【第一部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

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十一章

30、帰るのですね【2】

 旦那さまと琥太郎さんは、二人で話し込んでいらっしゃいます。わたくしはエリスを抱きしめて、部屋の隅に行きました。
 何の話かは分かりませんけど。きっと大人の大事な話なのでしょうね。

 すぐにエリスを連れて帰らないのなら、もう少し一緒にいてもいいですよね。
 愛らしくて小さい顎を撫でると、エリスはうーんと首を伸ばします。
 二人だけの時間は誰にも邪魔されたくありません。

 なのに……なのに。
 どうして斉川さんが、わたくしたちの前にいるんですか?
 圧迫感すごいですよ。

 旦那さまの顔も怖いイメージがありますけど。斉川さんは強面です。
 エリス、あなたこんな人たちの中で暮らしていたんですね。それはもう厳しい毎日だったでしょう。
 わたくしとエリスはひっしと抱き合って寄り添います。

「あ、あの。なんでしょうか」

 怖々と尋ねると、斉川さんは「すんません」と低い声で仰いました。

「翠子お嬢さんが、うちの猫を可愛がってくれたようで。随分となついていますね」

 可愛がるって……ヤクザの可愛がるですか? わたくし、別にエリスにひどいことなんて、してませんよ。
 顔を引きつらせていると、斉川さんはさらにぐいっと近づいてきました。

 こ、怖いです。壁が迫ってくるようです。いえ、壁ならまだ無機質なのでいいんですけど。

「まぁ別に拾う必要もない猫だったんですけど。いろいろあって、若がどうしてもと仰るんで」
「は、はい」

 そうでしょうね。エリスはか弱い子猫ではなく、もぐらだって鳥だって簡単に仕留めるハンターですよ。琥太郎さんは危ないからとエリスを外に出さないようですけど、もともと外の子ですよね。

「お嬢さん、ひっかき傷ありませんね」
「エリスはとくに爪を立てませんよ。おとなしいいい子です」
「……納得いかない」

 斉川さんは腕を組んで、うつむいてしまわれました。どうやら、三條邸でエリスを捕まえようとしていた時の大騒ぎを思い出しているようです。
 確かにあの時は、ひどかったですけど。でも、琥太郎さんはそれが日常であるように仰っていました。

「基本的にその猫がうちにいるのは、組員にとっても猫にとっても互いに苦痛かもしれませんね」
「あの、それはどういう?」
「いや、聞かなかったことにしてください。単なる独り言です」

 斉川さんはそう言うと、縁側に座ってらっしゃる旦那さまと琥太郎さんに視線を向けました。

◇◇◇

「ほな。翠子さん、お清さん、ありがとうな」

 エリスの入ったかごを持った琥太郎兄さんは、二人に手を振って門を出て行った。俺だってエリスの世話をしたんだけどな。蚊帳に絡まっているのを助けた程度ではあるが。

 部屋に戻ると、切った新聞紙の猫用の厠と水飲み用の器、それに畳の上に放置された猫じゃらしや麻ひもが残っていた。

「帰っちゃいましたね」
「三日間の約束だったからな」

 翠子さんは猫じゃらしを拾うと、空き瓶に水を入れてそれを挿した。

「……帰っちゃったんですね」

 風に揺れる猫じゃらしをぼんやりと眺める翠子さんは、慌ただしくも楽しかった日々を思い出しているのだろう。

 俺は彼女の後ろに座り、そのさらりとした髪を手に取って、三つ編みにした。
 たぶん、俺も寂しいんだ。

 言葉もなく、黙々と艶のある黒髪を編んでいく。
 いつもの左右に垂らしたおさげではなく、耳の辺りの生え際を編み込んだ複雑な形にする。
 とはいえ、さすがに紐がなくては形を保つことができない。
 そう思っていると、さっきまでエリスと遊んでいた細い麻ひもを、翠子さんが差し出した。

 リボンのように滑らかでもないし、麻ひもはエリスが爪を立てたせいでごわついている。
 でも、これで結んでほしいんだよな。

 俺は黙って受け取って、麻ひもで編み込みにして整えた髪を結んだ。
「ありがとうございます」と礼を言った翠子さんは、自ら俺の膝に座った。

 今日は翠子さん一人だけの重みだ。むろん、エリスなど軽いものだから、さほどの差もないだろうが。
 それでも、やはり足りないんだ。

 世話になったお礼にと差し出されたもぐらは、元気になって今も土を掘っているだろうか。
 庭の虫や鳥は、小さな猛獣がいなくなったとせいせいしているだろうか。
 
「このお部屋、こんなにも広かったんですね」
「……ああ」

 二人で暮らす前、この部屋を広いと思ったことはなかった。
 一緒に暮らし始めてからは、常に翠子さんがいてくれるから。寄り添うように生活をして、ちょうどよい広さだと思った。

 あんなに小さくて、そして優雅な傍若無人のエリスがいなくなっただけで、まるで部屋が茫漠として見える。

「三條組に行けば、また会えるよ。きっとエリスも喜んで出迎えてくれるさ」

 そう思っていた。その夜までは。
 俺はまだまだエリスの傍若無人さに、気づいていなかったのだ。
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