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第11話 雨の匂いと、死にたがりの花嫁
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カビの匂いがした。
朔がミルを回す手を、止めた。
コーヒー豆の香ばしさに混じって、別の何かが漂っている。
古畳が腐ったような。押し入れの奥で忘れられた布団のような。
じっとりと、鼻腔にまとわりつく湿気。
「おいメガネ」
グリムが鼻をつまんでいた。
「掃除サボったか? 部屋中が湿気臭ぇぞ」
「失礼な」
朔は湿度計に目をやった。
針は、いつもと変わらない数値を指している。
「物理的な湿気ではありませんね」
「は? じゃあ何だよ、この臭い」
朔は、メガネを押し上げた。
「誰かが持ち込んだ『涙』の匂いです」
*
扉が、開いた。
音もなく。風もなく。
ただ、水の匂いだけが流れ込んでくる。
「いらっしゃい」
グリムが振り向いた。
その声には、いつものぶっきらぼうさがない。
あの夜を越えてから、どこか角が取れていた。
だが、言葉は途切れた。
「なん、だ」
入口に立っていたのは、老婦人だった。
八十代か。白髪を丁寧に結い上げ、和装の上品な佇まい。
しかし。
ずぶ濡れだった。
着物の裾から、水が滴っている。
髪から、雫が落ちている。
足元には、小さな水溜まりができていく。
「お客様」
朔が、すぐにタオルを差し出した。
「お体が冷えてしまいます。どうぞ、こちらを」
だが、老婦人は反応しなかった。
差し出されたタオルを見ていない。
朔の顔も、見ていない。
その瞳は、濁っていた。
白く。深く。底の見えない池のように。
「約束なんです」
老婦人が、呟いた。
「あの人が、橋のたもとで待っているから」
その声は、少女のように甘かった。
*
グリムが、朔の袖を引いた。
言葉はない。だが、視線が問いかけている。
朔は、小さく頷いた。
分かっている、と。
そして、老婦人の前に膝をついた。
「お客様。お名前を、伺ってもよろしいでしょうか」
「静子」
老婦人が、ふわりと笑った。
「水川静子。でも、もうすぐ変わるの」
「変わる?」
「ええ」
静子は、胸に抱えた風呂敷包みを撫でた。
「あの人の、名字になるから」
*
朔の目が、細くなった。
認知の歪み。
物語と現実の境界が、溶解している。
八十代の老婦人が「もうすぐ名字が変わる」と言う。
それが意味するのは、二つに一つ。
再婚か。
あるいは。
「静子様」
朔は、穏やかに問いかけた。
「その『あの人』とは、どなたですか」
「知りたい?」
静子が、いたずらっぽく笑った。
皺だらけの顔が、一瞬だけ少女に見えた。
「内緒よ。だって、恥ずかしいもの」
「そうですか」
朔は、立ち上がった。
グリムが、黙ってコーヒーを淹れ始めている。
指示はしていない。だが、察していた。
阿吽の呼吸。
二人の間に、言葉は要らなくなっていた。
*
静子は、ソファに腰を下ろした。
濡れた着物が、革張りのソファを濡らしていく。
だが、朔は何も言わなかった。
「温かいものをどうぞ」
グリムが、カップを差し出した。
「あら、ありがとう。優しいお孫さんね」
「孫?」
グリムの眉が、ぴくりと動いた。
「俺、そんな若く見えるかよ」
「グリム」
朔が、静かに制した。
「お客様の目には、そう映っているのでしょう」
グリムは、何か言いかけて、やめた。
代わりに、朔の隣に立った。
*
静子は、コーヒーには手をつけなかった。
代わりに、風呂敷包みを膝の上に置いた。
