171 / 194
四章
48、夜のお風呂【2】
しおりを挟む
とんとんとん、と階段を下りてわたくしはお風呂へと向かいます。エリスは「意地でも動かないんだから」と、抱き上げようとしてもベッドの敷布にしがみついておりました。
しょうがありませんね。もう夜ですし、今日は諦めるとしましょう。
外に面した扉を開き、離れにあるお風呂へと向かいます。しんと冷えた夜気が、浴衣をまとったわたくしの肌を撫でました。
すでに夜露が降りているようで。別荘の窓から洩れる光と、冴えた月明りに照らされて、細い草の葉が煌めいているのです。
まるで小さな水晶の粒を載せたような葉を眺めていると、脱衣所の扉が開きました。
「どうした? 翠子さん。ぼうっとして」
焦った様子で出ていらしたのは旦那さまです。
「具合でも悪いのか? 気分は?」
「え? 大丈夫ですよ」
「だが、呆然と立ち尽くしていたから」
まぁ。そんな風に見えたのですか? わたくしは、儚い夜露の美しさに見とれていただけですよ。
「えーと、熱はないかな」
おでこに手を当てられました。
「脈は、正常か?」
今度は腕を取られました。
「いかん。夜風は体に障る。部屋に戻った方がいいのか、だが風呂には入った方がいいし」
「あのー、本当に平気ですよ」
そう言っているのに、旦那さまはなかなか信じてくださいません。
「いや、寝室から出てくるのも遅かったし……」
「エリスと戯れていたんです、甘えて離れなくて。お風呂に誘ったんですけど、断られてしまいました」
「うん……まぁ、それはいいんだが」
なぜか下瞼をめくられて、貧血はないかまで調べられます。
「大丈夫そうだな」
ですから、さっきからそう申しておりますよ?
「旦那さまも、お部屋にいてくださればよろしいのに」
「ん? いや。俺ばかりが翠子さんを独占しては、エリスに嫌われるからな」
なにやら歯切れの悪い口調です。
旦那さまは後頭部を掻きながら「翠子さんが三人ほどいれば、俺と深山さんとエリスとで分け合えるのだが」と妙なことを仰います。
どうしてここで文子さんの名前がでてくるのでしょう。説明を待って旦那さまを見上げていると、頭にぽんぽんと手を置かれました。
「あー、でも駄目だな。翠子さんが三人いれば、三人とも俺が独り占めするなぁ」
「あの、意味が分からないのですが」
「うん。そうだね」
「多分、翠子さんには分からない感情だよ」と旦那さまは寂しそうに呟きました。
時折、旦那さまは夜風にもさらわれそうな、幽けき声をお出しになります。
そんな時は、きゅっと腕にしがみつくんですよ。
すると、すぐに元気になるんです。
「なんだか、あなたに機嫌を取ってもらってるみたいだ」
「ふふっ。そうですよ」
「参ったなぁ」
苦笑なさった旦那さまからは、もう寂しげな表情は消えていました。
◇◇◇
高瀬家のお風呂ほどには広くはないですが、こじんまりとした別荘のお風呂も素敵です。
わたくしは手拭いで体を隠しながら、脱衣所から浴室へと入りました。
旦那さまはすでにお湯に浸かっていらっしゃいます。リリ、リリリと涼し気な音が少し開いた窓から聞こえます。
夏の盛りの時は、窓を大きく開いて入浴すると心地よかったのですが。
この時季は、寒いくらいですね。
しょうがありませんね。もう夜ですし、今日は諦めるとしましょう。
外に面した扉を開き、離れにあるお風呂へと向かいます。しんと冷えた夜気が、浴衣をまとったわたくしの肌を撫でました。
すでに夜露が降りているようで。別荘の窓から洩れる光と、冴えた月明りに照らされて、細い草の葉が煌めいているのです。
まるで小さな水晶の粒を載せたような葉を眺めていると、脱衣所の扉が開きました。
「どうした? 翠子さん。ぼうっとして」
焦った様子で出ていらしたのは旦那さまです。
「具合でも悪いのか? 気分は?」
「え? 大丈夫ですよ」
「だが、呆然と立ち尽くしていたから」
まぁ。そんな風に見えたのですか? わたくしは、儚い夜露の美しさに見とれていただけですよ。
「えーと、熱はないかな」
おでこに手を当てられました。
「脈は、正常か?」
今度は腕を取られました。
「いかん。夜風は体に障る。部屋に戻った方がいいのか、だが風呂には入った方がいいし」
「あのー、本当に平気ですよ」
そう言っているのに、旦那さまはなかなか信じてくださいません。
「いや、寝室から出てくるのも遅かったし……」
「エリスと戯れていたんです、甘えて離れなくて。お風呂に誘ったんですけど、断られてしまいました」
「うん……まぁ、それはいいんだが」
なぜか下瞼をめくられて、貧血はないかまで調べられます。
「大丈夫そうだな」
ですから、さっきからそう申しておりますよ?
