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第一帖 巽丸
1-2 つとめ
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◇◆
相州に、姫木という領知があった。
海と山に挟まれた穏やかな気候の地で、東海道からはやや外れている。
時は、大坂の役より数十年の延宝年間。
家綱の治世である。
わずか十一で第四代将軍となったものの、先代よりの家臣の助けもあって二十八年あまり政権の続いた、その後半期の頃。
太平の時代になりつつあった。
武士にも、忍びにも、その能力を発揮できる場は多くない――あるいは、大きな戦の起こる見込みは薄い、そういう世になってきている空気が、漂いかけていた。
家綱が職に就いたあたりには由比正雪など浪人を集めた者もいたが、むしろそれを鎮めたことが承継すぐから地盤を固めることになったとも云える。
そんな中、この姫木郷はこれまでそういった騒ぎもなく、慎ましやかにあった。
さて、巽丸の父、霾玄信は忍びである。
表向きは用人のひとりとしてこの姫木の領主、小浦家に仕えている。
その玄信はいま、役所――陣屋の中で、政を行ういわば城となる所を、役所という――の居間にて、初老のさむらいの前に座っていた。
家老のひとり、鴻上舎人である。
「――間者、ですか」
呼び出しに応じた玄信にさっそく、舎人は用向きを話しだしていた。
ゆるりと頷き、天井を見上げる。
釣られるように玄信も視線を上げて、続ける。
「いつ頃から、お気づきに?」
「三日ほどになるか」
と、舎人は玄信に小さく折った懐紙をひとつ、差し出した。
開いた中には、指二本ぶんほどの布片が入っていた。
玄信は懐紙ごと取り上げて、仔細に観る。
「これは、どこで?」
「ここじゃ」
布は片面の半分くらいが黒くなっているほかは柿渋で染められている。
玄信は鼻を寄せ、匂いを嗅ぐ。
「調べさせたら、それが出てきた」
なるほど、と玄信は頷く。
「確かに、同じなりわいのようですな」
「――お主の手の者ではあるまいな」
「まさか」
からりと玄信は笑う。
「ここに潜る理由がありませぬ」
「そうか。では、何者か。また巡検使か」
「巡検使ならば、正面から参りましょう」
いわゆる諸国巡検使はわずか数年前、寛文七(一六六七)年に行われていた。その前は先代家光の頃で、四十年以上も遡る話である。
「探ってくれ」
舎人が短く言う。
「どこの者か、狙いは何か。
お主が無理なら、配下でもよい。一人や二人はおるのだろう」
玄信が右足を庇うのは、この舎人によって負わされた傷がもとだった。
「そうじゃ」
舎人が、はたと膝を叩いてにやりと笑い、玄信に近寄った。
声を抑えて、言う。
「お主、息子がおったろう。我が殿も気にかけていらっしゃる、ほら、何といったか」
「巽丸ですか。確かに、代わりに働かせることも増えておりますが……」
「元服前か。いま、何歳じゃ」
「十五になりました」
「ちょうど良いではないか」
もう一度膝を打って、さらに寄る。
「その巽丸に探らせればよかろう。
元服の儀はこの片をつけたところで執り行えばよい。日取りはわしが見ておくし、烏帽子親も引き受けてやる。どうじゃ」
「それは――」
実のところ、玄信にとっては悪くない条件とも云えた。
こうして「武士の父子」として暮らしていることもあり、子の元服などは周囲に対する振りとしては疎かにしておけないことのひとつでもあった。
とはいえ、玄信には儀礼の役を頼む人脈に悩むところでもあった。
家老が担ってくれる、というのは丁度良い世間体になるだろう。
「よいな」
念を押すように舎人が言う。
玄信は、静かに頭を下げた。
戦国の世からも時を経て、先に述べたとおり、いくさで身を立てることは難しくなっていた。
働く場を戦場の他に求めねばならない。
まして、諜の術を糧にしてきた忍びの類にとって、その技を売る場は激減した、と云っていいだろう。
かつての功や縁で召し抱えられた者もいるが多くは百姓となり、中には盗人に身を堕とした連中もいる。
しかし、それを密告するのもまた、もと忍び、ということもあった。
十年ほど前、一党散り散りになってしまった玄信はまだ幼い巽丸を抱え、扶持を求めて、この姫木郷まで流れてきた。
