【第一部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

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十一章

25、すみれとばらの砂糖漬け

 俺は、自分の膝で眠る翠子さんとエリスを眺めていると、穏やかな心地になった。
 どちらもただ眠っているだけなのに、見飽きるということがないんだ。だから起こすことができなかった。

 愛らしさを人と猫の形にしましたよ、さぁ存分に堪能なさい。と、神が俺に与えてくれたかのような存在だ。

 といっても、そこは寝相が悪く転がっていってしまう翠子さんのこと。寝床が布団ではないからといって、お行儀がよくなるわけではない。

 うちに来た当初はおとなしく眠っていたのは、緊張していたせいなのか。あるいは暑くなかったからなのか。どちらかは分からないが。
 夏の間は蚊帳に阻まれて止まっているし、冬場はきっと布団が重くて、そう身軽に寝ながら動きはしないだろう。

 問題は春と秋だな。
 そう考えていると、俺の腕の中の翠子さんがもぞっと動いた。

 きたっ。俺は身構えた。

 彼女の体がずり落ちないように抱きしめたのに、なぜか翠子さんは俺の腕をするりと抜けた。
 エリスも心得たもので、寝ながら翠子さんにしっかりとしがみついている。

 畳の上でころころと転がる翠子さんと、一蓮托生のエリスを見ていると「ああ、器からすみれとばらの砂糖漬けがこぼれてしまった」と、思わざるを得なかった。

「君たち、どこまで行くつもり?」

 熟睡している翠子さんに、俺の問いかけが聞こえているはずもなかろうに。翠子さんは方向転換して、こちらへと戻ってきた。

 うん、今日はまだ蚊帳を吊っていないからな。
 そのまま縁側まで進んだら、庭に落ちてしまうぞ。

 翠子さんはエリスを抱きしめたままで、ちょうど俺の膝に収まった。本当に眠っているんだろうかと、少し疑ってみる。
 
 だが、せっかく戻ってきてくれたのだ。あなたが目を覚ますまでは、もう離すつもりはない。
 俺は膝に翠子さんの頭を載せた状態で、座卓を引き寄せた。
 机の脚の間に翠子さんの体がちょうど収まるから、これで身動きできないだろう。
 
「あのー、旦那さま。何をなさっているんですか?」

 前栽の木に水をやりに来た銀司が、声をかけてくる。確かに奇妙な光景だろう。
 翠子さんとエリスを膝枕しているのはいいが、庭から見ればその翠子さんは座卓を掛け布団代わりにしているように見えるだろうから。

「こうしないと逃げるんだよ、この人は」
「……檻ですか。たいそう間抜けてますけど」
「お前、一言多いよ」

 銀司は桶に井戸の水を汲みながら「そういえば」と言葉を続けた。木の根元に水を撒いたから、湿った土の匂いが鼻をかすめた。
 苔のような、日陰の匂いだ。

「別荘の寝室ってベッドですよね」
「ああ、そうだ。テラスもある洋風の建物だからな」
「翠子さま。ベッドから落ちませんかね」

 銀司の問いかけに、蝉の声が重なった。静かで風情のあるひぐらしではない。やかましいクマゼミだ。

「笠井家では翠子さんも、ベッドで眠っていたと思うぞ。あの家も洋風建築だった」
「ならいいんですけど。ぼく、この家で暮らし始めてから、翠子さんの気持ちがちょっと分かるようになったんです」

 なに? 俺にも分からない翠子さんのことが、なぜ銀司に分かるんだ。
 身を乗り出そうとしたが、翠子さんが「う……ん」と、目を覚ましそうになったので体勢を元に戻す。

 眠りなさい。さぁ、もっと眠りなさい。存分に眠って、愛らしい寝顔を俺に見せるんだ。

「翠子さんは、眠っている時も起きている時も天使だ。だが、今はもっと眠りなさい。さぁ、おやすみ」
「……はい」

 寝言でもこんなに素直な翠子さんを、たいそう愛しく思う。俺は彼女の頭を、そっと撫でた。

「なんか、ぼく、前にも似たような光景を見た気がします」
「それはいいが。なぜ銀司に翠子さんの気持ちがわかるんだ?」

 彼女が起きないように、俺は小さく囁いた。銀司はよく聞こえるように、水遣りを中断して、縁側に来て腰を下ろした。
 銀司のこういうところが優秀だと俺は思う。

 仕事の手を止めるということは、それだけ終わりが遅くなるということだ。
 だが、主人の疑問にはきちんと答えようとする。水遣りと質問に答えることの、どちらが俺にとって大事なのかを、ちゃんと判断できるのだから。

「下宿で暮らしていた頃は、壁が薄いのもあって隣の部屋の物音や声が気になって熟睡できなかったんですよね」

 なるほど。確かに俺も学生時代は下宿していたから、隣の部屋の琥太兄の物音は気になったな。

「でも、この家なら静かだし、夜は旦那さまと翠子さましかいらっしゃらないから。安心してよく眠れるんです。あと、布団から転がり出ても、すぐ壁や荷物にぶつからないくらいに部屋が広いんですよ」
「つまり、銀司もこの家に来て寝相は悪くなったと?」

「たぶんですけど。目を覚ましたら、たまに布団と体が直角になってることがあります」
「じゃあ、翠子さんは安心しきっているということだな」
「おそらくは」

 銀司は立ち上がると、桶を手にして振り返った。

「別荘がベッドなら、翠子さまは一度床に落っこちたら、翌日からは警戒して寝相が良くなるんじゃないですかね」
「お前、なんてひどいことを言うんだ」

 そんなの二つのベッドをくっつけて、広くするに決まっているじゃないか。
 別荘での計画だの画策だのを考えていると、足の痺れが切れていることにも気づかなかった。
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