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十一章
5、相合傘で【1】
「急に雨が降ってきたから、お迎えに来たんです。でも、狐の嫁入りですから、しばらく雨が降っているのに気づかなくて」
ブラウスにスカート姿の翠子さんは笑顔で俺に、蝙蝠傘を差し出してくる。
「え? え? なんで?」
「ですから、分からなかったんですよね。お庭のヤツデの葉に雨が当たる音で、ようやく雨が降っているのに気づいて。お清さんが慌てて洗濯物を取り入れていたので、お手伝いしていたら遅くなってしまったんです」
「いや、責めているわけではなく」
頭が混乱した。だって、あれだぞ。翠子さんのことを考えて、翠子さんに今の光景を見せたくて。そんなことばかりを考えていたら、あなたが目の前にいて。
俺はあなたのことを考える時間は確かに多いが。だからといって四六時中考えているわけではない。
ちゃんと仕事だってしている。
なのに……。
「まぁ、なんてきれいな夕焼けなんでしょう。ね、旦那さま。ご覧になって」
翠子さんが西の空を指さした。
夕映えのせいで、彼女の爪が桜色に見える。
さっきよりも少し色あせはしたが、それでも夕色は美しく。しかも月はさらに輝きを増している。
天気雨が空中の埃を落としたせいかもしれない。
「こんな素敵な光景を、旦那さまと一緒に見られるなんて。嬉しいです」
「あ、ああ」
翠子さんは蝙蝠傘を俺に差し出した。俺はそれを手にしたが、翠子さんが差している傘も奪ってしまう。
せっかくのきれいな天気雨なんだ。それぞれの傘の中で離れて歩くのではなく、寄り添って歩きたいじゃないか。
俺が腕に掛けた蝙蝠傘をちらっと見た翠子さんだが、何も言いはしなかった。
ぴったりと俺にくっついて「腕を組んでもよろしくて?」と尋ねてくる。
無論だ。断る理由などない。
「お仕事はどうでした?」
「ああ、はかどったよ」
「それはよかったです」
湿った風が、翠子さんの淡い藤色のスカートの裾を、ひらりと撫でた。
見たところ、彼女の手や腕にひっかき傷はない。
預かっているエリスとは、うまくいっているのだろう。
それはそれで、少し寂しいが。
「翠子さんは、今日は楽しかっただろ? 猫と一緒で」
「ええ。でも……やっぱり寂しいですよ」
立ち止まった翠子さんが、傘の外に出てしまう。俺は慌てて彼女に傘を差しかけた。
「旦那さまがいらしたら、きっともっと楽しいでしょうにと、思ってしまったんです。我儘ですね、わたくしは」
「俺だって……」
「え、なんですか?」
「いや、なんでもない」
俺は言いかけた言葉を飲み込んだ。いい年をした大人が口にするには恥ずかしい。
だが、翠子さんは曖昧に言葉を濁す俺を許してはくれなかった。
「わたくし、旦那さまの問いに正直に答えなくて、お仕置きされたばかりです」
うっ。痛いところを突いてくる。
「いや、まぁ。それはそれ……ということで」
「旦那さま?」
翠子さんの黒目がちの瞳が、俺をじーっと見据えてくる。あ、これは正直に話さないと、後が大変になるヤツだ。
だが、自分は仕事をしている時に、あなたの愛情を猫が思う存分に受けていると思うと……寂しくないはずがないだろ。
言えないけど。
「じゃあ、選ばせてさしあげますね。これからしばらく、コーヒーにはお砂糖をたっぷり入れるお仕置きと、翠子と離れて別の部屋で寝るお仕置きですよ。どちらがよろしいですか?」
「え、どっちも嫌だ」
俺は即答した。
可愛い顔をして、よくもそんな酷いことを考えられるものだ。そういうのは、お仕置きではなくて拷問というんだぞ。
あなたは俺のとても弱いところを、的確についてくるんだな。
「二択ではなく、三択でお願いします。お嬢さま」
「……そうですね。譲歩してさしあげましょう」
「では、毎晩あなたにご奉仕させていただくという、お仕置きで。大丈夫、途中でお嬢さまが眠っておしまいにならぬよう、十分に配慮いたしますゆえ」
俺の言葉を意味するのに、翠子さんはしばらくかかったようだ。
ぽかんとした表情を浮かべていたが、しだいに首と顔が赤く染まっていく。
「そ、そういうことを言っているのではありませんっ!」
「はて? 何のことでしょう。お嬢さまが教えてくださらないと、一介の数学教師風情である私には、なんのことやら」
「もうっ。普通にしゃべってください。あと、それは却下です。旦那さまへのお仕置きになりません」
ぽかぽかと愛らしい拳で、翠子さんが俺の二の腕を叩いてくる。
うん、全然痛くないけどな。
