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第9話 駄作の墓守と、血のインク
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闇が、喉に詰まった。
ガス灯の消えた帝都は、完全な漆黒だった。
霧すらも凍りついたように動かない。肌を刺す冷気が、骨の髄まで染みてくる。
「久しぶりだね——朔」
声だけが、どこからともなく響く。
低く、柔らかく。寝物語を読み聞かせるような——あの声だ。
「……ようやく、姿を見せましたね」
朔の声には、僅かな震えがあった。
それを隠すように、銀縁のメガネを押し上げる。
「編集者」
「その呼び方は他人行儀だなぁ」
黒い影が、笑った。
形のない顔が、嗤っている。
「昔は違う呼び方をしてくれたじゃないか」
朔の肩が、わずかに跳ねた。
グリムは、壁にもたれたまま動けなかった。
ヒビだらけの体が軋む。歯車が足りない。
それ以上に——空気が、重い。
錆と機械油の匂いが、鼻の奥にこびりつく。
自動人形の体になってから、匂いの感じ方まで変わっていた。
「メガネ……」
小さく呼んだ。
だが朔は振り向かない。
その背中が、いつもと違う。
いつもは余裕ぶった皮肉屋の司書が——今は、針のように張り詰めていた。
「お前ら、知り合いなのかよ……ザッ」
グリムの問いに、編集者が答えた。
「知り合い? 違う違う。僕と朔は——」
黒い栞が、ゆらりと揺れる。
「——同じ墓場の住人だよ」
葛原は、息を殺していた。
石畳の冷たさが、膝を通して伝わってくる。
目の前で何が起きているのか、半分も理解できない。
分かるのは——あの黒い影が、とてつもなく危険だということだけ。
そして、探偵が。
曾祖父の分身である歯車男が、再び震え始めていた。
「犯……人……」
「おいおい」
編集者が、探偵に目を向けた。
——瞬間、探偵の体がびくりと強張る。
「まだ動くのかい、この人形は」
「やめ——」
朔が叫ぶより早く。
編集者の栞が、一閃した。
『没——「調査中」ステータスを削除』
朱色の文字が、黒く塗り潰されていく。
朔が書き込んだト書きが——消えた。
「あ……あああッ——!」
探偵が、頭を抱えて崩れ落ちる。
歯車が激しく回転し、蒸気が噴き出す。
「犯人は、犯人は、犯人は——!」
また、壊れた蓄音機に戻っていく。
「くっ……!」
朔が朱色のペンを構えた。
空中に文字を走らせる。
『ト書き——』
「無駄だよ」
編集者の声が、かぶさった。
黒い栞が翻る。
『修正案却下——この物語は、ここで終わる』
朔の朱色が、黒に飲まれる。
赤と黒がぶつかり合い——黒が、勝った。
「……ッ」
朔が膝をついた。
ペンを握る手が、細かく震えている。
「どうして」
編集者が、首を傾げた。
「どうして、僕の方が強いか分かる?」
「……」
「この物語には——もう作者がいないからだよ」
編集者の声が、甘く響く。
「創造主のいない物語は、編集者の意のまま」
黒い栞が、再び揺れた。
「お前は所詮——校正者に過ぎない」
グリムが、歯を食いしばった。
動かなければ。
朔を助けなければ。
だが、体が——動かない。
ヒビだらけの陶器の体。欠けた歯車。
戦う力が、残っていなかった。
「メガネ……! ザザッ」
叫ぶことしか、できない。
朔は、まだ膝をついたままだった。
顔が、見えない。黒髪が、表情を隠している。
「ねえ、朔」
編集者が、一歩近づいた。
「なぜ——そこまでして、駄作を守るんだい?」
「……何を」
「この本は、駄作だよ」
編集者の声が、優しく響く。
「未完成で、結末がなくて、誰にも読まれなかった」
「静粛に……願います」
朔の声が、低く響いた。
震えている。だが——まだ、折れてはいない。
「誰にも届かない物語を——永遠に彷徨わせる方が、残酷だと思わないかい?」
編集者が、腕を広げた。
「僕は——終わらせてあげているんだよ。駄作には、あるべき結末を」
「……慈悲、ですか」
朔が、顔を上げた。
唇が、薄く歪んでいる。
「随分と……傲慢な慈悲ですね」
「おや」
編集者の声に、僅かな驚きが混じった。
「まだ、毒を吐く元気があるんだ」
「司書ですから」
朔の声が、掠れていた。
だが、その目には——まだ、光があった。
「閲覧注意の本ほど、読みたがる人はいるものです」
空気が、張り詰めた。
グリムは、息を呑んだ。
いつものメガネだ。追い詰められても、皮肉を忘れない。
——でも。
「朔」
編集者が、親しげに名を呼んだ。
その声が、急に冷たくなる。
「お前は昔——自分の物語を、自ら墓場に送っただろう?」
「……やめてください」
「書けなかった。書ききれなかった。だから——」
「やめてください……!」
「——自分で『駄作だ』と断じて、捨てた」
朔の声が、掠れた。
さっきまでの毒舌が、嘘のように消えていた。
「お前は今、何をしている?」
編集者が、腕を広げた。
「駄作を守るフリをして——ただ延命しているだけじゃないか」
「違います……!」
「本当に?」
編集者の声が、柔らかく問う。
「お前が救った物語は——本当に、読者に届いているのかい?」
朔の手から、ペンが落ちた。
カラン、と乾いた音が、霧の中に消えていく。
「ほらね」
編集者が、笑った。
「お前は分かっているんだ。自分が——駄作の墓守に過ぎないことを」
グリムの中で、何かが弾けた。
「……てめぇ……ザッ」
ヒビだらけの体を、無理やり起こす。
歯車が軋む。陶器が割れかける。
だが、構うものか。
「メガネの何を——知ったような口きいてんだよ……! ザザッ」
「おや」
編集者が、グリムを見た。
「まだ動けるのかい、出来損ない」
「——ッ」
その言葉が、グリムの胸を貫いた。
出来損ない。
名前すらつけてもらえなかった、書きかけの原稿。
それが——自分だ。
「グリム」
朔の声が、聞こえた。
掠れた、小さな声。
「……来ないでください」
「なんで——」
「あいつの言う通りです」
朔が、ゆっくりと顔を上げた。
その目は——空っぽだった。
「私は、書けなかった」
「メガネ……」
「自分の物語を——自分で殺したんです」
朔の唇が、震えていた。
「だから——本を救う資格なんて、最初から」
「黙れよ」
グリムが、叫んだ。
「そんなの——今さら言うなよ……! ザッ」
陶器の体が軋む。ヒビが広がる。
それでも、グリムは立っていた。
「俺だって——名前すら貰えなかったゴミだ」
「グリム」
「結末もねぇ。誰にも覚えてもらえなかった」
グリムの声が、震えていた。
「でも——お前は、俺を見つけてくれたじゃねぇか」
朔の目が、わずかに揺れた。
「駄作でも何でも——お前は、俺を捨てなかっただろ……ザザッ」
葛原は、二人のやり取りを見ていた。
司書と、精霊。
二人とも——傷だらけだった。
体だけじゃない。
心が、ボロボロだった。
「……くそ」
葛原は、自分の手を見た。
何もできない。何も持っていない。
——本当に、そうか?
ふと、視線が動いた。
探偵が——歯車男が、まだ蹲っている。
その手には、黒く塗り潰された紙片。
そして——万年筆が、握られていた。
「……待てよ」
葛原の頭が、急速に回転し始めた。
編集者は言った。
「作者がいないから、編集者の意のままだ」と。
なら——作者がいれば、どうなる?