ひと騒動があり、その結末として、玄信はこの地に暮らすこととなった。
巽丸の母は、すでに此岸を渡っていた。
巽丸三歳の頃であった。
いまは、陣屋にある霾の家には、父子のほかにもう一人、巽丸から見て大叔父にあたる老人がいる。
名を、順影という。
この順影老が巽丸と同じくらいの頃にはまだ全国に雇われる先があった。
その話を思い出したように語ることもあるが、普段はただ黙していることも多い。
巽丸はこの、かつて忍びの活躍していた時代の話を聞くのが好きだった。
一度ならず、尋ねることもある。
「大叔父殿。またそのように、我らのはたらける日が来るのでしょうか」
と。
すると決まって、大叔父は薄くにやりと笑い、片目の盲いたまなざしでまだ幼さの残る又甥を見て、
「来るやもしれぬ」
そう、うそぶくのだった。
その巽丸はこの時、夕飯の支度をしていた。
朝に炊いた米に、漬物。町人の食事とほとんど変わりはない。
これに茶を用意して、茶漬けにする。
土地柄もあって、魚の釣れた日には昼の膳に載ることもあるが、夕食はだいたい、こんな感じである。
父の帰宅に合わせていつでも出せるようにしておくのが、巽丸の日課でもあった。
男ばかり三人のみの暮らしであった。
玄信は時折、舎人などに家人を入れるよう促されることもあるが、役割や家計などを理由に応えることを避けていた。
がらりと戸が開いて、玄信が姿を見せた。
「父上、お帰りなさいませ」
ん、と短く頷いて、玄信が入ってくる。
閂をおろして、巽丸は父を追い抜いて家の奥へ向かった。
「大叔父殿っ」
呼ばれた順影老が杖を片手に部屋から出てくる。
ほとんど一日己の部屋で読み物か書き物をしているか、巽丸の気付かぬうちにふらりと外出していることもある。
余談ではあるが、この杖は、仕込みである。
片方の目は光を失い、また動きに老いはうかがえるものの、耄碌はしていない。
三人あつまっての、夕飯となった。
「父上、ご家老のお話は何だったのですか」
米櫃も空になったところで、巽丸が言う。
「うむ、それだが――」
茶で喉をあらってから、玄信が巽丸を見る。
「お前に、お役目だ」
巽丸の目が輝いた。
一日でも早く、一人前と扱ってもらいたい性分であった。
相州に、姫木という領知があった。
海と山に挟まれた穏やかな気候の地で、東海道からはやや外れている。
時は、大坂の役より数十年の延宝年間。
家綱の治世である。
わずか十一で第四代将軍となったものの、先代よりの家臣の助けもあって二十八年あまり政権の続いた、その後半期の頃。
太平の時代になりつつあった。
武士にも、忍びにも、その能力を発揮できる場は多くない――あるいは、大きな戦の起こる見込みは薄い、そういう世になってきている空気が、漂いかけていた。
家綱が職に就いたあたりには由比正雪など浪人を集めた者もいたが、むしろそれを鎮めたことが承継すぐから地盤を固めることになったとも云える。
そんな中、この姫木郷はこれまでそういった騒ぎもなく、慎ましやかにあった。
さて、巽丸の父、霾玄信は忍びである。
表向きは用人のひとりとしてこの姫木の領主、小浦家に仕えている。
その玄信はいま、役所――陣屋の中で、政を行ういわば城となる所を、役所という――の居間にて、初老のさむらいの前に座っていた。
家老のひとり、鴻上舎人である。
「――間者、ですか」
呼び出しに応じた玄信にさっそく、舎人は用向きを話しだしていた。
ゆるりと頷き、天井を見上げる。
釣られるように玄信も視線を上げて、続ける。
「いつ頃から、お気づきに?」
「三日ほどになるか」
と、舎人は玄信に小さく折った懐紙をひとつ、差し出した。
開いた中には、指二本ぶんほどの布片が入っていた。
玄信は懐紙ごと取り上げて、仔細に観る。
「これは、どこで?」
「ここじゃ」
布は片面の半分くらいが黒くなっているほかは柿渋で染められている。
玄信は鼻を寄せ、匂いを嗅ぐ。
「調べさせたら、それが出てきた」
なるほど、と玄信は頷く。
「確かに、同じなりわいのようですな」
「――お主の手の者ではあるまいな」
「まさか」
からりと玄信は笑う。
「ここに潜る理由がありませぬ」
「そうか。では、何者か。また巡検使か」
「巡検使ならば、正面から参りましょう」