結び目を、丁寧にほどいていく。
「見せてあげる」
その声は、宝物を見せる子供のようだった。
「私の、大切な人」
風呂敷が、開かれた。
中から現れたのは、一冊の和装本だった。
古い。昭和の、手仕事の残る装丁。
背表紙には、かすれた金文字。
『朱椿水葬』
「これは」
朔の声が、わずかに硬くなった。
「失礼。拝見しても?」
「ええ、どうぞ」
静子が、本を差し出した。
そして、小さく呟いた。
「この子を、お願いね」
何を願っているのか。静子自身にも分かっていないようだった。
ただ、その声には切実さがあった。
その瞬間、朔の鼻腔を腐臭が突いた。
*
本は、濡れていた。
表紙を触ると、ぬるりと指が滑る。
ページを開くと、ぽたり、ぽたりと水滴が落ちた。
「うわっ」
グリムが、後ずさった。
「なんだその水! 汚ねぇ!」
「静粛に」
朔は、手袋をはめた。
白い手袋が、すぐに水を吸って灰色に染まる。
「インクではありませんね」
朔は、指先を見つめた。
「長年流し続けた涙です」
「涙? 本が泣いてんのか?」
「いいえ」
朔は、静子を見た。
「彼女が、泣かせたのでしょう」
*
ページを、めくった。
文字は、ほとんど読めなかった。
黒カビがびっしりと生え、紙を侵食している。
かろうじて読めるのは、断片的な単語だけ。
死ね。
来い。
愛してる。
「ひっ」
グリムが、喉を鳴らした。
「おい、これ、やべぇだろ」
「ええ」
朔の声は、平坦だった。
「極めて重篤な汚染状態ですね」
だが、その指先は。かすかに、震えていた。
*
静子が、本を覗き込んだ。
「ああ、薫さん」
その声は、恋する乙女のものだった。
「やっぱり、お迎えに来てくれたのね」
「静子様」
朔が、本を閉じた。
「この本について、詳しくお聞かせ願えますか」
「これ?」
静子が、首を傾げた。
「私が書いたの。ずっと昔に」
朔の目が、見開かれた。
「あなたが?」
「ええ」
静子は、うっとりと目を閉じた。
「薫さんは、私が生み出した人なの」
*
沈黙が、落ちた。
グリムが、朔を見た。
朔は、動かなかった。
自分が書いた物語のキャラクターを、愛している。
朔の指が、本の上で止まった。
「素敵な人よ」
静子の声が、夢見るように響く。
「優しくて、誠実で、いつも私を守ってくれる」
朔は、答えなかった。
「でもね、この本には続きがないの」
静子の瞳が、朔を見た。
いや、見ていなかった。
見ているのは、朔の向こう側にいる誰か。
「だから、私が行くの」
「どこへ」
「薫さんのところへ」
静子が、微笑んだ。
「本の中へ」
*
その瞬間。本から、水が溢れた。
ぼたぼたと。ぬるぬると。
床に広がった水は、黒く濁っている。
「なっ」
グリムが飛び退いた。
「おい、水が! 床が!」
水溜まりが、広がっていく。
図書館の床が、夜の川に変わっていく。
黒い水面に、薄暗い照明が揺れている。
「静粛に」
朔が、静子の前に立った。
「静子様。その水には、近づかないでください」
「どうして?」
静子が、不思議そうに首を傾げた。
「薫さんが、待っているのに」
水面から、手が伸びた。
*
蒼白い手だった。
指が長く、爪が黒い。
水の中から、ぬるりと這い出てくる。
一本。二本。三本。
無数の手が、水面を割って伸びてくる。
「うわあああ!」
グリムが叫んだ。
ソファの背を飛び越え、カウンターの陰に隠れる。
「な、なんだこれ! 気持ち悪ぃ! 寄んな、寄んなよ!」
パーカーの袖を必死に引っ張っている。
濡れた床を踏んでしまったらしい。
「うげぇ、靴が! ぬるぬるしやがる!」
手が、静子の足首を掴んだ。
