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十章
32、閑話 ひっかき傷【1】 ※銀司視点
俺は玄関先を掃除しながら、そわそわしていた。
時刻はすでに午後七時半だ。旦那さまも翠子さまも、まだ夕飯を召し上がっていらっしゃらない。
本当は庭の掃除もしたかったけど。
お二人の部屋の前の庭に行くのは、ためらわれた。
「銀司、先に食べなさいな」
お清さんにそう言われて、俺は用意された夕飯を食べた。いつもという訳ではないが、お二人と一緒に夕飯を食べる日もある。
だからかな。おにぎりが置いてある皿を見ると、妙な心地がしてしまう。
通いで仕事をしていた頃は、夕飯も外食が多かったんだけど。旦那さまたちと一緒に食べることに慣れてしまうと、一人の食事がとても味気ないんだ。
お清さんのご飯は、とても美味しいのに。
翠子さま、無理をされていないかな。お風呂、いつ沸かしたらいいんだろう。
自室に戻って勉強をしていると、絹を引き裂くような声が聞こえた。
まただ。これ、悲鳴? だよな。
時計を見ると、すでに九時だ。
さすがに旦那さまも翠子さまも、もう食事を召し上がっているよな。そう考えて台所に行ったが、皿にはまだ布巾が掛けられたままだ。
風呂の方へ行ってみたけど。入浴された様子もない。
「旦那さま。また無茶なさってるんじゃないだろうな」
渡り廊下から、お二人の部屋の方へ視線を向ける。その時、襖が開いた。
ゆらりと廊下に出てこられたのは、旦那さまだった。
「ああ、銀司。済まないが、薬箱を持ってきてくれないか?」
「け、怪我でもなさったんですか? 翠子さまは」
「彼女は眠っているよ」
ソファーのある居間へ、ぼくは薬箱を持って行った。
旦那さまと翠子さまは、ほとんどの時間を自室で過ごしていらっしゃるので、ほとんど居間は使わないのだけど。
立派な調度品はマホガニーという木材でできているのだと、お清さんが教えてくれたことがある。
足元に敷かれている絨毯は、なんでもペルシアという国の手織りのものだそうだ。
あまりにも繊細な模様を、人の手で何年もかけて織るのだと聞かされると、踏むことすらも憚られる。
旦那さまは一人掛けのソファーに腰を下ろすと、着ていた浴衣をはだけて、上半身をさらした。
この人は、先代が買い集めた調度品には、一切興味を示さない。
物に対して執着がないんだ。
「え、ええ? どうしたんですか。ひどい怪我ですけど」
「ああ、古い傷の方か? それは別に見た目が派手なだけで、もう痛くはない」
痛いのは……と言いながら、旦那さまは顔をしかめた。
「ひっかき傷ですね。えらいことになってますよ」
「仕方がない。自業自得だ」
「あと、なんか指に噛み痕が」
「まったくな」
茶色い小瓶を取りだして、ピンセットで挟んだ綿に消毒薬をつけていく。そして背中のひっかき傷につけていくと、旦那さまは小さく呻いた。
相当しみるんだな。
「まーた、無茶したんですね」
「翠子さんには内緒だぞ。気にするからな」
「お風呂に入れば、すぐにばれますよ」
「それなんだよな。彼女はすぐに俺の背中側にまわろうとするから」
二人の入浴中の話なんて、聞きたくありませんよ。
「いてっ。銀司。お前、荒っぽいぞ」
「翠子さまに乱暴ばかり働くからです」
「お前、どっちの味方なんだ?」
「ぼくは弱い者の味方です」
「……俺は、翠子さんに弱いぞ。この世の何よりも、彼女に弱い」
「そういう意味じゃないです」
もう。ちゃんとご飯を召し上がってください。翠子さまにご飯を食べさせてあげてください、お菓子もです。
今日のお菓子が何だったか、旦那さまは興味もないでしょうけど。
あれですよ、わざわざぼくが買いに行った水ようかんだったんですよ。
とろけるような水ようかんを口にして「美味しいです」と、翠子さんに言ってほしかったのに。
なーんで、あんたは彼女の楽しみを奪うんですかね。
旦那さまは物にも人にも関心が薄いけど。翠子さまに対する執着だけがすごい。
それだけ執着しているのに、彼女の自由までは束縛しないのは、よほど色々我慢しているのかもしれないな。
だからといって、無理強いするのは違うと思う。
ぷんすかと怒っていると、ふいに旦那さまがふき出した。
「悪い、悪い。気をつけるから、できるだけ」
