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十一章
3、出勤
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なぜだか知らんが、俺は翠子さんにお清、そして銀司にまで見送られて家を出た。
いや、知っているぞ。この後、三人で猫を甲斐甲斐しく世話するんだ。きっとにこにこと全員が相好を崩して、猫なで声を出しつつ、エリスを取り囲むんだろう。
翠子さんの猫なで声は聞いてみたいが。さすがに銀司のは……勘弁だな。
ああ、でもいいよな。俺も家にいたい。学校に行きたくない。
普段は翠子さんと日傘を分け合って歩いているせいか、久しぶりに朝の陽ざしが強烈であることに気づいた。
面倒だが、道の端に移動して影を選んで歩く。
大学生はまだ夏休みではないのだろう。女学校が休みでも、翠子さんは登校していたものだから。大学生が一人、彼女を待ち伏せしているのだが。
残念だったな。日傘の君は今日はおりません。
俺一人だけが歩いているのを確認すると、その学生はすぐに自分の大学の方へと歩き出した。
いつもはうっとうしい大学生だが、なぜだか今日は親近感を覚えた。
別に、ざまぁみろとは思わん。
お前も寂しいだろうが、俺も寂しいんだ。
◇◇◇
深山さんには事前に連絡を入れていたので、今日は裁縫室には誰もいない。
鍵のかかったままの裁縫室を一瞥して、俺は職員室へと向かった。
授業がないので校舎内は静かだ。反面、職員室の人口密度が高い。
だが裁縫室を気にする必要がないせいか、今日は仕事の進みが速い。集中していたせいで、気づけばもう昼になっていた。
むろん、職員室の自分の席で弁当を食う。
授業がある時は、それが当たり前なのだが。なぜだか今日は一人で食うのが、寂しい気がする。
水筒からカップに注いだ茶も、自分で飲むだけだしな。
ちなみにあの鈴は、今は家の箪笥にしまってある。
「あら、高瀬先生。今日はお一人で召し上がっているんですか?」
つんと鼻につく臭いをさせながら、皆月先生が俺に声をかけてきた。油絵の具の溶剤であるテレピン油のにおいだろうか。よく知らないが。
「別に、普通ですよ」
「あらあらー。最近は昼休みになると、裁縫室から楽しそうな声が聞こえていたんですけどね」
なんだ。気づいていたのか。
皆月先生は俺と翠子さんの関係を知っているから、まぁ別にいい。こうやって、ちょくちょくからかってくるのが面白くはないが。
「皆月先生は、最近は絵を描いてるんですね」
「そう。上級生にモデルになってもらっているのよ。柴田さん。高瀬先生ならご存じでしょ」
「……名前は聞いたことがある」
蛸と胡瓜の酢の物を箸で挟んでいると、背後から皆月先生が「信じられない」と声を上げた。
「え、だって。先生の取り巻きの一人じゃないの」
「ああ、それで聞いたことがあるのか」
「いや、普通覚えるでしょ。相当な美人よ。学校一じゃないかしら」
「美人だからという理由で、人を覚えることはないので」
美術教師は、物事の判断基準が美しいかどうかなのだろうか。ちょっとよく分からん。
テレピン油と酢の匂いがまじりあって、俺の席の近くの教師が咳き込んだ。うーん、申し訳ない。だが、酢の方が食用なだけましだよな。
「皆月先生。わたくし、失礼いたしますわ」
「はい、ご苦労さま。美術室の鍵は、開けたままでいいわよ」
職員室の入り口から顔をのぞかせたのが、柴田だ。さっき名前を聞いたから分かる。
巻き髪に、華やいだ大きいリボンをつけている。
「あら、高瀬先生」
柴田は急に甘ったるい声で、俺を呼んだ。
「こんな所でお会いできるなんて」
「教師が職員室にいるのは、当たり前だと思うが」
「でも、夏休みに入ってから、お昼に何度か職員室に来ましたけど。先生はいらっしゃらなかったわ」
そうだろうな。男の俺が裁縫室に入り浸っているとは、思わないだろうな。
「ね、先生。わたくし、皆月先生にモデルを頼まれたんですのよ。高瀬先生も、見にいらして」
「なぜ?」
俺は真顔で答えた。皆月先生の製作現場を覗きに行く必要性が、まったく分からない。そもそも俺に手元を見られたら、皆月先生も描きにくいのではないか?
