その結末、書き換えます。 ~黄昏迷宮図書館の「物語」修復記録~

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第11話 雨の匂いと、死にたがりの花嫁

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 カビの匂いがした。

 朔がミルを回す手を、止めた。
 コーヒー豆の香ばしさに混じって、別の何かが漂っている。
 古畳が腐ったような。押し入れの奥で忘れられた布団のような。
 じっとりと、鼻腔にまとわりつく湿気。

「おいメガネ」

 グリムが鼻をつまんでいた。

「掃除サボったか? 部屋中が湿気臭ぇぞ」

「失礼な」

 朔は湿度計に目をやった。
 針は、いつもと変わらない数値を指している。

「物理的な湿気ではありませんね」

「は? じゃあ何だよ、この臭い」

 朔は、メガネを押し上げた。

「誰かが持ち込んだ『涙』の匂いです」

          *

 扉が、開いた。

 音もなく。風もなく。
 ただ、水の匂いだけが流れ込んでくる。

「いらっしゃい」

 グリムが振り向いた。
 その声には、いつものぶっきらぼうさがない。
 あの夜を越えてから、どこか角が取れていた。

 だが、言葉は途切れた。

「なん、だ」

 入口に立っていたのは、老婦人だった。
 八十代か。白髪を丁寧に結い上げ、和装の上品な佇まい。
 しかし。

 ずぶ濡れだった。

 着物の裾から、水が滴っている。
 髪から、雫が落ちている。
 足元には、小さな水溜まりができていく。

「お客様」

 朔が、すぐにタオルを差し出した。

「お体が冷えてしまいます。どうぞ、こちらを」

 だが、老婦人は反応しなかった。
 差し出されたタオルを見ていない。
 朔の顔も、見ていない。

 その瞳は、濁っていた。
 白く。深く。底の見えない池のように。

「約束なんです」

 老婦人が、呟いた。

「あの人が、橋のたもとで待っているから」

 その声は、少女のように甘かった。

          *

 グリムが、朔の袖を引いた。

 言葉はない。だが、視線が問いかけている。

 朔は、小さく頷いた。
 分かっている、と。
 そして、老婦人の前に膝をついた。

「お客様。お名前を、伺ってもよろしいでしょうか」

「静子」

 老婦人が、ふわりと笑った。

水川みずかわ静子。でも、もうすぐ変わるの」

「変わる?」

「ええ」

 静子は、胸に抱えた風呂敷包みを撫でた。

「あの人の、名字になるから」

          *

 朔の目が、細くなった。

 認知の歪み。
 物語と現実の境界が、溶解している。

 八十代の老婦人が「もうすぐ名字が変わる」と言う。
 それが意味するのは、二つに一つ。

 再婚か。
 あるいは。

「静子様」

 朔は、穏やかに問いかけた。

「その『あの人』とは、どなたですか」

「知りたい?」

 静子が、いたずらっぽく笑った。
 皺だらけの顔が、一瞬だけ少女に見えた。

「内緒よ。だって、恥ずかしいもの」

「そうですか」

 朔は、立ち上がった。

 グリムが、黙ってコーヒーを淹れ始めている。
 指示はしていない。だが、察していた。

 阿吽の呼吸。
 二人の間に、言葉は要らなくなっていた。

          *

 静子は、ソファに腰を下ろした。

 濡れた着物が、革張りのソファを濡らしていく。
 だが、朔は何も言わなかった。

「温かいものをどうぞ」

 グリムが、カップを差し出した。

「あら、ありがとう。優しいお孫さんね」

「孫?」

 グリムの眉が、ぴくりと動いた。

「俺、そんな若く見えるかよ」

「グリム」

 朔が、静かに制した。

「お客様の目には、そう映っているのでしょう」

 グリムは、何か言いかけて、やめた。
 代わりに、朔の隣に立った。

          *

 静子は、コーヒーには手をつけなかった。

 代わりに、風呂敷包みを膝の上に置いた。
 結び目を、丁寧にほどいていく。

「見せてあげる」

 その声は、宝物を見せる子供のようだった。

「私の、大切な人」

 風呂敷が、開かれた。