「旦那さまも、お部屋にいてくださればよろしいのに」
「ん? いや。俺ばかりが翠子さんを独占しては、エリスに嫌われるからな」
なにやら歯切れの悪い口調です。
旦那さまは後頭部を掻きながら「翠子さんが三人ほどいれば、俺と深山さんとエリスとで分け合えるのだが」と妙なことを仰います。
どうしてここで文子さんの名前がでてくるのでしょう。説明を待って旦那さまを見上げていると、頭にぽんぽんと手を置かれました。
「あー、でも駄目だな。翠子さんが三人いれば、三人とも俺が独り占めするなぁ」
「あの、意味が分からないのですが」
「うん。そうだね」
「多分、翠子さんには分からない感情だよ」と旦那さまは寂しそうに呟きました。
時折、旦那さまは夜風にもさらわれそうな、幽けき声をお出しになります。
そんな時は、きゅっと腕にしがみつくんですよ。
すると、すぐに元気になるんです。
「なんだか、あなたに機嫌を取ってもらってるみたいだ」
「ふふっ。そうですよ」
「参ったなぁ」
苦笑なさった旦那さまからは、もう寂しげな表情は消えていました。
◇◇◇
高瀬家のお風呂ほどには広くはないですが、こじんまりとした別荘のお風呂も素敵です。
わたくしは手拭いで体を隠しながら、脱衣所から浴室へと入りました。
旦那さまはすでにお湯に浸かっていらっしゃいます。リリ、リリリと涼し気な音が少し開いた窓から聞こえます。
夏の盛りの時は、窓を大きく開いて入浴すると心地よかったのですが。
この時季は、寒いくらいですね。
10
あなたにおすすめの小説
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
密室に二人閉じ込められたら?
水瀬かずか
恋愛
気がつけば会社の倉庫に閉じ込められていました。明日会社に人 が来るまで凍える倉庫で一晩過ごすしかない。一緒にいるのは営業 のエースといわれている強面の先輩。怯える私に「こっちへ来い」 と先輩が声をかけてきて……?
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
世間知らずな山ごもり薬師は、××な騎士団長の性癖淫愛から逃げ出せない
二位関りをん
恋愛
平民薬師・クララは国境沿いの深い山奥で暮らしながら、魔法薬の研究に没頭している。招集が下れば山を下りて麓にある病院や娼館で診察補助をしたりしているが、世間知らずなのに変わりはない。
ある日、山の中で倒れている男性を発見。彼はなんと騎士団長・レイルドで女嫌いの噂を持つ人物だった。
当然女嫌いの噂なんて知らないクララは良心に従い彼を助け、治療を施す。
だが、レイルドには隠している秘密……性癖があった。
――君の××××、触らせてもらえないだろうか?
愛し愛され愛を知る。【完】
夏目萌
恋愛
訳あって住む場所も仕事も無い神宮寺 真彩に救いの手を差し伸べたのは、国内で知らない者はいない程の大企業を経営しているインテリヤクザで鬼龍組組長でもある鬼龍 理仁。
住み込み家政婦として高額な月収で雇われた真彩には四歳になる息子の悠真がいる。
悠真と二人で鬼龍組の屋敷に身を置く事になった真彩は毎日懸命に家事をこなし、理仁は勿論、組員たちとの距離を縮めていく。
特に危険もなく、落ち着いた日々を過ごしていた真彩の前に一人の男が現れた事で、真彩は勿論、理仁の生活も一変する。
そして、その男の存在があくまでも雇い主と家政婦という二人の関係を大きく変えていく――。
これは、常に危険と隣り合わせで悲しませる相手を作りたくないと人を愛する事を避けてきた男と、大切なモノを守る為に自らの幸せを後回しにしてきた女が『生涯を共にしたい』と思える相手に出逢い、恋に落ちる物語。
※ あくまでもフィクションですので、その事を踏まえてお読みいただければと思います。設定等合わない場合はごめんなさい。また、実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
黒の神官と夜のお世話役
苺野 あん
恋愛
辺境の神殿で雑用係として慎ましく暮らしていたアンジェリアは、王都からやって来る上級神官の夜のお世話役に任命されてしまう。それも黒の神官という異名を持ち、様々な悪い噂に包まれた恐ろしい相手だ。ところが実際に現れたのは、アンジェリアの想像とは違っていて……。※完結しました
ヤクザの若頭は、年の離れた婚約者が可愛くて仕方がない
絹乃
恋愛
ヤクザの若頭の花隈(はなくま)には、婚約者がいる。十七歳下の少女で組長の一人娘である月葉(つきは)だ。保護者代わりの花隈は月葉のことをとても可愛がっているが、もちろん恋ではない。強面ヤクザと年の離れたお嬢さまの、恋に発展する前の、もどかしくドキドキするお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる