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第10話 歯車の鎮魂歌と、夜明けの珈琲
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血が、光になった。
葛原の指先から滴る血が、紙片の上で文字を描いていく。
震える手。かすれる息。それでも——ペンは止まらなかった。
「犯人は——」
言葉が、喉から絞り出される。
九十年の沈黙を破るように。
「——時代だ」
その瞬間、世界が白く染まった。
*
光の中で、文字が浮かび上がる。
『犯人は、時代の病だ。誰も悪くなかった』
葛原の血で書かれた一文。
それは——解決編の、最後の一行だった。
「……なん、だと」
編集者の声が、初めて揺らいだ。
黒い影が、後退る。
「犯人が——時代? そんな結末が——」
「ああ」
葛原が、顔を上げた。
血の滲んだ唇が、笑みを浮かべている。
「じいちゃんは——結核で死んだんだ」
光が、探偵を包んでいく。
歯車の軋みが、ゆっくりと収まっていく。
「探偵も、同じだ。機械の体——あれは病の暗喩だろ」
葛原の声が、静かに響いた。
「犯人なんて、最初からいなかったんだ」
*
探偵が——歯車男が、膝から崩れ落ちた。
真鍮の右腕が、音を立てて外れていく。
胸の時計の針が、止まる。
心臓のゼンマイが、静かに解けていく。
「……そうか」
探偵の声が、掠れていた。
狂気は消え、そこにはただ——疲れ果てた男の顔があった。
「私は、ずっと探していたのか」
「何を」
葛原が、探偵の目を見た。
——そこには、曾祖父と同じ瞳があった。
「……眠る理由を」
探偵の目から、涙がこぼれた。
機械ではない。人間の、熱い涙。
「犯人がいれば——憎めた。復讐すれば、眠れると思っていた」
「でも」
「いなかった。誰も——悪くなかった」
探偵が、両手で顔を覆った。
その背中が、子供のように丸まっている。
「私は……ただ、死ぬのが怖かっただけだ」
*
朔は、立ち上がっていた。
膝はまだ震えている。手も、まだ震えている。
それでも——立っていた。
「葛原様」
朔の声が、静かに響いた。
「あなたは——曾祖父殿の代わりに、結末を書きました」
「……俺は、ただ」
「それが、臍の緒です」
朔が、葛原と探偵を見つめた。
その目には——穏やかな光があった。
「血の繋がりが——物語を、完結させた」
*
拍手が、響いた。
ぱちり。ぱちり。ぱちり。
光の中で、黒い影が手を叩いている。
編集者だった。
「ブラボー」
その声には——怒りも、憎しみもなかった。
純粋な、感嘆の響き。
「血の繋がった代筆者か。……なるほど、そう来たか」
「……満足ですか」
朔が、編集者を睨んだ。
「満足かって?」
編集者が、肩をすくめた。
「——僕の負けだよ、今回は」
その言葉に、朔の目が見開かれた。
「臍の緒が繋がり直した以上——この物語には、もう作者がいる」
編集者の声が、どこか楽しげに響く。
「作者のいる物語に、編集者の権限は及ばない。……知ってるだろう、朔」
「……」
「だから——今回は、譲ってあげる」
黒い影が、霧に溶け始める。
「駄作だと思っていたけど——」
編集者の声が、遠ざかっていく。
「——凡作くらいには、なったかな」
*
グリムが、編集者の前に立ちはだかった。
ボロボロの自動人形。ヒビだらけの体。
それでも——睨みつけている。
「……てめぇ。逃げんのかよ」
「逃げる? 違うよ」
編集者の声が、笑っている。
「また来るさ。僕の仕事は——まだ終わっていないからね」
「なん——」
「ねえ、朔」
編集者が、朔を見た。
——いや、見ているふりをした。顔がないのだから。
「忘れないでね」
黒い栞が、霧の中に消えていく。
「お前の燃やした本も——いつか、結末を迎えに来るよ」
朔の顔が、強張った。
無意識に、胸元を押さえている。
——そこに、何かがあるかのように。
だが、声を出す前に——編集者は、消えていた。