 中から現れたのは、一冊の和装本だった。
 古い。昭和の、手仕事の残る装丁。
 背表紙には、かすれた金文字。

 『朱椿水葬あけつばきすいそう

「これは」

 朔の声が、わずかに硬くなった。

「失礼。拝見しても?」

「ええ、どうぞ」

 静子が、本を差し出した。
 そして、小さく呟いた。

「この子を、お願いね」

 何を願っているのか。静子自身にも分かっていないようだった。
 ただ、その声には切実さがあった。

 その瞬間、朔の鼻腔を腐臭が突いた。

          *

 本は、濡れていた。

 表紙を触ると、ぬるりと指が滑る。
 ページを開くと、ぽたり、ぽたりと水滴が落ちた。

「うわっ」

 グリムが、後ずさった。

「なんだその水! 汚ねぇ!」

「静粛に」

 朔は、手袋をはめた。
 白い手袋が、すぐに水を吸って灰色に染まる。

「インクではありませんね」

 朔は、指先を見つめた。

「長年流し続けた涙です」

「涙? 本が泣いてんのか?」

「いいえ」

 朔は、静子を見た。

「彼女が、泣かせたのでしょう」

          *

 ページを、めくった。

 文字は、ほとんど読めなかった。
 黒カビがびっしりと生え、紙を侵食している。
 かろうじて読めるのは、断片的な単語だけ。

 死ね。

 来い。

 愛してる。

「ひっ」

 グリムが、喉を鳴らした。

「おい、これ、やべぇだろ」

「ええ」

 朔の声は、平坦だった。

「極めて重篤な汚染状態ですね」

 だが、その指先は。かすかに、震えていた。

          *

 静子が、本を覗き込んだ。

「ああ、かおるさん」

 その声は、恋する乙女のものだった。

「やっぱり、お迎えに来てくれたのね」

「静子様」

 朔が、本を閉じた。

「この本について、詳しくお聞かせ願えますか」

「これ?」

 静子が、首を傾げた。

「私が書いたの。ずっと昔に」

 朔の目が、見開かれた。

「あなたが?」

「ええ」

 静子は、うっとりと目を閉じた。

「薫さんは、私が生み出した人なの」

          *

 沈黙が、落ちた。

 グリムが、朔を見た。
 朔は、動かなかった。

 自分が書いた物語のキャラクターを、愛している。

 朔の指が、本の上で止まった。

「素敵な人よ」

 静子の声が、夢見るように響く。

「優しくて、誠実で、いつも私を守ってくれる」

 朔は、答えなかった。

「でもね、この本には続きがないの」

 静子の瞳が、朔を見た。
 いや、見ていなかった。
 見ているのは、朔の向こう側にいる誰か。

「だから、私が行くの」

「どこへ」

「薫さんのところへ」

 静子が、微笑んだ。

「本の中へ」

          *

 その瞬間。本から、水が溢れた。

 ぼたぼたと。ぬるぬると。
 床に広がった水は、黒く濁っている。

「なっ」

 グリムが飛び退いた。

「おい、水が! 床が!」

 水溜まりが、広がっていく。
 図書館の床が、夜の川に変わっていく。
 黒い水面に、薄暗い照明が揺れている。

「静粛に」

 朔が、静子の前に立った。

「静子様。その水には、近づかないでください」

「どうして?」

 静子が、不思議そうに首を傾げた。

「薫さんが、待っているのに」

 水面から、手が伸びた。

          *

 蒼白い手だった。

 指が長く、爪が黒い。
 水の中から、ぬるりと這い出てくる。

 一本。二本。三本。
 無数の手が、水面を割って伸びてくる。

「うわあああ!」

 グリムが叫んだ。
 ソファの背を飛び越え、カウンターの陰に隠れる。

「な、なんだこれ! 気持ち悪ぃ! 寄んな、寄んなよ!」

 パーカーの袖を必死に引っ張っている。
 濡れた床を踏んでしまったらしい。

「うげぇ、靴が! ぬるぬるしやがる!」

 手が、静子の足首を掴んだ。
 ひんやりとした感触。ぬめりのある肌。
 静子は、微笑んだ。

「ああ、薫さん」

「静子様!」

 朔が、静子の腕を掴もうとした。

 だが、静子は身を引いた。
 穏やかに。優雅に。
 まるで、ダンスのステップを踏むように。

「邪魔しないで」

 その声は、優しかった。

「やっと、会えるのだから」

          *

 水面から、顔が浮かび上がった。

 青年の顔。
 端正な輪郭。整った鼻筋。
 しかし、目がなかった。

 眼窩には、黒い穴が空いている。
 底の見えない、深淵のような穴。

「薫さん」

 静子が、手を伸ばした。

「お迎えに来てくれたのね」

 青年の口が、開いた。
 声はない。ただ、水が溢れ出る。
 黒く、生暖かく、腐った臭いのする水が。

「おいババア!」

 グリムが叫んだ。

「その水から離れろ! 引きずり込まれるぞ!」

 だが、朔は動かなかった。

 冷徹に。静かに。
 その光景を、観察していた。

          *

「グリム」

 朔の声が、低く響いた。

「引きずり込まれるのではありません」

「は?」

「彼女は、自ら飛び込もうとしている」

 グリムの顔が、強張った。

「自分から?」

「ええ」

 朔は、静子を見た。
 彼女の顔には、恐怖がなかった。
 あるのは、幸福だけ。

「認知症で、現実の記憶が薄れていく」

 朔の声は、淡々としていた。

「家族の顔も、自分の名前も、忘れていく」

 グリムは、黙って聞いていた。

「でも、物語の中の恋人だけは。鮮明に、覚えている」

 朔の目が、わずかに揺れた。

「彼女にとって、本の中こそが『現実』なんです」

          *

 静子が、水の中に足を踏み入れた。

 ちゃぷん、と小さな音がした。
 黒い水が、彼女の足首を呑み込んでいく。

「薫さん」

 静子の声は、幸せに満ちていた。

「ずっと、待っていたのね」

 青年の手が、静子の手を取った。
 指が絡み合う。水滴が散る。
 まるで、結婚式のように。

「今回の依頼は」

 朔が、呟いた。

「『修復』ではありません」

 グリムが、朔を見た。

「じゃあ、何だよ」

埋葬まいそうです」

 その言葉を発した瞬間。朔の手が、無意識に胸元を押さえていた。

 そこには、何もないはずだった。
 燃やしたはずだった。
 自分の手で、灰にしたはずだった。

 お前の燃やした本も、いつか結末を迎えに来るよ。

 編集者の声が、脳裏に蘇った。

          *

 静子が、振り返った。

 膝まで水に浸かりながら。
 少女のような笑顔を浮かべながら。

「ねえ、司書さん」

「はい」

「あなたは、本を大切にする人ね」

 朔は、答えなかった。

「私もよ。ずっと、大切にしてきた」

 静子の声が、遠くなる。

「でもね、昔は違ったの」

 朔の呼吸が、止まった。

「若い頃、一度だけ。自分の書いたものを、捨てようとしたことがあるの」

 静子の目が、一瞬だけ正気に戻った。

「燃やしてしまおうと思った。恥ずかしくて、情けなくて」

 朔は、答えられなかった。

 ただ、胸元を押さえる手に、力が入った。

          *

 静子が、再び水の中へ向き直った。

「さようなら、司書さん」

 その声は、穏やかだった。

「私は、幸せになりに行くの」

 水面が、静子を呑み込んでいく。
 膝から腰へ。腰から胸へ。

「待てよ!」

 グリムが、叫んだ。

「助けなくていいのかよ、メガネ!」

 朔の足は、床に縫い付けられたように動かなかった。

「おい! 聞いてんのか!」

 それでも、朔は立ち尽くしていた。

 静子の顔が、水面の下に消えていく。
 最後まで、笑っていた。
 幸福に。満足げに。

 まるで、花嫁のように。

          *

 水が、引いた。

 黒い水溜まりは、煙のように消えていく。
 後に残ったのは、濡れた床と、一冊の本だけ。

 『朱椿水葬』

 ぽたり、ぽたりと、水滴が落ち続けている。

「消えた」

 グリムが、呆然と呟いた。

「あのババア、消えちまった」

「いいえ」

 朔が、本を拾い上げた。

「消えたのではありません。本の中に、もぐったのです」

「潜書? 自分で? そんなことできんのかよ」

「通常は、できません」

 朔は、本を見つめた。

「ですが、彼女は作者です。物語との臍の緒へそのおが、今も繋がっている」

「臍の緒。あの探偵んときも言ってたな」

