも翠子さまは、すでに眠りに落ちておられる。
 
 時計の針の音がやたらと大きく聞こえて。しかも静かな翠子さまの寝息まで、聞こえてくるようで。
 ああ、間が持たない。
 旦那さま、早く帰ってきてくださいよ。

「う……ん」

 布団を頭までかぶるから、暑かったんだろう。翠子さまは寝返りを打って、片手で布団を剥いでしまわれた。
 少し汗ばんだ額、上気した頬は薄桃色に染まっている。

 やめてくださいよ、そういうの。
 俺が布団をめくったみたいに見えるじゃないですか。

 翠子さまの元へにじりよって、夏布団を元に戻そうとしたけど。なんか、この人、いい匂いがします。
 部屋には菴羅あんら木瓜もっかの匂いがしているのに。翠子さまからは、茉莉花ジャスミンの香りがして。
 なんですか。誘ってるんですか? いや、そんなこと有り得ませんけど。

 旦那さまが、いつもすぐに翠子さまを抱いてしまうけど。これは、自制が難しいんじゃないのかな。元々旦那さまは堅物で、他の女性にどれだけ言い寄られても折れることもなかったのに。
 
 俺はなるべく翠子さまを見ないようにして、布団をかけてさしあげた。
 
「ありがとう、銀司」

 いつの間に部屋に戻っていらしたのか、旦那さまが切子のグラスと酒の瓶を持って、ぼくの背後に立っていた。
 あぶなー。もう少しで「うわっ」と声を上げるところだった。

「翠子さんは、存外寝相が悪いんだ」
「……そのようですね。初めて知りました」
「ははっ。本人に言ったことはないけどな。すぐに俺の布団に潜り込んできては、さらに布団を奪ってしまうんだ」

 旦那さまは縁側に腰を下ろすと、ぼくを手招きした。そして青い切子のグラスに日本酒を注いでくれる。
 芳醇な香りが立つ。燗をする必要のない酒だ。

「俺は伏見の甘い女酒よりも、辛口の灘の男酒の方が好みなんだが」
「ぼくは焼酎ですね。島にいた時は子どもだったから、飲んだことなかったのに。不思議です。芋でも麦でも、黒糖でも、結構好きなんです」

 温かな土地だから、酔っぱらってそのまま浜辺や道で寝てしまう大人も多かった。
 旦那さまがくださった酒は、水のようで。多分、そういうのが上質な酒なんだろうけど。
 ぼくは、かっと喉が焼けるようなのが好きだ。

「お前も強そうだよな。銀司とこうして酒を酌み交わすのも、初めてかな」
「ですね。いいんですか? ぼくなんかで」
「なんだよ。謙遜するなって」

 夕立で空気が洗われたからか、今夜の星はとりわけ綺麗に見える。
 もし、また翠子さんが故郷の島のことを尋ねてきたら、もっと詳細に教えてさしあげよう。
 
 雨の後は蛙で道がいっぱいになって、リヤカーのタイヤで轢いてしまうことや、木を登る凶暴な爪の大きい蟹のことも。
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