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十一章
7、相合傘で【3】
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「ああ、翠子さんは先に寝ていていいよ。俺と銀司で、猫とも遊ぶし」
俺は悪い大人なので、翠子さんを翻弄することにした。伊達にあなたより十五年も余分に生きてはいないのだ。
「わ、わたくしだってエリスと遊びます」
「でもなー、俺と翠子さんの手が触れてしまうかもしれないだろ。偶然に。そうしたら、お仕置きにならないもんな」
「う……うぅ」
翠子さんは唇をへの字に曲げて、拳を握りしめている。
おお、葛藤している。
悔しいんだね。楽しそうな俺たちを横目に、自分がお仕置きすると宣言したせいで、一人つまらなく無聊をかこつのに耐えられないんだね。
だが、滅多にない俺へのお仕置きの機会だ。
翠子さんは己の欲求と戦い、なんとか抑え込んだようだ。意外と意志が強いな、この子。
まぁいい。もうひと押しだ。
「あれ? 翠子さん。顔に何かついているぞ」
「え?」
「もしかしたら虫かもしれない」
俺はいけしゃあしゃあと嘘をついた。いや、まったくの嘘ではない。雨に濡れたせいで、翠子さんの髪が、頬から顎にかけての辺りに少し張りついていただけだ。
「まぁ、虫でなければいいな。黒いけど……」
「待って。取ってください」
「いや、きっと虫じゃないよ。それに俺は翠子さんに触れてはいけないんだ。自分でとりなさい。できるだろ?」
冷たく突き放すと、翠子さんはとたんに涙目になった。
ああ、もう。俺を虐めようとするから、虐められるんだ。
早く「ごめんなさい」と言って、お仕置きを前言撤回しなさい。
あごの辺りに張りついた髪の違和感は分かるのに、焦っているせいか、虫との区別はつかないようだ。
俺のシャツを握りしめて、じーっと見上げてくる。しかも足をもぞもぞさせて、今にも架空の虫から逃げたそうに。
俺に頼みにくいのは当然だ。葛藤している彼女を見ると、妙にぞくぞくした。きっと銀司に言わせれば「だから旦那さまはサディストなんです」と一刀両断だろうな。
まぁ、なんと言われようが気にしないが。
「お……お願い、します。虫を取ってください」
「あなたに触れずに? それは難しいな」
「触ってもいいですから」
「では、さっきのお仕置きは撤回する?」
翠子さんは一度きつく瞼を閉じた。
「し、します。旦那さまがわたくしに触れるのを、許可します」
はい、陥落。
時間にして五分もかからなかったな。ちょろすぎるぞ、翠子さん。
だがまぁ、あなたにしては頑張った方かな?
俺は翠子さんの頬に指を触れた。ほんのわずかな間でも、こうして触れるのを禁じられていたと思うと、なにやら有り難い気分になってしまう。
湿った髪をはらい、彼女の耳にかけて戻してやる。
「よかったな。虫ではなく髪だったぞ」
翠子さんはぽかんとした表情を浮かべ、次いで眉を吊りあげた。
あ、これは怒るなと直感した。
「わたくしを騙したのですね」
「いーや。虫かもしれないと言ったんだ。断言はしていない」
「でも……」
「よかった、翠子さんに触れる許可が下りて。ありがとう」
にっこりと俺は笑みを浮かべた。
最近は微笑みだの、にこにこするのにも慣れてきた。
案の定、翠子さんは文句を引っ込めた。
俺は知っている。自分が翠子さんにたいそう愛されていることを。そして、あなたが俺にとても甘いことを。
「じゃあ、お許しをいただいたことだし。手をつないで帰ろうか」
見上げれば、すでに天気雨は止んでいた。俺は傘を閉じて、翠子さんに右手を差し出す。翠子さんは、これ以上の抵抗は無意味と悟ったのだろう。素直に手をつないでくれた。
いつもよりも彼女のてのひらがしっとりとしているのは、雨のせいなのか、緊張のせいなのか分からないが。
「虫でなくてよかったよ。翠子さんは虫に好かれやすいからな」
「旦那さまも、わたくしのことを好いておいでです。ですから旦那さまも虫です」
どんな証明だよ。