でも、痛くないと教えてしまったら叩くのをやめるから。教えない。
ブラウスにスカート姿の翠子さんは笑顔で俺に、蝙蝠傘を差し出してくる。
「え? え? なんで?」
「ですから、分からなかったんですよね。お庭のヤツデの葉に雨が当たる音で、ようやく雨が降っているのに気づいて。お清さんが慌てて洗濯物を取り入れていたので、お手伝いしていたら遅くなってしまったんです」
「いや、責めているわけではなく」
頭が混乱した。だって、あれだぞ。翠子さんのことを考えて、翠子さんに今の光景を見せたくて。そんなことばかりを考えていたら、あなたが目の前にいて。
俺はあなたのことを考える時間は確かに多いが。だからといって四六時中考えているわけではない。
ちゃんと仕事だってしている。
なのに……。
「まぁ、なんてきれいな夕焼けなんでしょう。ね、旦那さま。ご覧になって」
翠子さんが西の空を指さした。
夕映えのせいで、彼女の爪が桜色に見える。
さっきよりも少し色あせはしたが、それでも夕色は美しく。しかも月はさらに輝きを増している。
天気雨が空中の埃を落としたせいかもしれない。
「こんな素敵な光景を、旦那さまと一緒に見られるなんて。嬉しいです」
「あ、ああ」
翠子さんは蝙蝠傘を俺に差し出した。俺はそれを手にしたが、翠子さんが差している傘も奪ってしまう。
せっかくのきれいな天気雨なんだ。それぞれの傘の中で離れて歩くのではなく、寄り添って歩きたいじゃないか。
俺が腕に掛けた蝙蝠傘をちらっと見た翠子さんだが、何も言いはしなかった。
ぴったりと俺にくっついて「腕を組んでもよろしくて?」と尋ねてくる。
無論だ。断る理由などない。
「お仕事はどうでした?」
「ああ、はかどったよ」
「それはよかったです」
湿った風が、翠子さんの淡い藤色のスカートの裾を、ひらりと撫でた。
見たところ、彼女の手や腕にひっかき傷はない。
預かっているエリスとは、うまくいっているのだろう。
それはそれで、少し寂しいが。
「翠子さんは、今日は楽しかっただろ? 猫と一緒で」
「ええ。でも……やっぱり寂しいですよ」
立ち止まった翠子さんが、傘の外に出てしまう。俺は慌てて彼女に傘を差しかけた。
「旦那さまがいらしたら、きっともっと楽しいでしょうにと、思ってしまったんです。我儘ですね、わたくしは」
「俺だって……」
「え、なんですか?」
「いや、なんでもない」
俺は言いかけた言葉を飲み込んだ。いい年をした大人が口にするには恥ずかしい。
だが、翠子さんは曖昧に言葉を濁す俺を許してはくれなかった。
「わたくし、旦那さまの問いに正直に答えなくて、お仕置きされたばかりです」
うっ。痛いところを突いてくる。
「いや、まぁ。それはそれ……ということで」
「旦那さま?」
翠子さんの黒目がちの瞳が、俺をじーっと見据えてくる。あ、これは正直に話さないと、後が大変になるヤツだ。
だが、自分は仕事をしている時に、あなたの愛情を猫が思う存分に受けていると思うと……寂しくないはずがないだろ。
言えないけど。
「じゃあ、選ばせてさしあげますね。これからしばらく、コーヒーにはお砂糖をたっぷり入れるお仕置きと、翠子と離れて別の部屋で寝るお仕置きですよ。どちらがよろしいですか?」
「え、どっちも嫌だ」
俺は即答した。
可愛い顔をして、よくもそんな酷いことを考えられるものだ。そういうのは、お仕置きではなくて拷問というんだぞ。
あなたは俺のとても弱いところを、的確についてくるんだな。
「二択ではなく、三択でお願いします。お嬢さま」
「……そうですね。譲歩してさしあげましょう」
「では、毎晩あなたにご奉仕させていただくという、お仕置きで。大丈夫、途中でお嬢さまが眠っておしまいにならぬよう、十分に配慮いたしますゆえ」
俺の言葉を意味するのに、翠子さんはしばらくかかったようだ。
ぽかんとした表情を浮かべていたが、しだいに首と顔が赤く染まっていく。
「そ、そういうことを言っているのではありませんっ!」
「はて? 何のことでしょう。お嬢さまが教えてくださらないと、一介の数学教師風情である私には、なんのことやら」
「もうっ。普通にしゃべってください。あと、それは却下です。旦那さまへのお仕置きになりません」
ぽかぽかと愛らしい拳で、翠子さんが俺の二の腕を叩いてくる。
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でも、痛くないと教えてしまったら叩くのをやめるから。教えない。
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