ひんやりとした感触。ぬめりのある肌。
静子は、微笑んだ。
「ああ、薫さん」
「静子様!」
朔が、静子の腕を掴もうとした。
だが、静子は身を引いた。
穏やかに。優雅に。
まるで、ダンスのステップを踏むように。
「邪魔しないで」
その声は、優しかった。
「やっと、会えるのだから」
*
水面から、顔が浮かび上がった。
青年の顔。
端正な輪郭。整った鼻筋。
しかし、目がなかった。
眼窩には、黒い穴が空いている。
底の見えない、深淵のような穴。
「薫さん」
静子が、手を伸ばした。
「お迎えに来てくれたのね」
青年の口が、開いた。
声はない。ただ、水が溢れ出る。
黒く、生暖かく、腐った臭いのする水が。
「おいババア!」
グリムが叫んだ。
「その水から離れろ! 引きずり込まれるぞ!」
だが、朔は動かなかった。
冷徹に。静かに。
その光景を、観察していた。
*
「グリム」
朔の声が、低く響いた。
「引きずり込まれるのではありません」
「は?」
「彼女は、自ら飛び込もうとしている」
グリムの顔が、強張った。
「自分から?」
「ええ」
朔は、静子を見た。
彼女の顔には、恐怖がなかった。
あるのは、幸福だけ。
「認知症で、現実の記憶が薄れていく」
朔の声は、淡々としていた。
「家族の顔も、自分の名前も、忘れていく」
グリムは、黙って聞いていた。
「でも、物語の中の恋人だけは。鮮明に、覚えている」
朔の目が、わずかに揺れた。
「彼女にとって、本の中こそが『現実』なんです」
*
静子が、水の中に足を踏み入れた。
ちゃぷん、と小さな音がした。
黒い水が、彼女の足首を呑み込んでいく。
「薫さん」
静子の声は、幸せに満ちていた。
「ずっと、待っていたのね」
青年の手が、静子の手を取った。
指が絡み合う。水滴が散る。
まるで、結婚式のように。
「今回の依頼は」
朔が、呟いた。
「『修復』ではありません」
グリムが、朔を見た。
「じゃあ、何だよ」
「埋葬です」
その言葉を発した瞬間。朔の手が、無意識に胸元を押さえていた。
そこには、何もないはずだった。
燃やしたはずだった。
自分の手で、灰にしたはずだった。
お前の燃やした本も、いつか結末を迎えに来るよ。
編集者の声が、脳裏に蘇った。
*
静子が、振り返った。
膝まで水に浸かりながら。
少女のような笑顔を浮かべながら。
「ねえ、司書さん」
「はい」
「あなたは、本を大切にする人ね」
朔は、答えなかった。
「私もよ。ずっと、大切にしてきた」
静子の声が、遠くなる。
「でもね、昔は違ったの」
朔の呼吸が、止まった。
「若い頃、一度だけ。自分の書いたものを、捨てようとしたことがあるの」
静子の目が、一瞬だけ正気に戻った。
「燃やしてしまおうと思った。恥ずかしくて、情けなくて」
朔は、答えられなかった。
ただ、胸元を押さえる手に、力が入った。
*
静子が、再び水の中へ向き直った。
「さようなら、司書さん」
その声は、穏やかだった。
「私は、幸せになりに行くの」
水面が、静子を呑み込んでいく。
膝から腰へ。腰から胸へ。
「待てよ!」
グリムが、叫んだ。
「助けなくていいのかよ、メガネ!」
朔の足は、床に縫い付けられたように動かなかった。
「おい! 聞いてんのか!」
それでも、朔は立ち尽くしていた。
静子の顔が、水面の下に消えていく。
最後まで、笑っていた。
幸福に。満足げに。
まるで、花嫁のように。
*
水が、引いた。
黒い水溜まりは、煙のように消えていく。
後に残ったのは、濡れた床と、一冊の本だけ。
『朱椿水葬』
ぽたり、ぽたりと、水滴が落ち続けている。