*
世界が、崩れ始めた。
昭和初期の帝都が。霧が。ガス灯が。
すべてが、光の粒子になって溶けていく。
「メガネ!」
グリムが、朔のそばに駆け寄った。
——その体が、光に包まれている。
「役が——解けてく……ザザッ」
自動人形の体が、ヒビから光を放っていた。
陶器が砕け、歯車が消え——その奥から、パーカー姿の少年が現れる。
「……痛ってぇ」
グリムが、首を回した。
傷は——消えていた。
「よかった」
朔の声が、掠れていた。
「……無事で」
「おう。お前こそ——大丈夫かよ」
「ええ」
朔が、薄く笑った。
——その顔は、いつもより少しだけ疲れていた。
「多少の校正ミスは——ありましたが」
*
探偵が、立ち上がった。
機械の体は、すべて消えていた。
そこには——二十代の、やせた青年がいた。
「君」
探偵が——いや、もう探偵ではなかった。
葛原朋成の分身が、葛原櫂を見つめていた。
「……ありがとう」
「じいちゃん……」
「違う。私は——彼の作った人形に過ぎない」
青年が、首を振った。
だが、その目は優しかった。
「でも——彼の想いは、分かる」
「……想い?」
「ああ」
青年が、葛原の肩に手を置いた。
——その手は、もう揺れていなかった。
「彼は——ずっと、悔やんでいた」
「何を」
「書ききれなかったことを」
青年の目が、遠くを見た。
「病に倒れる前——彼はこう言っていた。『誰かが、続きを書いてくれたら』と」
葛原の目が、見開かれた。
「九十年かかったが——君が、その『誰か』になってくれた」
「俺が……」
「だから——伝えてくれ」
青年の体が、光に溶け始めた。
「もう——眠っていいんだと」
「待てよ。消えるのか——」
「物語は、完結した」
青年が、笑おうとした。
——だが、その唇が、わずかに震えた。
「まだ……少し、怖い」
「……じいちゃん」
「九十年、ずっと怖かった。消えることが」
青年の目に、涙が浮かんだ。
「だが——」
それでも、笑った。
「君がいてくれたから——もう、大丈夫だ」
「じいちゃん……!」
「違う、と言ったろう」
青年の輪郭が、ぼやけていく。
「でも——君が呼んでくれるなら、それでいい」
最後に、声だけが残った。
「——続きを、頼んだよ」
光が、弾けた。
そこには——もう、誰もいなかった。
*
気がつくと——図書館にいた。
無限に続く書架。薄暗い照明。古書の匂い。
黄昏迷宮図書館の、いつもの光景。
「……帰って来た」
葛原が、呆然と呟いた。
指には——まだ、血の跡が残っている。
「お怪我を」
朔が、ポケットからハンカチを取り出した。
——白いハンカチ。銀の刺繍入り。
「これで、応急処置を」
「あ、ああ……」
葛原が、ぼんやりとハンカチを受け取った。
その目は——まだ、どこか遠くを見ていた。
*
グリムが、大きく伸びをした。
「っかー! 終わった終わった!」
「騒がしいですね」
「いいだろ別に。疲れたんだよ」
「静粛に願います」
朔が、いつもの口癖を呟いた。
——だが、その声には、どこか安堵が混じっていた。
「……ん」
グリムが、朔を見た。
「なんだよ」
「いえ」
朔が、メガネを押し上げた。
「お疲れ様でした——と、言おうと思いまして」
「……は?」
グリムが、目を丸くした。
「お前、熱でもあんの?」
「失礼な」
朔の唇が、わずかに緩んだ。
「たまには——労う言葉くらい、言いますよ」
*
葛原が、手を見つめていた。
包帯を巻いた指。血の染み。
——その手で、自分は書いたのだ。
「葛原様」
朔が、一冊の本を差し出した。
『歯車男の憂鬱』
——もう、ボロボロではなかった。
背表紙は真っ直ぐで、ページは揃っている。
ただし——厚みが、少しだけ増していた。
「……これ」
「修復完了です」
朔が、静かに言った。
「結末は——あなたが、書きました」
葛原の指が、背表紙をなぞった。
本を受け取る。ずしりとした重み。
「俺が……」
「ええ」
朔が、頷いた。
「曾祖父殿の物語に——あなたの血が、加わりました」