「俺は」
葛原が、一歩踏み出した。
石畳を蹴る足音が、霧の中に響く。
「俺は——葛原朋成の、曾孫だ」
編集者が、振り向いた。
「……へぇ」
黒い影が、葛原を見る。
品定めするような視線。
「創造主の血を引く者、か」
「そうだ」
葛原の声は、震えていた。
だが——足は、止まらなかった。
「この本は——じいちゃんの本だ」
「だから?」
「お前のもんじゃねぇ」
葛原が、探偵のそばに膝をついた。
狂ったように頭を抱える探偵——その手から、万年筆を取る。
「おいおい」
編集者が、笑った。
「何をする気だい? 君は——何も書けない人間だろう?」
その言葉が、葛原の胸を刺した。
書けない。
ずっと、書けなかった。
だから——逃げてきた。
「……ああ、そうだよ」
葛原が、万年筆を握りしめた。
「俺は——駄作しか書けねぇ」
「なら——」
「でも」
葛原が、黒く塗り潰された紙片を見た。
これは——証拠品だ。
犯人を特定できる、決定的な何か。
消されている。
いや——待て。
脳裏に、古い記憶が蘇った。
実家の押し入れ。埃っぽい段ボール箱。
曾祖父の遺品を整理したとき——薄い紙の束を見つけた。
母が言っていた。
「昔はこうやって、下に紙を敷いて写しを取ったのよ」
「……複写紙」
葛原の目が、見開かれた。
「これは——複写紙だ」
昭和初期の探偵小説。
当時の技術。当時のトリック。
複写紙は——上から書くと、下に転写される。
「犯人は……証拠を隠したんじゃない」
葛原が、紙片を裏返した。
そこには——うっすらと、文字の痕跡があった。
「まだ、書かれていなかったんだ」
編集者の笑みが、消えた。
「……なるほど」
黒い影が、葛原を見据える。
その声から、余裕が消えていた。
「君——読めるのかい? その文字が」
「分からねぇよ」
葛原が、万年筆を握り直した。
「でも——読めなくても、書ける」
「何を——」
「じいちゃんの血が流れてるんだ」
葛原が、紙片に万年筆を当てた。
だが——インクが、出ない。
乾いている。
何十年も放置された万年筆。当然だ。
「……くそ」
葛原が、唇を噛んだ。
歯が食い込む。血の味が広がる。
——血。
葛原の目が、自分の指を見た。
探偵が言っていた。
「書いた者と書かれた者は、臍の緒で繋がっている」と。
なら——その血で書けば。
「葛原様……!」
朔の声が、聞こえた。
その声には——まだ震えがあった。
だが、空っぽだった目に、微かな光が戻っている。
「書きなさい」
「え……」
「あなたには、流れているはずです」
朔が、立ち上がろうとした。
膝が震えている。手も、まだ震えている。
それでも——立とうとしていた。
「物語を——完結させる血が」
葛原は、自分の指を噛んだ。
痛みが走る。熱い液体が、唇を濡らす。
——それを、万年筆の先に塗りつけた。
「ふざけるな」
編集者が、動いた。
黒い栞が、翻る。
「書かせるものか——!」
『削除——』
「グリム!」
朔が、叫んだ。
その声が——グリムの体を動かした。
考えるより先に。
痛みより先に。
ボロボロの自動人形が——跳んでいた。
「おう……! ザザザッ——!」
グリムが、編集者の前に立ちはだかる。
ヒビだらけの体。欠けた歯車。折れかけの腕。
それでも——笑っていた。
「悪ぃな。俺も——ゴミなもんで……ザッ」
「邪魔を——!」
「ゴミ同士、相性いいんだよ……!」
グリムが、編集者に掴みかかった。
陶器が砕ける音が響く。
「葛原——書け! ザザッ」
グリムの声が、闇に響いた。
「駄作でも何でも——お前が書くんだ!」
葛原の手が、紙片の上を走った。
血のインクが、文字を描いていく。
——何を書けばいい。分からない。
でも。
指が、勝手に動いた。
まるで——誰かに導かれるように。
臍の緒。
血の繋がり。
九十年の時を超えて——曾祖父の想いが、流れ込んでくる。
「犯人は——」
葛原が、呟いた。
血の文字が、紙片に刻まれていく。
その瞬間——探偵が、顔を上げた。
歯車の軋みが、ゆっくりと収まっていく。
狂っていた目に、正気の欠片が戻りかけている。
「……ああ」
探偵が、葛原を見た。
——その顔は、曾祖父と同じ顔だった。
「君、か」
探偵の声が、静かに響く。
まだ完全ではない。だが——確かに、そこにいた。
「続きを——」
探偵の手が、葛原の腕を掴んだ。
真鍮の指が、震えている。
「頼む」
その言葉が——葛原の心を、貫いた。
「——ッ」
「馬鹿な」
編集者の声が、初めて歪んだ。
「臍の緒が——繋がり直している……!?」
世界が、光に包まれ始めた。
ガス灯の消えた帝都は、完全な漆黒だった。
霧すらも凍りついたように動かない。肌を刺す冷気が、骨の髄まで染みてくる。
「久しぶりだね——朔」
声だけが、どこからともなく響く。
低く、柔らかく。寝物語を読み聞かせるような——あの声だ。
「……ようやく、姿を見せましたね」
朔の声には、僅かな震えがあった。
それを隠すように、銀縁のメガネを押し上げる。
「編集者」
「その呼び方は他人行儀だなぁ」
黒い影が、笑った。
形のない顔が、嗤っている。
「昔は違う呼び方をしてくれたじゃないか」
朔の肩が、わずかに跳ねた。
グリムは、壁にもたれたまま動けなかった。
ヒビだらけの体が軋む。歯車が足りない。
それ以上に——空気が、重い。
錆と機械油の匂いが、鼻の奥にこびりつく。
自動人形の体になってから、匂いの感じ方まで変わっていた。
「メガネ……」
小さく呼んだ。
だが朔は振り向かない。
その背中が、いつもと違う。
いつもは余裕ぶった皮肉屋の司書が——今は、針のように張り詰めていた。
「お前ら、知り合いなのかよ……ザッ」
グリムの問いに、編集者が答えた。
「知り合い? 違う違う。僕と朔は——」
黒い栞が、ゆらりと揺れる。
「——同じ墓場の住人だよ」
葛原は、息を殺していた。
石畳の冷たさが、膝を通して伝わってくる。
目の前で何が起きているのか、半分も理解できない。
分かるのは——あの黒い影が、とてつもなく危険だということだけ。
そして、探偵が。
曾祖父の分身である歯車男が、再び震え始めていた。
「犯……人……」
「おいおい」
編集者が、探偵に目を向けた。
——瞬間、探偵の体がびくりと強張る。
「まだ動くのかい、この人形は」
「やめ——」
朔が叫ぶより早く。
編集者の栞が、一閃した。
『没——「調査中」ステータスを削除』
朱色の文字が、黒く塗り潰されていく。
朔が書き込んだト書きが——消えた。
「あ……あああッ——!」
探偵が、頭を抱えて崩れ落ちる。
歯車が激しく回転し、蒸気が噴き出す。
「犯人は、犯人は、犯人は——!」
また、壊れた蓄音機に戻っていく。
「くっ……!」
朔が朱色のペンを構えた。
空中に文字を走らせる。
『ト書き——』
「無駄だよ」
編集者の声が、かぶさった。
黒い栞が翻る。
『修正案却下——この物語は、ここで終わる』
朔の朱色が、黒に飲まれる。
赤と黒がぶつかり合い——黒が、勝った。
「……ッ」
朔が膝をついた。
ペンを握る手が、細かく震えている。
「どうして」
編集者が、首を傾げた。
「どうして、僕の方が強いか分かる?」
「……」
「この物語には——もう作者がいないからだよ」
編集者の声が、甘く響く。
「創造主のいない物語は、編集者の意のまま」
黒い栞が、再び揺れた。
「お前は所詮——校正者に過ぎない」
グリムが、歯を食いしばった。
動かなければ。
朔を助けなければ。
だが、体が——動かない。
ヒビだらけの陶器の体。欠けた歯車。
戦う力が、残っていなかった。
「メガネ……! ザザッ」
叫ぶことしか、できない。
朔は、まだ膝をついたままだった。
顔が、見えない。黒髪が、表情を隠している。
「ねえ、朔」