俺の隣で、なぜか皆月先生が苦笑しつつ肩をすくめた。
「あー、たぶん高瀬先生の考えと違いますよ。私の描いているところを見学するんじゃなくて、モデルになっている自分を見てほしいと柴田は考えているんですよ」
「なぜ?」
真顔からさらに、眉間にしわを寄せた。「なぜ?」って言われても、と皆月先生が珍しく困っている。
魔女でも困惑することがあるんだな。
いや、知っているぞ。この後、三人で猫を甲斐甲斐しく世話するんだ。きっとにこにこと全員が相好を崩して、猫なで声を出しつつ、エリスを取り囲むんだろう。
翠子さんの猫なで声は聞いてみたいが。さすがに銀司のは……勘弁だな。
ああ、でもいいよな。俺も家にいたい。学校に行きたくない。
普段は翠子さんと日傘を分け合って歩いているせいか、久しぶりに朝の陽ざしが強烈であることに気づいた。
面倒だが、道の端に移動して影を選んで歩く。
大学生はまだ夏休みではないのだろう。女学校が休みでも、翠子さんは登校していたものだから。大学生が一人、彼女を待ち伏せしているのだが。
残念だったな。日傘の君は今日はおりません。
俺一人だけが歩いているのを確認すると、その学生はすぐに自分の大学の方へと歩き出した。
いつもはうっとうしい大学生だが、なぜだか今日は親近感を覚えた。
別に、ざまぁみろとは思わん。
お前も寂しいだろうが、俺も寂しいんだ。
◇◇◇
深山さんには事前に連絡を入れていたので、今日は裁縫室には誰もいない。
鍵のかかったままの裁縫室を一瞥して、俺は職員室へと向かった。
授業がないので校舎内は静かだ。反面、職員室の人口密度が高い。
だが裁縫室を気にする必要がないせいか、今日は仕事の進みが速い。集中していたせいで、気づけばもう昼になっていた。
むろん、職員室の自分の席で弁当を食う。
授業がある時は、それが当たり前なのだが。なぜだか今日は一人で食うのが、寂しい気がする。
水筒からカップに注いだ茶も、自分で飲むだけだしな。
ちなみにあの鈴は、今は家の箪笥にしまってある。
「あら、高瀬先生。今日はお一人で召し上がっているんですか?」
つんと鼻につく臭いをさせながら、皆月先生が俺に声をかけてきた。油絵の具の溶剤であるテレピン油のにおいだろうか。よく知らないが。
「別に、普通ですよ」
「あらあらー。最近は昼休みになると、裁縫室から楽しそうな声が聞こえていたんですけどね」
なんだ。気づいていたのか。
皆月先生は俺と翠子さんの関係を知っているから、まぁ別にいい。こうやって、ちょくちょくからかってくるのが面白くはないが。
「皆月先生は、最近は絵を描いてるんですね」
「そう。上級生にモデルになってもらっているのよ。柴田さん。高瀬先生ならご存じでしょ」
「……名前は聞いたことがある」
蛸と胡瓜の酢の物を箸で挟んでいると、背後から皆月先生が「信じられない」と声を上げた。
「え、だって。先生の取り巻きの一人じゃないの」
「ああ、それで聞いたことがあるのか」
「いや、普通覚えるでしょ。相当な美人よ。学校一じゃないかしら」
「美人だからという理由で、人を覚えることはないので」
美術教師は、物事の判断基準が美しいかどうかなのだろうか。ちょっとよく分からん。
テレピン油と酢の匂いがまじりあって、俺の席の近くの教師が咳き込んだ。うーん、申し訳ない。だが、酢の方が食用なだけましだよな。
「皆月先生。わたくし、失礼いたしますわ」
「はい、ご苦労さま。美術室の鍵は、開けたままでいいわよ」
職員室の入り口から顔をのぞかせたのが、柴田だ。さっき名前を聞いたから分かる。
巻き髪に、華やいだ大きいリボンをつけている。
「あら、高瀬先生」
柴田は急に甘ったるい声で、俺を呼んだ。
「こんな所でお会いできるなんて」
「教師が職員室にいるのは、当たり前だと思うが」
「でも、夏休みに入ってから、お昼に何度か職員室に来ましたけど。先生はいらっしゃらなかったわ」
そうだろうな。男の俺が裁縫室に入り浸っているとは、思わないだろうな。
「ね、先生。わたくし、皆月先生にモデルを頼まれたんですのよ。高瀬先生も、見にいらして」
「なぜ?」
俺は真顔で答えた。皆月先生の製作現場を覗きに行く必要性が、まったく分からない。そもそも俺に手元を見られたら、皆月先生も描きにくいのではないか?
俺の隣で、なぜか皆月先生が苦笑しつつ肩をすくめた。
「あー、たぶん高瀬先生の考えと違いますよ。私の描いているところを見学するんじゃなくて、モデルになっている自分を見てほしいと柴田は考えているんですよ」
「なぜ?」
真顔からさらに、眉間にしわを寄せた。「なぜ?」って言われても、と皆月先生が珍しく困っている。
魔女でも困惑することがあるんだな。
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