「……俺の、血」
「臍の緒です」
朔が、薄く笑った。
「物語は——受け継がれるものですから」
*
葛原が、本を胸に抱いた。
長い沈黙。
そして——顔を上げた。
「俺」
「はい」
「もう一度——書いてみるよ」
朔の目が、わずかに見開かれた。
「今度は、じいちゃんの真似じゃなく」
葛原が、笑った。
——憑き物が落ちたような、晴れやかな笑み。
「自分の言葉で——自分の物語を」
「……そうですか」
朔が、静かに頷いた。
「それは——良い決断だと思います」
「思うだけかよ」
「ええ。私は司書ですから」
朔が、メガネを押し上げた。
「書くかどうかを決めるのは——いつも、書き手自身です」
*
葛原が、出口へ向かった。
振り返る。
朔とグリムが、並んで立っている。
「……あの」
「はい」
「また——来ていいか」
朔が、わずかに首を傾げた。
「何かお探しの本でも?」
「いや」
葛原が、頭を掻いた。
「書けたら——見せに来ようかなって」
「……ほう」
朔の唇が、かすかに緩んだ。
「それは——楽しみにしておきます」
「駄作でも?」
「閲覧注意の本ほど——」
朔が、静かに言った。
「——読みたがる人は、いるものです」
葛原が、笑った。
そして——扉の向こうへ、消えていった。
*
静寂が、戻った。
無限の書架。薄暗い照明。
コーヒーと古書の香り。
「……帰ったな」
グリムが、ソファに座り込んだ。
「ええ」
朔が、カウンターの奥へ歩いていく。
「コーヒーでも淹れましょうか」
「お、いいね」
グリムが、両手を頭の後ろで組んだ。
「……なあ、メガネ」
「何ですか」
「話——してくれるんだよな」
朔の手が、一瞬だけ止まった。
「約束しただろ。『後で話す』って」
「……」
「あいつが言ってたこと」
グリムの声が、静かになった。
「『燃やした本』って——何のことだ」
*
コーヒーの香りが、図書館に広がっていく。
朔は、二つのカップを持って戻ってきた。
一つをグリムに渡し、自分も腰を下ろす。
長い沈黙。
コーヒーを啜る音だけが、響いている。
「……昔」
朔が、口を開いた。
カップを持つ指が、わずかに白くなっている。
「一冊だけ——書いたことがあります」
「本を?」
「ええ」
朔が、カップの中を見つめた。
黒い液面に、自分の顔が映っている。
「自分自身の——物語を」
グリムは、黙って聞いていた。
「でも」
朔の声が、途切れた。
メガネを外し、目頭を押さえる。
「……書き上げて、読み返して」
「……」
「——吐きそうになりました」
その言葉は、絞り出すようだった。
「だから——捨てました」
「捨てた?」
「燃やしたんです」
朔が、メガネをかけ直した。
——その指先が、かすかに揺れていた。
「自分で」
*
グリムは、何も言わなかった。
ただ——黙って、コーヒーを啜っていた。
「それ以来——私は、書けなくなりました」
朔の声が、静かに続く。
「自分の物語を書く資格など——ないと思った」
「……」
「だから——他人の物語を、守ることにした」
朔が、図書館を見渡した。
「ここにある本は——すべて、誰かの想いです」
「ああ」
「私は——それを守る。誤字を直し、破損を修復し」
朔の唇が、わずかに歪んだ。
「——駄作の墓守として」
*
グリムが、コーヒーを置いた。
「ふーん」
その声は——いつも通りだった。
「それで?」
「……それで、とは」
「だから——それがどうしたんだよ」
朔が、顔を上げた。
グリムは——いつもの顔をしていた。
生意気で、無遠慮で、どこか間抜けな顔。
「お前、燃やしたんだろ? 自分の本」
「……ええ」
「で——俺を見つけたんだろ」
「……」
「名前もねぇ、結末もねぇ、誰にも読まれなかったゴミを」
グリムが、にやりと笑った。
「お前は——そのゴミを、捨てなかっただろ」
朔の目が、わずかに揺れた。
「グリム……」
「だから——いいんじゃねぇの」
グリムが、立ち上がった。
ソファの背に手をついて、朔を見下ろす。