編集者が、一歩近づいた。
「なぜ——そこまでして、駄作を守るんだい?」
「……何を」
「この本は、駄作だよ」
編集者の声が、優しく響く。
「未完成で、結末がなくて、誰にも読まれなかった」
「静粛に……願います」
朔の声が、低く響いた。
震えている。だが——まだ、折れてはいない。
「誰にも届かない物語を——永遠に彷徨わせる方が、残酷だと思わないかい?」
編集者が、腕を広げた。
「僕は——終わらせてあげているんだよ。駄作には、あるべき結末を」
「……慈悲、ですか」
朔が、顔を上げた。
唇が、薄く歪んでいる。
「随分と……傲慢な慈悲ですね」
「おや」
編集者の声に、僅かな驚きが混じった。
「まだ、毒を吐く元気があるんだ」
「司書ですから」
朔の声が、掠れていた。
だが、その目には——まだ、光があった。
「閲覧注意の本ほど、読みたがる人はいるものです」
空気が、張り詰めた。
グリムは、息を呑んだ。
いつものメガネだ。追い詰められても、皮肉を忘れない。
——でも。
「朔」
編集者が、親しげに名を呼んだ。
その声が、急に冷たくなる。
「お前は昔——自分の物語を、自ら墓場に送っただろう?」
「……やめてください」
「書けなかった。書ききれなかった。だから——」
「やめてください……!」
「——自分で『駄作だ』と断じて、捨てた」
朔の声が、掠れた。
さっきまでの毒舌が、嘘のように消えていた。
「お前は今、何をしている?」
編集者が、腕を広げた。
「駄作を守るフリをして——ただ延命しているだけじゃないか」
「違います……!」
「本当に?」
編集者の声が、柔らかく問う。
「お前が救った物語は——本当に、読者に届いているのかい?」
朔の手から、ペンが落ちた。
カラン、と乾いた音が、霧の中に消えていく。
「ほらね」
編集者が、笑った。
「お前は分かっているんだ。自分が——駄作の墓守に過ぎないことを」
グリムの中で、何かが弾けた。
「……てめぇ……ザッ」
ヒビだらけの体を、無理やり起こす。
歯車が軋む。陶器が割れかける。
だが、構うものか。
「メガネの何を——知ったような口きいてんだよ……! ザザッ」
「おや」
編集者が、グリムを見た。
「まだ動けるのかい、出来損ない」
「——ッ」
その言葉が、グリムの胸を貫いた。
出来損ない。
名前すらつけてもらえなかった、書きかけの原稿。
それが——自分だ。
「グリム」
朔の声が、聞こえた。
掠れた、小さな声。
「……来ないでください」
「なんで——」
「あいつの言う通りです」
朔が、ゆっくりと顔を上げた。
その目は——空っぽだった。
「私は、書けなかった」
「メガネ……」
「自分の物語を——自分で殺したんです」
朔の唇が、震えていた。
「だから——本を救う資格なんて、最初から」
「黙れよ」
グリムが、叫んだ。
「そんなの——今さら言うなよ……! ザッ」
陶器の体が軋む。ヒビが広がる。
それでも、グリムは立っていた。
「俺だって——名前すら貰えなかったゴミだ」
「グリム」
「結末もねぇ。誰にも覚えてもらえなかった」
グリムの声が、震えていた。
「でも——お前は、俺を見つけてくれたじゃねぇか」
朔の目が、わずかに揺れた。
「駄作でも何でも——お前は、俺を捨てなかっただろ……ザザッ」
葛原は、二人のやり取りを見ていた。
司書と、精霊。
二人とも——傷だらけだった。
体だけじゃない。
心が、ボロボロだった。
「……くそ」
葛原は、自分の手を見た。
何もできない。何も持っていない。
——本当に、そうか?
ふと、視線が動いた。
探偵が——歯車男が、まだ蹲っている。
その手には、黒く塗り潰された紙片。
そして——万年筆が、握られていた。
「……待てよ」
葛原の頭が、急速に回転し始めた。
編集者は言った。
「作者がいないから、編集者の意のままだ」と。
なら——作者がいれば、どうなる?