「消えた」
グリムが、呆然と呟いた。
「あのババア、消えちまった」
「いいえ」
朔が、本を拾い上げた。
「消えたのではありません。本の中に、潜ったのです」
「潜書? 自分で? そんなことできんのかよ」
「通常は、できません」
朔は、本を見つめた。
「ですが、彼女は作者です。物語との臍の緒が、今も繋がっている」
「臍の緒。あの探偵んときも言ってたな」
グリムが、呟いた。
「作者と作品の繋がりは、それほど強い」
朔の声は、どこか苦いものを含んでいた。
「物語に、心中しに行ったのでしょう」
*
沈黙が、図書館を満たした。
コーヒーの香りは、もう感じられない。
あるのは、カビの臭いと、水の匂いだけ。
「メガネ」
グリムが、朔の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か」
「何がですか」
「さっき、胸押さえてただろ」
朔の指が、ぴくりと動いた。
「気のせいでしょう」
「嘘つくなよ」
グリムの声は、責めるようではなかった。
ただ、静かに問いかけていた。
「あの婆さんが言ってたこと。『燃やした』って」
朔は、答えなかった。
「お前のことだろ」
*
沈黙が、答えだった。
朔は、代わりに本を開いた。
ぐしょぐしょのページ。カビの臭い。
断片的に残る言葉たち。
「静子様は」
朔の声は、平坦だった。
「自分の生み出したキャラクターを、愛していました」
「ああ」
「認知症で、現実が溶けていく中で」
朔は、本を閉じた。
「物語の中の恋人だけが、鮮明に残った」
グリムは、黙って聞いていた。
「それは、幸福なのか、悲劇なのか」
朔の唇が、わずかに歪んだ。
「私には、分かりません」
*
グリムが、朔の隣に立った。
「で、どうすんだよ」
「どう、とは」
「あのババア。助けに行くのか、行かないのか」
朔は、本を見つめた。
長い沈黙。
「助ける、という表現は正確ではありませんね」
「じゃあ何だよ」
「彼女は、『助けてほしい』とは言っていません」
グリムの眉が、寄った。
「でも、死にに行ったんだろ?」
「ええ」
「じゃあ」
「彼女にとって、それは『死』ではないのです」
朔が、グリムを見た。
「『結婚式』なのですよ」
*
グリムは、黙った。
しばらく、何かを考えていた。
そして、口を開いた。
「俺は」
「はい」
「助けに行くべきだと思う」
朔の目が、わずかに動いた。
「理由を、聞いても?」
「簡単だろ」
グリムが、にやりと笑った。
「本人が望んでなくても。見殺しにしたら、後味悪ぃじゃん」
朔は、答えなかった。
「それに」
グリムの声が、少し真剣になった。
「お前、気になってんだろ。あの婆さんのこと」
「私が?」
「だって、同じだもんな」
グリムが、朔を見た。
「自分の書いた物語を、殺そうとした奴」
*
朔は、何も言わなかった。
ただ、本を見つめていた。
ぐしょぐしょの、カビだらけの本を。
「そうですね」
ようやく、声が出た。
「彼女を止める権利が、私にあるかどうか。分かりません」
「権利とか、そういう話じゃねぇだろ」
「では、何の話ですか」
「決まってんだろ」
グリムが、朔の肩を叩いた。
「仕事だよ、仕事」
*
朔は、小さく笑った。
いつもの毒舌は、出てこなかった。
代わりに、静かな笑みが浮かんでいた。
「そうですね」
「ああ」
「仕事、ですね」
朔は、ペンを取り出した。
使い込まれた朱色のペン。
「静子様の依頼は『埋葬』でした」
「うん」
「ならば、埋葬する前に確認しなければなりません」
朔の目が、鋭くなった。
「本当に、その墓に入りたいのかどうかを」
