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春の思い出

中学一年 春

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 あの日の空は、間違えてきこぼした灰色の絵の具を拭き延ばしたみたいにうっすらと霞んでいて、街の景色もぼんやり滲んでいました。
 中学生になって一か月。
「どうしてこんなに苦しいのかな?」
 胸がズキズキと痛みました。
「いいことなんて、なにも無いよ……」
 今日は学校の前まで行ったはずなのに、気がつくとここに立っていて……
 月代台高校の裏庭が見えました。
 綺麗に改築された校舎とは不釣合いな古めかしい小屋が建っていて、その横のデッキで高校生が三人、並んで楽しそうにお弁当を食べていました。
 本当は、ここからだと楽しそうなのかどうかまでは見えなかったけれど。
「昔なら、もっとドキドキした?」
 今朝は校門まで行ったところで学校には入れなくて、家に帰るわけにも行かなくて、それで、やっと自分の居場所がどこにもないことに気がついて……
 いつの間にかわたしは、立ち入り禁止の金網もガードレールも乗り越えて『あの丘の公園』の目が眩むほど高いコンクリート擁壁ギリギリの、運動靴のつまを先半分出してなんとか立てる狭い足場にいました。
 ハトが五羽、遠い空を泳いでいくのが見えました。
「少しだけなら、わたしも飛べるかな?」
 背中を押してくれる優しい春風に片足を乗せたとき、どこかから声が聞こえました。
「待って! ちょっと待って!」
 晴史君は立っていたバウムクーヘンから降りた途端につまづいて、たった五段の階段の途中で足を踏み外して、縁石に足をとられて花壇に咲いた白いチューリップを踏みつけて、植え込みをボキボキと折りながら泳いで、よじ登った金網の上から転げ落ちて、息を切らしてわたしのすぐ後ろのガードレールまでたどり着くと、
「時久《ときひさ》さんは、なにしてるの?」と作り笑いを浮かべました。
「月が見えるかもしれないと思って……」
 わたしの嘘をまるで予想していたみたいに、ちょうど雲間から真昼の太陽が顔を出しました。
「そこ、怖くない?」
 晴史君が散らした植え込みのツクバネウツギの三角帽子みたいな白い小さな花がたくさん、風に舞い飛んで、わたしの代わりに崖の下へと落ちて行きました。
「うん。もう大丈夫」
 わたしの中でふいに甦ったのは、もう忘れかけてしまっていた、懐かしい思い出。
「イチネンテン、だったよね」
「え? あ、うん。一年生だし、それに…… 僕は、クラスの隣の席で……」
 晴史君はなにを聞き違えたのか「俺は、三組の風上晴史」と、左の頬を少し歪めて三度目の自己紹介をしてくれました。
 遠くの海が真昼に太陽に照らされてキラキラと輝いていました。そんな街の景色を眺めながら楽しい話をしようと思って、
「ね。風上君はどうして……」ここに来てくれたの? と、笑顔をで振り返ろうとした時、わたしの身体はバランスを崩して宙《ちゅう》に浮かびました。


 これが走馬灯なのかも?
 わたしの中にある一番古い記憶は、優しい腕に抱かれて風車が回るチューリップ畑を眺めている。そんなシーン。
 本当はそんな思い出はわたしの嘘で、古い写真の一枚を思い出だと思い込んで記憶に刷り込んだだけかもしれません。だって、お母さんがなんて言ったのかさえ思い出せないから。
「この写真は、オランダ?」
 アルバムにあるのは、思い出と同じようなチューリップ畑と、思い出とはどこか違う風車小屋。
「これはデュッセルドルフの庭園だね。真志紀はまだ三歳だったから、覚えてないかな? 三人でアルプスの街や古城をまわって、それにF1レースの応援にもいったんだよ?」
 お父さんは懐かしそうに目を細めました。
 仕事が忙しくてなかなか新婚旅行に行けなくて、そのうちわたしも生まれてしまって…… 結婚して五年目に三人でヨーロッパ旅行にに行ったそうです。
「見に行きたいな。チューリップ……」
 次の日曜日、お父さんが連れて行ってくれた近所のチューリップ畑には、羽が五枚ついた古い木製風車が三基並んでいました。
「あれが風車? あ!」目の前にあったのは、あの思い出、そのまま風景。
「この『かざぐるま農園』をお母さんがとても気に入ってね。三人でよくここに来たんだ」
 チューリップの世話をしていたお爺さんが「やぁ、久しぶり」と顔の横で手の平をこちらに向けました。
「今はもう壊れてしまったけれど、ずっと昔は、あの木造風車で地下水を汲み上げて花を育てていたんだそうだよ」
 歩いてすぐのところにあった思い出の場所でチューリップを見ながら、お父さんとふたりでタマゴサンドを食べました。
 あの日の空も、今日みたいに……
 目の前を流れていくガードレールをつかもうとした指が空を切りました。
「お母さん、助けて! やっぱり死にたくない!」
 それは本心。
 遠ざかる空に向かって祈った瞬間、わたしの身体は綿帽子みたいな柔らかな春の風につつまれたように、背中からゆっくりと地面に落ちました。