「そうだな。俺が虫なら、ずっと翠子さんにくっついているな」
本当に俺は悪い虫だから、気をつけなさい。
俺は悪い大人なので、翠子さんを翻弄することにした。伊達にあなたより十五年も余分に生きてはいないのだ。
「わ、わたくしだってエリスと遊びます」
「でもなー、俺と翠子さんの手が触れてしまうかもしれないだろ。偶然に。そうしたら、お仕置きにならないもんな」
「う……うぅ」
翠子さんは唇をへの字に曲げて、拳を握りしめている。
おお、葛藤している。
悔しいんだね。楽しそうな俺たちを横目に、自分がお仕置きすると宣言したせいで、一人つまらなく無聊をかこつのに耐えられないんだね。
だが、滅多にない俺へのお仕置きの機会だ。
翠子さんは己の欲求と戦い、なんとか抑え込んだようだ。意外と意志が強いな、この子。
まぁいい。もうひと押しだ。
「あれ? 翠子さん。顔に何かついているぞ」
「え?」
「もしかしたら虫かもしれない」
俺はいけしゃあしゃあと嘘をついた。いや、まったくの嘘ではない。雨に濡れたせいで、翠子さんの髪が、頬から顎にかけての辺りに少し張りついていただけだ。
「まぁ、虫でなければいいな。黒いけど……」
「待って。取ってください」
「いや、きっと虫じゃないよ。それに俺は翠子さんに触れてはいけないんだ。自分でとりなさい。できるだろ?」
冷たく突き放すと、翠子さんはとたんに涙目になった。
ああ、もう。俺を虐めようとするから、虐められるんだ。
早く「ごめんなさい」と言って、お仕置きを前言撤回しなさい。
あごの辺りに張りついた髪の違和感は分かるのに、焦っているせいか、虫との区別はつかないようだ。
俺のシャツを握りしめて、じーっと見上げてくる。しかも足をもぞもぞさせて、今にも架空の虫から逃げたそうに。
俺に頼みにくいのは当然だ。葛藤している彼女を見ると、妙にぞくぞくした。きっと銀司に言わせれば「だから旦那さまはサディストなんです」と一刀両断だろうな。
まぁ、なんと言われようが気にしないが。
「お……お願い、します。虫を取ってください」
「あなたに触れずに? それは難しいな」
「触ってもいいですから」
「では、さっきのお仕置きは撤回する?」
翠子さんは一度きつく瞼を閉じた。
「し、します。旦那さまがわたくしに触れるのを、許可します」
はい、陥落。
時間にして五分もかからなかったな。ちょろすぎるぞ、翠子さん。
だがまぁ、あなたにしては頑張った方かな?
俺は翠子さんの頬に指を触れた。ほんのわずかな間でも、こうして触れるのを禁じられていたと思うと、なにやら有り難い気分になってしまう。
湿った髪をはらい、彼女の耳にかけて戻してやる。
「よかったな。虫ではなく髪だったぞ」
翠子さんはぽかんとした表情を浮かべ、次いで眉を吊りあげた。
あ、これは怒るなと直感した。
「わたくしを騙したのですね」
「いーや。虫かもしれないと言ったんだ。断言はしていない」
「でも……」
「よかった、翠子さんに触れる許可が下りて。ありがとう」
にっこりと俺は笑みを浮かべた。
最近は微笑みだの、にこにこするのにも慣れてきた。
案の定、翠子さんは文句を引っ込めた。
俺は知っている。自分が翠子さんにたいそう愛されていることを。そして、あなたが俺にとても甘いことを。
「じゃあ、お許しをいただいたことだし。手をつないで帰ろうか」
見上げれば、すでに天気雨は止んでいた。俺は傘を閉じて、翠子さんに右手を差し出す。翠子さんは、これ以上の抵抗は無意味と悟ったのだろう。素直に手をつないでくれた。
いつもよりも彼女のてのひらがしっとりとしているのは、雨のせいなのか、緊張のせいなのか分からないが。
「虫でなくてよかったよ。翠子さんは虫に好かれやすいからな」
「旦那さまも、わたくしのことを好いておいでです。ですから旦那さまも虫です」
どんな証明だよ。
「そうだな。俺が虫なら、ずっと翠子さんにくっついているな」
本当に俺は悪い虫だから、気をつけなさい。
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