 グリムが、呟いた。

「作者と作品の繋がりは、それほど強い」

 朔の声は、どこか苦いものを含んでいた。

「物語に、心中しに行ったのでしょう」

          *

 沈黙が、図書館を満たした。

 コーヒーの香りは、もう感じられない。
 あるのは、カビの臭いと、水の匂いだけ。

「メガネ」

 グリムが、朔の顔を覗き込んだ。

「大丈夫か」

「何がですか」

「さっき、胸押さえてただろ」

 朔の指が、ぴくりと動いた。

「気のせいでしょう」

「嘘つくなよ」

 グリムの声は、責めるようではなかった。
 ただ、静かに問いかけていた。

「あの婆さんが言ってたこと。『燃やした』って」

 朔は、答えなかった。

「お前のことだろ」

          *

 沈黙が、答えだった。

 朔は、代わりに本を開いた。
 ぐしょぐしょのページ。カビの臭い。
 断片的に残る言葉たち。

「静子様は」

 朔の声は、平坦だった。

「自分の生み出したキャラクターを、愛していました」

「ああ」

「認知症で、現実が溶けていく中で」

 朔は、本を閉じた。

「物語の中の恋人だけが、鮮明に残った」

 グリムは、黙って聞いていた。

「それは、幸福なのか、悲劇なのか」

 朔の唇が、わずかに歪んだ。

「私には、分かりません」

          *

 グリムが、朔の隣に立った。

「で、どうすんだよ」

「どう、とは」

「あのババア。助けに行くのか、行かないのか」

 朔は、本を見つめた。

 長い沈黙。

「助ける、という表現は正確ではありませんね」

「じゃあ何だよ」

「彼女は、『助けてほしい』とは言っていません」

 グリムの眉が、寄った。

「でも、死にに行ったんだろ?」

「ええ」

「じゃあ」

「彼女にとって、それは『死』ではないのです」

 朔が、グリムを見た。

「『結婚式』なのですよ」

          *

 グリムは、黙った。

 しばらく、何かを考えていた。
 そして、口を開いた。

「俺は」

「はい」

「助けに行くべきだと思う」

 朔の目が、わずかに動いた。

「理由を、聞いても?」

「簡単だろ」

 グリムが、にやりと笑った。

「本人が望んでなくても。見殺しにしたら、後味悪ぃじゃん」

 朔は、答えなかった。

「それに」

 グリムの声が、少し真剣になった。

「お前、気になってんだろ。あの婆さんのこと」

「私が?」

「だって、同じだもんな」

 グリムが、朔を見た。

「自分の書いた物語を、殺そうとした奴」

          *

 朔は、何も言わなかった。

 ただ、本を見つめていた。
 ぐしょぐしょの、カビだらけの本を。

「そうですね」

 ようやく、声が出た。

「彼女を止める権利が、私にあるかどうか。分かりません」

「権利とか、そういう話じゃねぇだろ」

「では、何の話ですか」

「決まってんだろ」

 グリムが、朔の肩を叩いた。

「仕事だよ、仕事」

          *

 朔は、小さく笑った。

 いつもの毒舌は、出てこなかった。
 代わりに、静かな笑みが浮かんでいた。

「そうですね」

「ああ」

「仕事、ですね」

 朔は、ペンを取り出した。
 使い込まれた朱色のペン。

「静子様の依頼は『埋葬』でした」

「うん」

「ならば、埋葬する前に確認しなければなりません」

 朔の目が、鋭くなった。

「本当に、その墓に入りたいのかどうかを」

          *

 朔は、本の表紙に手を置いた。

「グリム」

「おう」

「今回の潜書は、少し厄介かもしれません」

「分かってる」

 グリムが、首を鳴らした。

「水とカビだろ? 最悪だな」

「ええ」

 朔が、ペンを構えた。

「では、参りましょうか」

 朱色のインクが、表紙に染み込んでいく。
 文字が浮かび上がる。

 潜書せんしょ

 床が、溶けた。
 黒い水が、二人を呑み込んでいく。

 カビの臭い。腐った水の感触。
 そして、遠くから聞こえる女の笑い声。

 幸福に満ちた、狂気の笑い声。
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