 チューリップの香りがしました。
 耳元に聞こえるのは、まるですすり泣いているみたいな、息遣い。
 目の前に広がる高く澄んだ青い空は、溜息が出るほど綺麗で……
「あれ?」溜息が出るのも、生きている証。
 晴史君は両腕でわたしの身体を痛いくらい抱きしめたたまま、ガードレールとフェンスの間の狭い草むらでわたしの下敷きになっていました。
 エビジャーマンスープレックス。
 小学校の頃に流行したそれは、プールサイドの友達に後ろから抱きついて背中から一緒にプールに落ちる遊びのことで、四年生の夏に突然流行して、六年生の夏に禁止されたプロレス技。
 そんな荒々しい方法でわたしを断崖から無理矢理遠ざけた晴史君は、まるで擁壁の下にいる死神からわたしを守るみたいに、必死で後退りしました。
「飛んだり、しないよ?」
 腕の力が少し弱くなって、優しい抱擁に護られたまま、わたしはしばらく空を眺めていました。
「あぁ! ゴ、ゴメン!」
 きっとそれは、頭の上を流れていったヘリコプターの音のせい。
 晴史君は、思い出したように腕を解くと、拳銃を向けられたアメリカの誘拐犯みたいに両手を上にあげました。
 草むらに寝転がったままの晴史君の、ズボンにもソックスにもブレザーにも、センダングサの細いひっつき虫がびっしり刺さっていました。
「見えたんだ。さっき、学校の前まで来てたから……」
 怯えるような声。
 ツクバネウツギの植え込みには草臥くたびれた運動靴が片方だけ引っかかっていて、花壇にあいた大きな穴ぼこにはへしゃげた白いチューリップが残っていました。
「五時間目、またサボっちゃった?」
「僕も、手を振りたかったから……」
 晴史君は上半身を起こして、若緑の草の上でそう言いました。
「誰に?」
「……四角い世界」
 全然会話にならないのがなんだか可笑しくなってしまって、わたしは暖かい気分になっていました。
「隣の席が空っぽなのは、やっぱり寂しくて」
「隣…… 川辺さんがいるよね?」
「違うんだ! 違う……菜摘はさ、いつも、みんなこと考えて、けど……」
 晴史君は今にも泣きそうな顔になっていて、わたしは自分の皮肉めいた言葉を後悔しました。
 給食のコロッケが足りなくなった日、川辺さんは学校中を駆けずり回ってコロッケを集めました。それでもまだひとつ足りなくて『ちょうど私は、炭水化物ダイエット中だし』なんて笑った川辺さんのプレートには、半分ずつのコロッケがたくさん集まって……
 なのにわたしはあの日、コロッケを半分ほど食べ残してしまいました。
「わたし、気にしてないから」
 本当は、川辺さんの話なんてしたくなかっただけ。
「本当にゴメン!」
「たぶん、そういう運命なんだよ」
 自分のことみたいに真剣に謝る晴史君を見ているうちに、わたしの中で寂しい雫が一滴、ポタリと落ちた気がしました。
「違うんだよ! ちょっと、ちょっとだけ待って」
 晴史君はブレザーとズボンの右と左のポケットにぞれぞれ一回ずつ手を突っ込んで、結局、胸の内ポケットからクシャクシャのピンクの紙切れを取り出しました。
「一緒に居たいんだ! ただ、時久さんとずっと一緒に居たくて、それで……」
 突然の告白に、わたしの胸はコトンと小さく脈打ちました。
 虹色の風が、チューリップの香りを乗せて吹き抜けるような……
 だけど、そんな言葉は言葉足らずの晴史君の頭の中では別の意味だったということが、受け取ったピンクの手紙に書いてありました。
「ラブレターかと思っちゃった」
「別に、これは偶然拾っただけって言うか…… ゴメン」
 晴史君は必死で言い訳しながら、植え込みの中から運動靴を引っ張り出しました。
「どうして、風上君が謝るの?」
「けど、俺がなんとかするから!」
 さっきまで、自分の事を『僕』って言っていたのに……
 晴史君が折った植え込みの隙間から見えるバウムクーヘンの上には、中学校の校舎がミニチュアサイズに見えました。
 わたしの悩みなんて、ほんの小さな四角い世界の些細な話。そう思えた時、五時間目の終わりを告げるチャイムが聞こえてきました。
 いつの間にか胸の痛みなんて消えてしまっていて……
 ふたりでバウムクーヘンに腰掛けて、晴史君のブレザーに刺さったひっつきむしを一本ずつ抜いているうちに、空の色は桜色に変わっていました。
 バウムクーヘンは、『あの丘の公園』から街を見渡す見晴らし台。
 ぼんやり霞んだ街の景色は優しくて、とても綺麗でした。


 翌朝、晴史君が踏みつけた花壇には他よりもひと回り小さなピンクのチューリップが植えられていて……
 わたしは、遠くにみえる学校を目指して足を踏み出しました。
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