「俺は」
葛原が、一歩踏み出した。
石畳を蹴る足音が、霧の中に響く。
「俺は——葛原朋成の、曾孫だ」
編集者が、振り向いた。
「……へぇ」
黒い影が、葛原を見る。
品定めするような視線。
「創造主の血を引く者、か」
「そうだ」
葛原の声は、震えていた。
だが——足は、止まらなかった。
「この本は——じいちゃんの本だ」
「だから?」
「お前のもんじゃねぇ」
葛原が、探偵のそばに膝をついた。
狂ったように頭を抱える探偵——その手から、万年筆を取る。
「おいおい」
編集者が、笑った。
「何をする気だい? 君は——何も書けない人間だろう?」
その言葉が、葛原の胸を刺した。
書けない。
ずっと、書けなかった。
だから——逃げてきた。
「……ああ、そうだよ」
葛原が、万年筆を握りしめた。
「俺は——駄作しか書けねぇ」
「なら——」
「でも」
葛原が、黒く塗り潰された紙片を見た。
これは——証拠品だ。
犯人を特定できる、決定的な何か。
消されている。
いや——待て。
脳裏に、古い記憶が蘇った。
実家の押し入れ。埃っぽい段ボール箱。
曾祖父の遺品を整理したとき——薄い紙の束を見つけた。
母が言っていた。
「昔はこうやって、下に紙を敷いて写しを取ったのよ」
「……複写紙」
葛原の目が、見開かれた。
「これは——複写紙だ」
昭和初期の探偵小説。
当時の技術。当時のトリック。
複写紙は——上から書くと、下に転写される。
「犯人は……証拠を隠したんじゃない」
葛原が、紙片を裏返した。
そこには——うっすらと、文字の痕跡があった。
「まだ、書かれていなかったんだ」
編集者の笑みが、消えた。
「……なるほど」
黒い影が、葛原を見据える。
その声から、余裕が消えていた。
「君——読めるのかい? その文字が」
「分からねぇよ」
葛原が、万年筆を握り直した。
「でも——読めなくても、書ける」
「何を——」
「じいちゃんの血が流れてるんだ」
葛原が、紙片に万年筆を当てた。
だが——インクが、出ない。
乾いている。
何十年も放置された万年筆。当然だ。
「……くそ」
葛原が、唇を噛んだ。
歯が食い込む。血の味が広がる。
——血。
葛原の目が、自分の指を見た。
探偵が言っていた。
「書いた者と書かれた者は、臍の緒で繋がっている」と。
なら——その血で書けば。
「葛原様……!」
朔の声が、聞こえた。
その声には——まだ震えがあった。
だが、空っぽだった目に、微かな光が戻っている。
「書きなさい」
「え……」
「あなたには、流れているはずです」
朔が、立ち上がろうとした。
膝が震えている。手も、まだ震えている。
それでも——立とうとしていた。
「物語を——完結させる血が」
葛原は、自分の指を噛んだ。
痛みが走る。熱い液体が、唇を濡らす。
——それを、万年筆の先に塗りつけた。
「ふざけるな」
編集者が、動いた。
黒い栞が、翻る。
「書かせるものか——!」
『削除——』
「グリム!」
朔が、叫んだ。
その声が——グリムの体を動かした。
考えるより先に。
痛みより先に。
ボロボロの自動人形が——跳んでいた。
「おう……! ザザザッ——!」
グリムが、編集者の前に立ちはだかる。
ヒビだらけの体。欠けた歯車。折れかけの腕。
それでも——笑っていた。
「悪ぃな。俺も——ゴミなもんで……ザッ」
「邪魔を——!」
「ゴミ同士、相性いいんだよ……!」
グリムが、編集者に掴みかかった。
陶器が砕ける音が響く。
「葛原——書け! ザザッ」
グリムの声が、闇に響いた。
「駄作でも何でも——お前が書くんだ!」
葛原の手が、紙片の上を走った。
血のインクが、文字を描いていく。
——何を書けばいい。分からない。
でも。
指が、勝手に動いた。
まるで——誰かに導かれるように。
臍の緒。
血の繋がり。
九十年の時を超えて——曾祖父の想いが、流れ込んでくる。
「犯人は——」
葛原が、呟いた。
血の文字が、紙片に刻まれていく。
その瞬間——探偵が、顔を上げた。
歯車の軋みが、ゆっくりと収まっていく。
狂っていた目に、正気の欠片が戻りかけている。
「……ああ」
探偵が、葛原を見た。
——その顔は、曾祖父と同じ顔だった。
「君、か」
探偵の声が、静かに響く。
まだ完全ではない。だが——確かに、そこにいた。
「続きを——」
探偵の手が、葛原の腕を掴んだ。
真鍮の指が、震えている。
「頼む」
その言葉が——葛原の心を、貫いた。
「——ッ」
「馬鹿な」
編集者の声が、初めて歪んだ。
「臍の緒が——繋がり直している……!?」
世界が、光に包まれ始めた。
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無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
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