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ワレモア

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春の思い出

第四話『葵』

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 キラキラと光を反射させながらグルグル回って春の放課後を切り裂いたそれは、僕のすぐ横で鈍い金属音を震わせた。
おそーい!」
 古びた靴箱に刺さった草刈り鎌に焦点が合う。柄に黒マジックで『かざかみはるふみ』と書いてあった。
「ありえない…… ありえないだろ菜摘! 刺さったらどうすんだよ!」
 体育館裏は一反ほどもある草むらだった。奥には剪定をサボってお化けみたいに伸びた梅の大木があって、その脇に雑草が生えた屋根が見える。けど、手前には2メートルもあるススキが密生していて、下が地面なのか沼なのかも分からない有様だった。
「み~ち~!」声だけで菜摘の姿は見えない。
「はぁ?!」
 最初からこんなところだろうと思っていた。菜摘が僕を好きになるはずがない。
「通り道を作って~? この小屋までの!」
 草を刈り取れと言う意味だろう。
「なんで学校にこんな盛大なジャングルがあるんだよ!」と小屋に叫ぶと、
「養分たっぷりなんだろ? 昔は畑だったらしい」背中から返事が来た。
 保健室前の昇降口は体育館との渡り廊下にもなっていて、そこで明が運動靴の紐を結んでいた。
「あそこが演劇部の部室らしい。ススキヶ原にお化け梅、まるで妖怪小屋だろ?」
 明は木板の屋根を指差して楽しそうに唇を歪めた。
「明はこっち。早く!」菜摘の手首が見えて、
「どーやって行けばいい?!」明も精一杯叫び返す。
「右! あっちから跳んで!」
「飛ぶ?」
 北側のフェンスに沿って幅も深さも2メートル近くありそうな用水路がある。跳び越えてフェンスを辿れば、たしかに小屋まで辿り着けそうだ。
「マジかよ……」明は、重そうな自分のショルダーバッグと用水路を見比べながら少しだけ躊躇して、ため息ひとつこぼして水路を跳んだ。


 体育館裏の小ジャングルの植物分布は思ったよりずっと複雑で、全体を覆うススキから自身のテリトリーを守るかのようにセイタカアワダチソウが群生しているし、その二大勢力の間隙を縫うかのようにセンダングサがコロニーを作っている。もちろん、どこにでも生える道端イネ科雑草四天王、チガヤ、オヒシバ、イヌムギ、エノコログサもコンプリートしている状態だ。
 そんな雑草たちの勢力争いを涼やかに傍観するかのように、カラスエンドウやシロツメクサ、それにスミレがちらほらと花を咲かせていた。
 セイタカアワダチソウはアレロパシーという特殊な能力を持った植物で、自身のテリトリー内の植物を劣化させることで他の植物の侵入を防ぐ。
 ところが、その特殊能力はやがて自身の生育にも悪影響を及ぼし、自滅への道を進んでしまう。そんな枯れた土地でも生育できるのが、ここにいる強い雑草たちだ。
 スミレと聞けば、小さくてそれでいて凛として可憐。そんな花を思い浮かべる人が多い。けど、実際のところは草むらの雑草レベルでは足元にも及ばない強靭な生命力をもち、除草剤によって植物が死滅したはずの草むらで翌年に花を咲かせることもあるくらいだ。
 僕が今ここに強力な万能除草剤を撒いたとすれば、卒業の頃にはここがスミレ畑になっている可能性だってゼロではない。


 そんな猛者たちのひしめくジャングルに細い道が出来る頃には、日が傾いていた。
「明日は朝から大掃除するから、捨ててもいいような服ね!」帰り際に菜摘がさらりと言う。
「朝から大掃除って、どういうこと?」
「ハンッ、朝って言えば七時集合に決まってるでしょ? 日曜の町内清掃と同じじゃないの」
「明日は、土曜だけど?」それは休日って意味だ。
「そ。土日で徹底的にやるから。こんなドロッドロのあばら家を掃除したら、洗濯しても落ちないくらい真っ黒になるでしょ? 制服って、結構高いんだから!」
 そこじゃない。僕が知らないうちに大掃除ボランティアに入っている理由が訊きたかったんだ。
 けど、「あと、こっちは急ぐから今すぐ!」と菜摘がトートバッグから出した紙には“入部届”と書いてあった。


 図書室で借りた『絵で見る源氏物語注釈書 ~たま小櫛おぐし菫草すみれぐさ~』には、“もののあはれ”という意味不明なキャッチフレーズとその解説に続いて、時系列表、年立図、人物系図、平安官僚の役職図といった数々の参考図。さらにその先に数百人分の人物紹介ページが続いていた。
 そもそも、源氏物語の登場人物には、主人公である通称光源氏にさえ名前がないらしく、原文では『いづれの御時にか女御更衣あまたさぶらひたまひける』状態にあった貴族社会で起きた色恋沙汰が匿名で綴られるという形式になっている。
 例えば現代の会社に当てはめるなら、ある大企業のイケメン次男坊、営業部の女性主任、古い取引先の社長の娘といった人物が、五百人も登場する。
 だから、平安末期から現代にかけて、夥しい数の源氏物語を読むための参考書が作られてきたんだそうだ。
 僕だけではなく、遥か平安の昔から『意味が分からない』と思った人が多かったのだろうと想像すると、馬鹿馬鹿しくて笑えてしまう。
 参考書の中でも江戸時代に本居宣長らによって書かれた『源氏物語玉の小櫛』は、それまで“好色男の失敗談”として世間に認知されていた源氏物語を、日本人の古来からの曖昧な価値観である“もののあはれ”を文章にした文学作品だと主張した。
 後年、その『玉の小櫛』でまとめきることが出来なかった登場人物同士の関係や年齢などをまとめて、本居宣長の弟子が『源氏物語菫草』として出版したんだそうだ。
 誰もが知っている光源氏を含めた登場人物の個人名や教科書に載っている年齢なども、これらの本を元に明治以降に統一されたらしい。
 読み進めれば読み進めるほどますますわけが分からなる源氏物語も、これですこしは理解しやすくなるだろうと思っていた――

