魔の女王

香穂

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第三一話

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「では打って出ましょう」



 一同誰もが驚いていたが、最も驚愕していたのはシシだった。身を乗り出してイリに詰め寄る。

「姫様、正気ですか?」

「……そなたが進言したのよ」

「いや、それはそうですが。……てっきり嫌がるかと」

「わたくしは」

 震える声を整え、イリはしっかりと前を見据えて宣言した。

「わたくしはもう二度と、己の未熟さの所為で、他の誰かに責任を押しつけるような真似はしたくないの。シシが他に道はないと判断したのなら、わたくしは主としてその判断を信じ、従いましょう。シシ、すぐに出立の準備を。ジンブンとやら、そなたにも手を貸してもらいますよ」

「御意に。ただしひとつだけ。首尾良く生き延びることができたなら、存分に取り立ててくださいね。こう言っては何ですが、私はよく働きますよ」

 このような状況下でも売り込みを忘れない商人魂に、イリは苦笑し、必ず、と約束した。

 シシとジンブンは慌ただしく部屋を辞した。時は一刻を争う。すぐさま戦支度に取りかかるのだろう。

 しかし、とタキが呟いたのは、彼らを見送った後のことだ。

 部屋に残されたゼンとイリは彼を見やる。

「たしかに積もりに積もった不満をぶつけるには、この城の外に明確な敵を持つのが最適でしょう。その敵が幼い王ではなく、悪名高い月神女カーヤカーナであるというのも、憎悪をぶつける対象としては手頃です。しかし食糧や武具があったとしても、王都まではるばる遠征するには、少しばかり水が足りないのではないでしょうか。うちの相棒が干からびるくらいですから、相当過酷な道のりになることは明白ではないかと」

「いや、水はあるはずだよ。この城の地下にも……って、えええ?」

 気づけばイリの瞳から大粒の涙があふれかえっていた。

 ゼンは勿論、さすがのタキも度肝を抜かれる壮絶な泣き顔だった。

「どうしたんだよ、急に!」

「だって、だって……」

 その先は嗚咽に呑まれて言葉にならない。

 あいにく手拭いなど気の利いたものは持ち合わせていない。どうしたものかと悩んだ揚げ句、ゆらゆらと揺れているイリの着物の袖を目元に押し付けてやると、彼女はそれに顔を伏せてさらに泣いた。

 助けを求めて相棒を見やるが、タキの反応はすげない。

「ゼン、きみがそんなに動揺してどうするんですか。ただ目から水分が流れているだけのことでしょう。感情の起伏が沈まれば自然と止まるはずです」

「なんて無情な!」

「事実を述べたまでです。さらに言うなれば、これから戦だというのに大将がそのような有様とは。先が思いやられますね」

「そのようなこと、そなたに言われずともわかっているわよ!」

「でしたら今すぐ泣き止むべきかと。それともこれから先、苦渋の決断を下すたびにそうやって泣くつもりですか?」

 イリの肩が大きく震える。口を真一文字に結んで顔を上げるが、涙は止まらない。

 それでも彼女は真っ向からタキを睨みつけた。

「わたくしは、決めているの。泣き虫で頼りなくても、どれほど無様でも、シシたちがわたくしの帰りを待っていたと言うのなら、その気持ちに報いようと。此度の戦は西の神女イリの名の下に行われる。戦における全ての責任はわたくしが負うわ。口出しだけして、何もしないそなたに、そのように言われる筋合いはない!」

 もっともな言い分だ。

 マナ使いなのに、マナ使いであるがゆえに過分に干渉することができない。ゼンは彼女に申し訳なくて、かける言葉が見つからなかった。

 泣き虫で、民の安寧を心から願う少女の双肩に乗せるには、あまりにも過酷な責務だ。王家に生まれ、西の神女として祀り上げられていようとも、彼女自身は一介の神女とさほど違いのない、ごく普通の娘なのに。

 それでも彼女は逃げずに戦うと決めた。

 怖くて怖くて、不安に押しつぶされてしまいそうになりながらも、決して後ろを振り向かず、前を向こうとする姿に、ゼンは心を打たれる。

 それと同時に己の無力さを痛感する。

 イリはアガリエのように強くない。それなのにシシのように武術に秀でるわけでも、ジンブンのように商才があるわけでもないゼンは、彼女のために力を尽くすことができそうにない。