その言葉、まったく信用できないです。どうせこの後風呂に入るんでしょ。ひっかき傷を翠子さまにばれて、申し訳なさそうに恐縮する彼女を慰めて、機嫌を取ってくださいよ。
時刻はすでに午後七時半だ。旦那さまも翠子さまも、まだ夕飯を召し上がっていらっしゃらない。
本当は庭の掃除もしたかったけど。
お二人の部屋の前の庭に行くのは、ためらわれた。
「銀司、先に食べなさいな」
お清さんにそう言われて、俺は用意された夕飯を食べた。いつもという訳ではないが、お二人と一緒に夕飯を食べる日もある。
だからかな。おにぎりが置いてある皿を見ると、妙な心地がしてしまう。
通いで仕事をしていた頃は、夕飯も外食が多かったんだけど。旦那さまたちと一緒に食べることに慣れてしまうと、一人の食事がとても味気ないんだ。
お清さんのご飯は、とても美味しいのに。
翠子さま、無理をされていないかな。お風呂、いつ沸かしたらいいんだろう。
自室に戻って勉強をしていると、絹を引き裂くような声が聞こえた。
まただ。これ、悲鳴? だよな。
時計を見ると、すでに九時だ。
さすがに旦那さまも翠子さまも、もう食事を召し上がっているよな。そう考えて台所に行ったが、皿にはまだ布巾が掛けられたままだ。
風呂の方へ行ってみたけど。入浴された様子もない。
「旦那さま。また無茶なさってるんじゃないだろうな」
渡り廊下から、お二人の部屋の方へ視線を向ける。その時、襖が開いた。
ゆらりと廊下に出てこられたのは、旦那さまだった。
「ああ、銀司。済まないが、薬箱を持ってきてくれないか?」
「け、怪我でもなさったんですか? 翠子さまは」
「彼女は眠っているよ」
ソファーのある居間へ、ぼくは薬箱を持って行った。
旦那さまと翠子さまは、ほとんどの時間を自室で過ごしていらっしゃるので、ほとんど居間は使わないのだけど。
立派な調度品はマホガニーという木材でできているのだと、お清さんが教えてくれたことがある。
足元に敷かれている絨毯は、なんでもペルシアという国の手織りのものだそうだ。
あまりにも繊細な模様を、人の手で何年もかけて織るのだと聞かされると、踏むことすらも憚られる。
旦那さまは一人掛けのソファーに腰を下ろすと、着ていた浴衣をはだけて、上半身をさらした。
この人は、先代が買い集めた調度品には、一切興味を示さない。
物に対して執着がないんだ。
「え、ええ? どうしたんですか。ひどい怪我ですけど」
「ああ、古い傷の方か? それは別に見た目が派手なだけで、もう痛くはない」
痛いのは……と言いながら、旦那さまは顔をしかめた。
「ひっかき傷ですね。えらいことになってますよ」
「仕方がない。自業自得だ」
「あと、なんか指に噛み痕が」
「まったくな」
茶色い小瓶を取りだして、ピンセットで挟んだ綿に消毒薬をつけていく。そして背中のひっかき傷につけていくと、旦那さまは小さく呻いた。
相当しみるんだな。
「まーた、無茶したんですね」
「翠子さんには内緒だぞ。気にするからな」
「お風呂に入れば、すぐにばれますよ」
「それなんだよな。彼女はすぐに俺の背中側にまわろうとするから」
二人の入浴中の話なんて、聞きたくありませんよ。
「いてっ。銀司。お前、荒っぽいぞ」
「翠子さまに乱暴ばかり働くからです」
「お前、どっちの味方なんだ?」
「ぼくは弱い者の味方です」
「……俺は、翠子さんに弱いぞ。この世の何よりも、彼女に弱い」
「そういう意味じゃないです」
もう。ちゃんとご飯を召し上がってください。翠子さまにご飯を食べさせてあげてください、お菓子もです。
今日のお菓子が何だったか、旦那さまは興味もないでしょうけど。
あれですよ、わざわざぼくが買いに行った水ようかんだったんですよ。
とろけるような水ようかんを口にして「美味しいです」と、翠子さんに言ってほしかったのに。
なーんで、あんたは彼女の楽しみを奪うんですかね。
旦那さまは物にも人にも関心が薄いけど。翠子さまに対する執着だけがすごい。
それだけ執着しているのに、彼女の自由までは束縛しないのは、よほど色々我慢しているのかもしれないな。
だからといって、無理強いするのは違うと思う。
ぷんすかと怒っていると、ふいに旦那さまがふき出した。
「悪い、悪い。気をつけるから、できるだけ」
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