「お前が書けねぇってんなら——俺がやってやるよ」
「何を——」
「お前の話」
グリムが、にやりと笑った。
「面白くしてやる。——俺が、主役でな」
「……」
「バーカ。燃やしたくらいで消えるかよ」
グリムが、自分の胸を叩いた。
「俺を見ろ。書きかけで捨てられても——ここにいるだろ」
*
朔は、何も言えなかった。
ただ——カップを持つ手が、小刻みに揺れていた。
「……まったく」
ようやく、声が出た。
掠れて、少しだけ湿っている。
「相変わらず——無茶苦茶なことを言いますね」
「うるせぇ」
グリムが、ソファに座り直した。
「で、このコーヒー——お前の味、分かんのか」
「……分かりませんよ」
朔が、苦笑した。
「いつも通り——何も感じません」
「じゃあ——俺が教えてやる」
グリムが、カップを持ち上げた。
「苦ぇ」
「……それだけですか」
「でも——悪くねぇ」
グリムが、にやりと笑った。
「ゴミみてぇに苦いけど——まあ、飲めるよ」
*
朔は、小さく笑った。
いつもの毒舌は、出てこなかった。
代わりに——ただ、静かに笑っていた。
「……そうですか」
「ああ」
「なら——良かった」
二人の間に、沈黙が流れた。
——でも、それは心地よい沈黙だった。
無限の書架。薄暗い照明。
コーヒーと古書の香り。
深夜のような静けさの中で。
司書と精霊は——ただ、並んで座っていた。
*
ふと、朔が立ち上がった。
「さて」
「ん?」
「そろそろ——店を開けましょうか」
グリムが、時計を見た。
——深夜零時を、少し過ぎていた。
「また客が来るかもな」
「ええ」
朔が、カウンターに向かった。
「閲覧注意の本を——抱えた客が」
銀縁のメガネが、薄暗い照明を反射する。
その唇が——いつもの、慇懃無礼な笑みを浮かべた。
「黄昏迷宮図書館は——いつでも、お待ちしております」
グリムが、肩をすくめた。
「へいへい」
立ち上がり、伸びをする。
「——わーってるよ、旦那」
静寂が、二人を包んだ。
深夜零時の図書館。
物語の墓守と、名前のない精霊。
彼らの夜は——まだ、続いていく。
葛原の指先から滴る血が、紙片の上で文字を描いていく。
震える手。かすれる息。それでも——ペンは止まらなかった。
「犯人は——」
言葉が、喉から絞り出される。
九十年の沈黙を破るように。
「——時代だ」
その瞬間、世界が白く染まった。
*
光の中で、文字が浮かび上がる。
『犯人は、時代の病だ。誰も悪くなかった』
葛原の血で書かれた一文。
それは——解決編の、最後の一行だった。
「……なん、だと」
編集者の声が、初めて揺らいだ。
黒い影が、後退る。
「犯人が——時代? そんな結末が——」
「ああ」
葛原が、顔を上げた。
血の滲んだ唇が、笑みを浮かべている。
「じいちゃんは——結核で死んだんだ」
光が、探偵を包んでいく。
歯車の軋みが、ゆっくりと収まっていく。
「探偵も、同じだ。機械の体——あれは病の暗喩だろ」
葛原の声が、静かに響いた。
「犯人なんて、最初からいなかったんだ」
*
探偵が——歯車男が、膝から崩れ落ちた。
真鍮の右腕が、音を立てて外れていく。
胸の時計の針が、止まる。
心臓のゼンマイが、静かに解けていく。
「……そうか」
探偵の声が、掠れていた。
狂気は消え、そこにはただ——疲れ果てた男の顔があった。
「私は、ずっと探していたのか」
「何を」
葛原が、探偵の目を見た。
——そこには、曾祖父と同じ瞳があった。
「……眠る理由を」
探偵の目から、涙がこぼれた。
機械ではない。人間の、熱い涙。
「犯人がいれば——憎めた。復讐すれば、眠れると思っていた」
「でも」
「いなかった。誰も——悪くなかった」
探偵が、両手で顔を覆った。
その背中が、子供のように丸まっている。
「私は……ただ、死ぬのが怖かっただけだ」
*
朔は、立ち上がっていた。
膝はまだ震えている。手も、まだ震えている。
それでも——立っていた。
「葛原様」
朔の声が、静かに響いた。