「かくなる上は、いっそ本当に神様になって……」

「馬鹿なことを。神と人の戦にするつもりですか。それこそ大事になりますよ」

 即座に否定され、返す言葉もない。

 しばしイリのしゃくりあげる声だけが響いていたが、おもむろにタキが口を開いたかと思えば、とんでもないことを言った。

「ところで、何もしないと、誰が言ったのですか?」

「は?」

「もしかして僕が言いましたか? すみませんが、記憶が飛んでしまったのか、覚えていないのですが」

「いやいやいや! さすがに覚えてるだろ。ついさっきだよ、この件に関して俺らは傍観者だって言ったのは」

「……ああ、たしかに傍観者だと言いましたが、手助けしないとは一言も言っていませんよ。やれやれ。人の祈りに耳を傾けて生きる我々マナ使いが、目の前で苦しんでいる人々がいるのに、それを無視できるとでも? そのような非道な真似できるわけがないでしょう」

 あまりに淡々とした口ぶりだったから、できるのかと思った。

 胡乱げなゼンとイリの視線をものともせず、タキはふむ、と顎に指を添えて思案顔になった。どうやら彼に他意はなかったらしい。

「ともあれ問題は水ですね。そういえばゼン、きみさっき何か言いかけませんでしたか?」

「あ、ああ。水ならあるはずなんだよ」

 ゼンが同意を求めるようにしてイリを見やるが、彼女は頷かなかった。

 それでもゼンには確信に近いものがあった。

「城の門は閉ざされ、外は疫病が蔓延してる。それなのにシシは城の外で倒れていた俺を助けてくれたんだろう?」

「そんなこともありましたね。マヤーに乗って僕が助けに行くと言えば、途中で記憶喪失になったら困るとイリが言うので、では一緒に行こうと言えば、イリが病を得てはいけないからとシシ殿たちが禁じて、かといってマヤーに他の者が騎乗することもできず、結局シシ殿が単身助けに向かったんです。半日ほどできみを連れて戻ったはずですが、そういえばあれはどこから?」

「王家の墓所の下には鍾乳洞が広がってた。人の手で作られたものじゃなくて、何十年、何百年とかけて地下に染みこんだ雨水が自然に生み出した鍾乳洞だ。きっとこの国の地下には、大なり小なり似たような鍾乳洞が広がっているんだと思う。この西の城の地下にも。たぶんシシはその地下通路を通って、俺を助けに外に出たんだ」

「水が作りだす鍾乳洞……、そこには水もある、と?」

「おそらく。でもそんなに大量じゃないはずだ。なにしろ雨が降らないことには増えない水瓶だろうからね」

「……お二人とも、このことはどうぞ内密にお願いいたしますね」

 なぜ内密にする必要があるのか。

 ゼンの表情からその疑問を察したらしい、イリはふたりを傍へと手招きすると、周囲を警戒するように小声で訳を話した。

「王家の墓所でもこの西の城でも、地下のことに関してはごく一部の神女しか知り得ぬことなのです。ここでも斎場の奥、神域とされる場所にあります。王都の墓所に至っては亡き王家の御先祖様が眠る場所。断じて、断じて口外することは許しませんよ」

「わ、わかってるよ。誓う」

 かっと目を見開き、鬼気迫るイリの表情には、アガリエとはまた違う凄みがある。ゼンは顔を背けて何度も頷いた。

「あとはこの城を出る方法ですが。その鍾乳洞はどれだけの人数が通れるものなのですか?」

「内密に、と申しました。それに鍾乳洞内は細く、迷路のように入り組んでいますので、さほど多くの者を通すことはできません。ですから他の方法を考えなくては。たとえば……」

「たとえば?」

 イリはしおらしく居住まいを正した。

「世間知らずのわたくしたちがいくら頭を悩ませたところで、これといった名案など思いつかないでしょう。でしたらいっそ、戦の専門家であるシシたちに任せてしまえばよいのです」



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