   あまたとし 今日改めし 色ごろも
        きては涙ぞ 降るここちする
                       [第九帖 葵]

――険悪な関係だった葵の上との間に息子を授かったことで、光源氏はついに妻への愛を自覚する。ところが、物語に突然登場した元カノ、六条の御息所みやすどころが嫉妬に狂い生霊となって葵の上を呪い殺してしまう。
 そばにいた大切な人を亡くしてしまってから、やっと女遊びを後悔し、ふたりの間に育めたはずの愛を想像し涙に暮れる。
 光源氏に突然    ほだった愛妻の情も難解な文章の中に生霊まで登場する展開もなんとか受け入れて、僕は文庫本のページをめくる。
 あろうことか光源氏は、葵の上の四十九日が終わった途端成長した紫の上を手籠めにして正室に迎え、男性不信に陥った紫の上を一方的に溺愛する。
 僕は光源氏に恐怖に近い絶望を覚えていた。それは紫の上の中にある感情と同じなんじゃないかと思う。
 やっぱり源氏物語は好色男の失敗談なのかもしれない。
 明日から、菜摘と明と三人で演劇部の活動が始まる。僕にとっては、灰色の“あまた年”からの脱却ってことなんだ。
 そんな新年の“色ごろも”に僕が選んだのは、つい先週、誕生日プレゼントに菜摘からもらった雨蛙色のTシャツだ。


 ススなのか泥なのか、あるいはこれこそが宇宙を満たすダークマターなのかもしれない。正体不明の黒いなにかがへばりついた床を雑巾で拭いてはバケツで洗う。それを何度も繰り返す。
 にも関わらず、ただ菜摘に感謝している僕は、やっぱり情けないだろうか?
「あ、あのね…… これ終わったよ?」
 なぜかパジャマ姿の福井さんが不安そうに言う。
「ほんとバカばっかり! 撫でただけで終わりなの? ちゃんとタワシで磨きなさいよ!」菜摘が怒鳴りつける。
 福井さんが差し出す備中鍬びっちゅうぐわには、確かにまだ乾いた土がこびりついている。
「ミカ? えっと…… タワシ、どれ?」
「アンタさぁ、私の名前間違うの三回目だから! 私は菜摘! ミカは近所に二人いるだけでもややこしいってのに……」
 菜摘が勢いよく蹴った亀の子ダワシは軒柱に当たって福井さんの足元に転がった。
「あと明もさぁ、もっと力入れて磨きなさいよ。男でしょーが!」
「やってるだろ? こっちにまでとばっちりかよ……」
 新聞紙で窓を磨く明の手に、さっきよりも力が入る。
 今朝はそれほど汚れているようには見えなかった木枠の磨りガラスが、いつの間にかドロドロに汚れた透明の窓ガラスに変わっていた。
「窓が終わったら蛍光灯をもらって来てくれる? 40型のホワイト、16本」
 菜摘は小学校の頃からこうやって大掃除を仕切っていた。人使いが荒くて、みんなの役割を自分勝手に決めてどんどん指示を出す。
「あのさ、菜摘。なんで福井さんがいるの?」
「知らない! 私も初対面だし感じ悪いし! アイツ、雑巾もまともに絞れないんだから!」
 初対面で感じが悪いと思う相手までこき使えるのは、もはや才能だと思う。
「じゃあ、あの……」僕が肝心な事を訊く前に、
「ウルサイ! まずは黙って床磨き! 終わったら草刈り……の前に、先にバケツの水替えてきて!」
 みんなに勝手に指示を出す当の本人は、奥の小部屋から真っ黒なスライム入りのバケツを持ってくる。
 いつも一番大変なところを自分でやる菜摘には、誰も文句は言えないんだ。
「今日と明日で終わらせるから。もちろん草刈りも全部!」菜摘の怒声が絡まった真っ黒な雑巾が二枚、僕の顔めがけて飛んできた。

 疑心暗鬼に囚われた人間には、ススキの枯れ尾花でさえ幽霊に見えるのだという。
 午後一番から黙々とススキを刈って、刈って、刈り続けて…… 疲れ果てた僕の目にもついに幻が映った。
「菜摘って、少しだけ怖いね?」
 デッキにしゃがみこんだ福井さんは、相変わらず整いすぎた横顔で大量の植木鉢を洗っている。
 デッキと言うと聞こえがいいけど、肥料やリヤカーを置くような屋根があるだけのスペースだ。
「大掃除の日の菜っちゃんは、独裁者だからねぇ」
 僕は緩みかけた頬を必死で引き締めて草刈り鎌を振りつづける。
 あの子の手が『演劇部』と書かれたダンボールから本を取り出して埃をはたくのが見えた。
「ひゅわぁ。ほら見てよ、結衣ちゃん! これだけあれば部室の屋根を茅葺き屋根にできるんじゃないかな?」
 積み上がったススキの山に隠れてあの子の姿は見えないけど、疑心暗鬼を捨てた僕には枯れ尾花さえ花に見えるんだ。さしずめ、この四角い広場は花咲く庭だ。
 普通なら誰も、こんなススキとお化け梅の草むらを『庭』だなんて呼びはしない。
「いいこと考えたんだ。この庭が花でいっぱいになったら、素敵だと思わない?」
 あの子と僕との久しぶりの会話は、確かそんな風だった。
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