【第一部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

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十一章

14、来るなと言っている

 さて、今日も俺は一人で出勤だ。
 つまらんな。せめて授業があれば、学校で翠子さんに会えるのに。

「翠子さん。裁縫の宿題は進めるんじゃないぞ」
「はい。エリスが針で遊んだら危ないですものね。とくに針山に刺した待ち針なんて、口で咥えそうですもの」

 いや、そうじゃなくて。
 家で裁縫の宿題を終わらせてしまったら、あなたが学校に来なくなるじゃないか。仕事の合間の、心休まるひと時が無くなるのは、たいそうつらい。
 とは、言えなかった。俺は大人だからな。

 あなたが、俺のことを猫思いの優しい人間だと勘違いしているのなら、そのままにしておこう。
 そう、愛しい人の夢や理想は守ってやらなくてはな。

 今朝の翠子さんは、エリスを抱っこしながら玄関先で見送ってくれた。

「時間、大丈夫なんですか? いつもよりも遅いですよ」
「ああ、問題ない」

 俺は革靴を履いて、靴べらを翠子さんに手渡した。代わりに、翠子さんが俺の革の鞄を渡してくれる。
 エリスは翠子さんの肩にしがみついていた。

「いってらっしゃい、旦那さま。ほら、エリスもご挨拶よ」

 翠子さんのしなやかな指が、エリスの細い前脚を持ち上げる。肉球の間から少し見える金色の毛が、なんとも愛らしい。

 後ろ髪を引かれる寂しい思いと、暖かくて柔らかい象徴のような二人を見ていると多幸感に包まれる。

 よし、今日も早く帰ってこよう。
 早く帰らなかった日など、ないけどな。

 翠子さんと一緒に登校する時は二十分かかる距離だが。一人だと学校まで十五分もあれば余裕で到着する。
 職員室に入ろうとすると、入り口で上級生の柴田が立っていた。
 皆月先生のモデルをしていると言っていたから、先生を待っているのかもしれない。

「お早うございます。高瀬先生。ね、美術室でお待ちしていますわ」
「なんで?」

 挨拶よりも先に疑問で答えた。
 今日も濃い桃色のリボンを後頭部につけて、華やいだ巻き髪を肩や背中に垂らしている。
 ボリュウムの有る髪をだらりと下ろして、暑くないのか? あと、こてで髪を巻くにしても相当時間がかかるだろうに。

「君、暇なのか?」
「何を仰るの? ここで、高瀬先生を待っていてさしあげたのよ」
「頼んでいないが」

 俺の言葉に、柴田は眉根を寄せた。おいおい、鬼の形相はやめろよ。

「あと、君とは何の約束もしていない。俺はこれから仕事だ。邪魔をしないでもらおう」
「で、でも。皆月先生は、絵を描いているじゃない」

 鬱陶しいな。俺は、仕事を始める前からうんざりした。

「皆月先生の本業は画家だ。美術講師の仕事は、頼まれて引き受けているだけ。俺のような数学教師とは立場も自由度も違う」
「でしたら、休憩時間に見にいらしてよ」

「なんで?」と、真顔になってしまった。
 どうしてせっかくの休憩時間に、義理も何もない生徒を立てなければいけないんだ。
 そもそも皆月先生だって、好きな時に休憩したいだろうに。モデルがその指示を出すとか、どうなってるんだ。

「君。そもそも俺のことを馬鹿にしているだろ? 確か、俺を誘ってあんた達と結婚できるかもって夢を見せると、まずいんじゃなかったのか? あと、俺にしつこくされても困ると言っていたよな」
「そ、それは……」

 宵祭りで、友人たちと言いたい放題俺の悪口で盛り上がっていたことを、柴田は思い出したようだ。

「安心しろ。いくら誘われようが、俺はあんたにしつこくしない。興味がないからな」

 職員室に入ろうと戸を開いたとき、文字通り絹を裂く音が聞こえた。

「きゃあああっ! 何をなさるの?」

 驚いて振り返ると、なぜか柴田が自分の着物の袖を引き千切り、悲鳴を上げている。
 お前、何してるんだ?
 俺は呆けた顔をしてしまった。だが、次の言葉に彼女の真意を知った。

「やめてください。襲わないで」
「……お前、馬鹿なのか?」

 柴田はまだ悲鳴を上げ続けている。職員室からは先生方が飛び出してきた。その様子を横目で見た柴田は、他の教師に飛びついた。

「高瀬先生が、急に私を。ひどいわ」
「あー、ひどいのはそっちじゃないのか?」

 女性教師にしがみついたまま、柴田はぐすぐすと泣いている。嘘泣きが上手だな。先生方はどうしたものかと、俺と柴田を見比べている。
 うん、こいつを襲う趣味はこれっぽっちもないが。普通、職員室の前で襲う馬鹿もいないだろ。

「柴田さん。何かの間違いじゃないの? 高瀬先生は教師よ。生徒を襲うなんてありえないわ」

 ありがとう。国語科の先生。まぁ、翠子さんは未来の妻であり、生徒の枠からははみ出ているからな。そういう意味では俺は生徒も、女性も襲わない。
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