【第ニ部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

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五章

16、また来ましょうね

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 いつもは意地を張って、お互いに軽口を叩いたり意地悪を言っている旦那さまと琥太郎さんが、とっても仲良くハグをなさっています。

 わたくしはお二人の小さい頃を存じ上げません。
 でも、本当の兄弟のように育ったと伺っていますから。ええ、そうですよね。兄弟は幼い時は素直でも、年を重ねると意地を張ったりしますものね。

「まぁ、なんて清らかで美しい光景なのでしょう」
「翠子さんにはそう見えるのね」

 手をつないだままの文子さんは、なぜか少し呆れた声です。

「文子さんにはどう見えるの?」
「……まぁ、なんというか色々ね。でも、翠子さんらしいから、それでいいわ」

 笑顔を浮かべた文子さんは、とても大人びて見えて。わたくしには見えない何かを感じ取っているのかしら? と思いました。
 わたくし少し鈍いところがあるんです。

「ほな、行こか。文子さん」と琥太郎さんに呼ばれて、文子さんは車に乗り込みました。

 琥太郎さんに助手席の扉を開けてもらう文子さんは、何度も何度も振り返ってわたくしに手を振っています。
 わたくしは別荘のお庭から道に出て、小さくなっていく車を見送ります。
 またすぐに会えますのに。文子さんったら、助手席の窓から顔を出しているの。風に吹かれた髪がばさばさになるのも構わずに。

 わたくしは二人の車が並木道を曲がり、見えなくなるまで手を振り続けました。

「名残惜しそうだな」

 砂を踏む音がして、振り返ると旦那さまがわたくしの傍に立っていらっしゃいました。

「もしかしたら文子さんは、わたくしに対してではなくこの森に別れを告げていたのかもしれませんね」
「そうかな? 深山さんは翠子さんと一緒に帰りたかったのかもしれないぞ。そうなると必然的にうちの車に深山さんと翠子さんが乗ることになるが。それはそれで……俺が寂しい」

 あら、もしかしたら旦那さまったら拗ねていらっしゃるのかしら。
 さっきはご自分も琥太郎さんと別れを惜しんでいらっしゃったのにね。

「はい、どうぞ」

 わたくしは両腕を広げました。
 涼しい風が吹き抜けて、木々の麓に生えるシダをさわさわと揺らします。湿った土のにおいが道にまで流れてきました。

「えーと、翠子さん?」
「今度は翠子がハグしてさしあげますよ」

 旦那さまはきょとんとした表情で、瞬きもせずにわたくしを見つめています。

「ここで?」

 まぁ確かに道の真ん中ですけれど。滅多に車も通らない道ですから。

 辺りをきょろきょろと見まわす旦那さまに、わたくしは「大丈夫です。車が来れば音で分かりますし、見晴らしもいいですよ」と声をかけました。

「いや、そっちじゃなくて。誰かに見られてやしないかと」
「大丈夫ですよ。だってただ抱きしめるだけですもの。旦那さまも琥太郎さんをハグなさっていたじゃないですか。西洋ではご挨拶なのでしょう?」

 にっこりと微笑むと、旦那さまはご自分の頬を指で掻いて、そして空を仰ぎました。
 何をそんなに悩んでいるのでしょう。
 
「で、では……」
「はい、どうぞ。翠子は包容力があるので、お任せください」

「どの口が言うんだか」と聞こえた気がしましたが。気のせいですね、きっと。

 再び辺りに視線を向けてから、旦那さまは腕の中にわたくしを閉じ込めました。
 わたくしも旦那さまの背中に腕をまわしたのですけれど。あまりにも強い力で抱きしめられて、指が宙を掻いてしまいます。

「柔らかいなぁ」
「あの、鼻をこすりつけないでください。く、首がくすぐったいです」
「翠子さんは柔らかくていいなぁ」

 しみじみと旦那さまが仰います。
 えーと、誰と比べているんですか? もしかして琥太郎さんとですか?
 わたくしは、あんなに筋肉質じゃないですよ?

 さわさわと風が吹き抜ける音。エリスが誘いに来たのでしょうか。「にゃあ」という声が聞こえました。
 この森の匂いも、草の葉と草の葉がこすれる優しい音も、キツツキなのか屋根に落ちた木の実なのか区別のつかない、コツンコツンという音も、しばらくはお預けですね。

 まるで本当の自分の家かと錯覚するほどに、この別荘に長く滞在しました。 

 木々の向こうに垣間見える、玄関のステンドグラス。青に緑に黄色のガラスが嵌めこまれたお気に入りの扉。お庭の焚き火台も、広いテラスも、もう帰るからでしょうか。とても懐かしくて、離れがたい心地なんです。

「また来ましょうね」
「寒い時期は、薪をふんだんに用意しておかないとな」

 耳元で聞こえる旦那さまの声は、わたくしの髪に音が吸い込まれたのか、くぐもって聞こえます。
 
「絶対に、絶対ですよ。約束ですからね」と念を押すと、旦那さまはわたくしの顔のそばで「ああ、約束な」と微笑んでくださったの。

 こうして別荘での夏の暮らしは、終わりを迎えました。
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