「あなたは——曾祖父殿の代わりに、結末を書きました」
「……俺は、ただ」
「それが、臍の緒です」
朔が、葛原と探偵を見つめた。
その目には——穏やかな光があった。
「血の繋がりが——物語を、完結させた」
*
拍手が、響いた。
ぱちり。ぱちり。ぱちり。
光の中で、黒い影が手を叩いている。
編集者だった。
「ブラボー」
その声には——怒りも、憎しみもなかった。
純粋な、感嘆の響き。
「血の繋がった代筆者か。……なるほど、そう来たか」
「……満足ですか」
朔が、編集者を睨んだ。
「満足かって?」
編集者が、肩をすくめた。
「——僕の負けだよ、今回は」
その言葉に、朔の目が見開かれた。
「臍の緒が繋がり直した以上——この物語には、もう作者がいる」
編集者の声が、どこか楽しげに響く。
「作者のいる物語に、編集者の権限は及ばない。……知ってるだろう、朔」
「……」
「だから——今回は、譲ってあげる」
黒い影が、霧に溶け始める。
「駄作だと思っていたけど——」
編集者の声が、遠ざかっていく。
「——凡作くらいには、なったかな」
*
グリムが、編集者の前に立ちはだかった。
ボロボロの自動人形。ヒビだらけの体。
それでも——睨みつけている。
「……てめぇ。逃げんのかよ」
「逃げる? 違うよ」
編集者の声が、笑っている。
「また来るさ。僕の仕事は——まだ終わっていないからね」
「なん——」
「ねえ、朔」
編集者が、朔を見た。
——いや、見ているふりをした。顔がないのだから。
「忘れないでね」
黒い栞が、霧の中に消えていく。
「お前の燃やした本も——いつか、結末を迎えに来るよ」
朔の顔が、強張った。
無意識に、胸元を押さえている。
——そこに、何かがあるかのように。
だが、声を出す前に——編集者は、消えていた。
*
世界が、崩れ始めた。
昭和初期の帝都が。霧が。ガス灯が。
すべてが、光の粒子になって溶けていく。
「メガネ!」
グリムが、朔のそばに駆け寄った。
——その体が、光に包まれている。
「役が——解けてく……ザザッ」
自動人形の体が、ヒビから光を放っていた。
陶器が砕け、歯車が消え——その奥から、パーカー姿の少年が現れる。
「……痛ってぇ」
グリムが、首を回した。
傷は——消えていた。
「よかった」
朔の声が、掠れていた。
「……無事で」
「おう。お前こそ——大丈夫かよ」
「ええ」
朔が、薄く笑った。
——その顔は、いつもより少しだけ疲れていた。
「多少の校正ミスは——ありましたが」
*
探偵が、立ち上がった。
機械の体は、すべて消えていた。
そこには——二十代の、やせた青年がいた。
「君」
探偵が——いや、もう探偵ではなかった。
葛原朋成の分身が、葛原櫂を見つめていた。
「……ありがとう」
「じいちゃん……」
「違う。私は——彼の作った人形に過ぎない」
青年が、首を振った。
だが、その目は優しかった。
「でも——彼の想いは、分かる」
「……想い?」
「ああ」
青年が、葛原の肩に手を置いた。
——その手は、もう揺れていなかった。
「彼は——ずっと、悔やんでいた」
「何を」
「書ききれなかったことを」
青年の目が、遠くを見た。
「病に倒れる前——彼はこう言っていた。『誰かが、続きを書いてくれたら』と」
葛原の目が、見開かれた。
「九十年かかったが——君が、その『誰か』になってくれた」
「俺が……」
「だから——伝えてくれ」
青年の体が、光に溶け始めた。
「もう——眠っていいんだと」
「待てよ。消えるのか——」
「物語は、完結した」
青年が、笑おうとした。
——だが、その唇が、わずかに震えた。
「まだ……少し、怖い」
「……じいちゃん」
「九十年、ずっと怖かった。消えることが」
青年の目に、涙が浮かんだ。
「だが——」
それでも、笑った。
「君がいてくれたから——もう、大丈夫だ」
「じいちゃん……!」
「違う、と言ったろう」
青年の輪郭が、ぼやけていく。
「でも——君が呼んでくれるなら、それでいい」
最後に、声だけが残った。