いわゆる諸国巡検使はわずか数年前、寛文七(一六六七)年に行われていた。その前は先代家光の頃で、四十年以上も遡る話である。
「探ってくれ」
舎人が短く言う。
「どこの者か、狙いは何か。
お主が無理なら、配下でもよい。一人や二人はおるのだろう」
玄信が右足を庇うのは、この舎人によって負わされた傷がもとだった。
「そうじゃ」
舎人が、はたと膝を叩いてにやりと笑い、玄信に近寄った。
声を抑えて、言う。
「お主、息子がおったろう。我が殿も気にかけていらっしゃる、ほら、何といったか」
「巽丸ですか。確かに、代わりに働かせることも増えておりますが……」
「元服前か。いま、何歳じゃ」
「十五になりました」
「ちょうど良いではないか」
もう一度膝を打って、さらに寄る。
「その巽丸に探らせればよかろう。
元服の儀はこの片をつけたところで執り行えばよい。日取りはわしが見ておくし、烏帽子親も引き受けてやる。どうじゃ」
「それは――」
実のところ、玄信にとっては悪くない条件とも云えた。
こうして「武士の父子」として暮らしていることもあり、子の元服などは周囲に対する振りとしては疎かにしておけないことのひとつでもあった。
とはいえ、玄信には儀礼の役を頼む人脈に悩むところでもあった。
家老が担ってくれる、というのは丁度良い世間体になるだろう。
「よいな」
念を押すように舎人が言う。
玄信は、静かに頭を下げた。
戦国の世からも時を経て、先に述べたとおり、いくさで身を立てることは難しくなっていた。
働く場を戦場の他に求めねばならない。
まして、諜の術を糧にしてきた忍びの類にとって、その技を売る場は激減した、と云っていいだろう。
かつての功や縁で召し抱えられた者もいるが多くは百姓となり、中には盗人に身を堕とした連中もいる。
しかし、それを密告するのもまた、もと忍び、ということもあった。
十年ほど前、一党散り散りになってしまった玄信はまだ幼い巽丸を抱え、扶持を求めて、この姫木郷まで流れてきた。
ひと騒動があり、その結末として、玄信はこの地に暮らすこととなった。
巽丸の母は、すでに此岸を渡っていた。
巽丸三歳の頃であった。
いまは、陣屋にある霾の家には、父子のほかにもう一人、巽丸から見て大叔父にあたる老人がいる。
名を、順影という。
この順影老が巽丸と同じくらいの頃にはまだ全国に雇われる先があった。
その話を思い出したように語ることもあるが、普段はただ黙していることも多い。
巽丸はこの、かつて忍びの活躍していた時代の話を聞くのが好きだった。
一度ならず、尋ねることもある。
「大叔父殿。またそのように、我らのはたらける日が来るのでしょうか」
と。
すると決まって、大叔父は薄くにやりと笑い、片目の盲いたまなざしでまだ幼さの残る又甥を見て、
「来るやもしれぬ」
そう、うそぶくのだった。
その巽丸はこの時、夕飯の支度をしていた。
朝に炊いた米に、漬物。町人の食事とほとんど変わりはない。
これに茶を用意して、茶漬けにする。
土地柄もあって、魚の釣れた日には昼の膳に載ることもあるが、夕食はだいたい、こんな感じである。
父の帰宅に合わせていつでも出せるようにしておくのが、巽丸の日課でもあった。
男ばかり三人のみの暮らしであった。
玄信は時折、舎人などに家人を入れるよう促されることもあるが、役割や家計などを理由に応えることを避けていた。
がらりと戸が開いて、玄信が姿を見せた。
「父上、お帰りなさいませ」
ん、と短く頷いて、玄信が入ってくる。
閂をおろして、巽丸は父を追い抜いて家の奥へ向かった。
「大叔父殿っ」
呼ばれた順影老が杖を片手に部屋から出てくる。
ほとんど一日己の部屋で読み物か書き物をしているか、巽丸の気付かぬうちにふらりと外出していることもある。
余談ではあるが、この杖は、仕込みである。
片方の目は光を失い、また動きに老いはうかがえるものの、耄碌はしていない。
三人あつまっての、夕飯となった。
「父上、ご家老のお話は何だったのですか」
米櫃も空になったところで、巽丸が言う。
「うむ、それだが――」
茶で喉をあらってから、玄信が巽丸を見る。
「お前に、お役目だ」
巽丸の目が輝いた。
一日でも早く、一人前と扱ってもらいたい性分であった。
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