「——続きを、頼んだよ」
光が、弾けた。
そこには——もう、誰もいなかった。
*
気がつくと——図書館にいた。
無限に続く書架。薄暗い照明。古書の匂い。
黄昏迷宮図書館の、いつもの光景。
「……帰って来た」
葛原が、呆然と呟いた。
指には——まだ、血の跡が残っている。
「お怪我を」
朔が、ポケットからハンカチを取り出した。
——白いハンカチ。銀の刺繍入り。
「これで、応急処置を」
「あ、ああ……」
葛原が、ぼんやりとハンカチを受け取った。
その目は——まだ、どこか遠くを見ていた。
*
グリムが、大きく伸びをした。
「っかー! 終わった終わった!」
「騒がしいですね」
「いいだろ別に。疲れたんだよ」
「静粛に願います」
朔が、いつもの口癖を呟いた。
——だが、その声には、どこか安堵が混じっていた。
「……ん」
グリムが、朔を見た。
「なんだよ」
「いえ」
朔が、メガネを押し上げた。
「お疲れ様でした——と、言おうと思いまして」
「……は?」
グリムが、目を丸くした。
「お前、熱でもあんの?」
「失礼な」
朔の唇が、わずかに緩んだ。
「たまには——労う言葉くらい、言いますよ」
*
葛原が、手を見つめていた。
包帯を巻いた指。血の染み。
——その手で、自分は書いたのだ。
「葛原様」
朔が、一冊の本を差し出した。
『歯車男の憂鬱』
——もう、ボロボロではなかった。
背表紙は真っ直ぐで、ページは揃っている。
ただし——厚みが、少しだけ増していた。
「……これ」
「修復完了です」
朔が、静かに言った。
「結末は——あなたが、書きました」
葛原の指が、背表紙をなぞった。
本を受け取る。ずしりとした重み。
「俺が……」
「ええ」
朔が、頷いた。
「曾祖父殿の物語に——あなたの血が、加わりました」
「……俺の、血」
「臍の緒です」
朔が、薄く笑った。
「物語は——受け継がれるものですから」
*
葛原が、本を胸に抱いた。
長い沈黙。
そして——顔を上げた。
「俺」
「はい」
「もう一度——書いてみるよ」
朔の目が、わずかに見開かれた。
「今度は、じいちゃんの真似じゃなく」
葛原が、笑った。
——憑き物が落ちたような、晴れやかな笑み。
「自分の言葉で——自分の物語を」
「……そうですか」
朔が、静かに頷いた。
「それは——良い決断だと思います」
「思うだけかよ」
「ええ。私は司書ですから」
朔が、メガネを押し上げた。
「書くかどうかを決めるのは——いつも、書き手自身です」
*
葛原が、出口へ向かった。
振り返る。
朔とグリムが、並んで立っている。
「……あの」
「はい」
「また——来ていいか」
朔が、わずかに首を傾げた。
「何かお探しの本でも?」
「いや」
葛原が、頭を掻いた。
「書けたら——見せに来ようかなって」
「……ほう」
朔の唇が、かすかに緩んだ。
「それは——楽しみにしておきます」
「駄作でも?」
「閲覧注意の本ほど——」
朔が、静かに言った。
「——読みたがる人は、いるものです」
葛原が、笑った。
そして——扉の向こうへ、消えていった。
*
静寂が、戻った。
無限の書架。薄暗い照明。
コーヒーと古書の香り。
「……帰ったな」
グリムが、ソファに座り込んだ。
「ええ」
朔が、カウンターの奥へ歩いていく。
「コーヒーでも淹れましょうか」
「お、いいね」
グリムが、両手を頭の後ろで組んだ。
「……なあ、メガネ」
「何ですか」
「話——してくれるんだよな」
朔の手が、一瞬だけ止まった。
「約束しただろ。『後で話す』って」
「……」
「あいつが言ってたこと」
グリムの声が、静かになった。
「『燃やした本』って——何のことだ」
*
コーヒーの香りが、図書館に広がっていく。
朔は、二つのカップを持って戻ってきた。
一つをグリムに渡し、自分も腰を下ろす。
長い沈黙。
コーヒーを啜る音だけが、響いている。
「……昔」
朔が、口を開いた。
カップを持つ指が、わずかに白くなっている。
「一冊だけ——書いたことがあります」
「本を?」
「ええ」
朔が、カップの中を見つめた。
黒い液面に、自分の顔が映っている。
「自分自身の——物語を」
グリムは、黙って聞いていた。
「でも」
朔の声が、途切れた。
メガネを外し、目頭を押さえる。
「……書き上げて、読み返して」
「……」
「——吐きそうになりました」
その言葉は、絞り出すようだった。
「だから——捨てました」
「捨てた?」
「燃やしたんです」
朔が、メガネをかけ直した。
——その指先が、かすかに揺れていた。
「自分で」
*
グリムは、何も言わなかった。
ただ——黙って、コーヒーを啜っていた。
「それ以来——私は、書けなくなりました」
朔の声が、静かに続く。
「自分の物語を書く資格など——ないと思った」
「……」
「だから——他人の物語を、守ることにした」
朔が、図書館を見渡した。
「ここにある本は——すべて、誰かの想いです」
「ああ」
「私は——それを守る。誤字を直し、破損を修復し」
朔の唇が、わずかに歪んだ。
「——駄作の墓守として」
*
グリムが、コーヒーを置いた。
「ふーん」
その声は——いつも通りだった。
「それで?」
「……それで、とは」
「だから——それがどうしたんだよ」
朔が、顔を上げた。
グリムは——いつもの顔をしていた。
生意気で、無遠慮で、どこか間抜けな顔。
「お前、燃やしたんだろ? 自分の本」
「……ええ」
「で——俺を見つけたんだろ」
「……」
「名前もねぇ、結末もねぇ、誰にも読まれなかったゴミを」
グリムが、にやりと笑った。
「お前は——そのゴミを、捨てなかっただろ」
朔の目が、わずかに揺れた。
「グリム……」
「だから——いいんじゃねぇの」
グリムが、立ち上がった。
ソファの背に手をついて、朔を見下ろす。
「お前が書けねぇってんなら——俺がやってやるよ」
「何を——」
「お前の話」
グリムが、にやりと笑った。
「面白くしてやる。——俺が、主役でな」
「……」
「バーカ。燃やしたくらいで消えるかよ」
グリムが、自分の胸を叩いた。
「俺を見ろ。書きかけで捨てられても——ここにいるだろ」
*
朔は、何も言えなかった。
ただ——カップを持つ手が、小刻みに揺れていた。
「……まったく」
ようやく、声が出た。
掠れて、少しだけ湿っている。
「相変わらず——無茶苦茶なことを言いますね」
「うるせぇ」
グリムが、ソファに座り直した。
「で、このコーヒー——お前の味、分かんのか」
「……分かりませんよ」
朔が、苦笑した。
「いつも通り——何も感じません」
「じゃあ——俺が教えてやる」
グリムが、カップを持ち上げた。
「苦ぇ」
「……それだけですか」
「でも——悪くねぇ」
グリムが、にやりと笑った。
「ゴミみてぇに苦いけど——まあ、飲めるよ」
*
朔は、小さく笑った。
いつもの毒舌は、出てこなかった。
代わりに——ただ、静かに笑っていた。
「……そうですか」
「ああ」
「なら——良かった」
二人の間に、沈黙が流れた。
——でも、それは心地よい沈黙だった。
無限の書架。薄暗い照明。
コーヒーと古書の香り。
深夜のような静けさの中で。
司書と精霊は——ただ、並んで座っていた。
*
ふと、朔が立ち上がった。
「さて」
「ん?」
「そろそろ——店を開けましょうか」
グリムが、時計を見た。
——深夜零時を、少し過ぎていた。
「また客が来るかもな」
「ええ」
朔が、カウンターに向かった。
「閲覧注意の本を——抱えた客が」
銀縁のメガネが、薄暗い照明を反射する。
その唇が——いつもの、慇懃無礼な笑みを浮かべた。
「黄昏迷宮図書館は——いつでも、お待ちしております」
グリムが、肩をすくめた。
「へいへい」
立ち上がり、伸びをする。
「——わーってるよ、旦那」
静寂が、二人を包んだ。
深夜零時の図書館。
物語の墓守と、名前のない精霊。
彼らの夜は——まだ、続いていく。
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