*
朔は、本の表紙に手を置いた。
「グリム」
「おう」
「今回の潜書は、少し厄介かもしれません」
「分かってる」
グリムが、首を鳴らした。
「水とカビだろ? 最悪だな」
「ええ」
朔が、ペンを構えた。
「では、参りましょうか」
朱色のインクが、表紙に染み込んでいく。
文字が浮かび上がる。
潜書
床が、溶けた。
黒い水が、二人を呑み込んでいく。
カビの臭い。腐った水の感触。
そして、遠くから聞こえる女の笑い声。
幸福に満ちた、狂気の笑い声。
朔がミルを回す手を、止めた。
コーヒー豆の香ばしさに混じって、別の何かが漂っている。
古畳が腐ったような。押し入れの奥で忘れられた布団のような。
じっとりと、鼻腔にまとわりつく湿気。
「おいメガネ」
グリムが鼻をつまんでいた。
「掃除サボったか? 部屋中が湿気臭ぇぞ」
「失礼な」
朔は湿度計に目をやった。
針は、いつもと変わらない数値を指している。
「物理的な湿気ではありませんね」
「は? じゃあ何だよ、この臭い」
朔は、メガネを押し上げた。
「誰かが持ち込んだ『涙』の匂いです」
*
扉が、開いた。
音もなく。風もなく。
ただ、水の匂いだけが流れ込んでくる。
「いらっしゃい」
グリムが振り向いた。
その声には、いつものぶっきらぼうさがない。
あの夜を越えてから、どこか角が取れていた。
だが、言葉は途切れた。
「なん、だ」
入口に立っていたのは、老婦人だった。
八十代か。白髪を丁寧に結い上げ、和装の上品な佇まい。
しかし。
ずぶ濡れだった。
着物の裾から、水が滴っている。
髪から、雫が落ちている。
足元には、小さな水溜まりができていく。
「お客様」
朔が、すぐにタオルを差し出した。
「お体が冷えてしまいます。どうぞ、こちらを」
だが、老婦人は反応しなかった。
差し出されたタオルを見ていない。
朔の顔も、見ていない。
その瞳は、濁っていた。
白く。深く。底の見えない池のように。
「約束なんです」
老婦人が、呟いた。
「あの人が、橋のたもとで待っているから」
その声は、少女のように甘かった。
*
グリムが、朔の袖を引いた。
言葉はない。だが、視線が問いかけている。
朔は、小さく頷いた。
分かっている、と。
そして、老婦人の前に膝をついた。
「お客様。お名前を、伺ってもよろしいでしょうか」
「静子」
老婦人が、ふわりと笑った。
「水川静子。でも、もうすぐ変わるの」
「変わる?」
「ええ」
静子は、胸に抱えた風呂敷包みを撫でた。
「あの人の、名字になるから」
*
朔の目が、細くなった。
認知の歪み。
物語と現実の境界が、溶解している。
八十代の老婦人が「もうすぐ名字が変わる」と言う。
それが意味するのは、二つに一つ。
再婚か。
あるいは。
「静子様」
朔は、穏やかに問いかけた。
「その『あの人』とは、どなたですか」
「知りたい?」
静子が、いたずらっぽく笑った。
皺だらけの顔が、一瞬だけ少女に見えた。
「内緒よ。だって、恥ずかしいもの」
「そうですか」
朔は、立ち上がった。
グリムが、黙ってコーヒーを淹れ始めている。
指示はしていない。だが、察していた。
阿吽の呼吸。
二人の間に、言葉は要らなくなっていた。
*
静子は、ソファに腰を下ろした。
濡れた着物が、革張りのソファを濡らしていく。
だが、朔は何も言わなかった。
「温かいものをどうぞ」
グリムが、カップを差し出した。
「あら、ありがとう。優しいお孫さんね」
「孫?」
グリムの眉が、ぴくりと動いた。
「俺、そんな若く見えるかよ」
「グリム」
朔が、静かに制した。
「お客様の目には、そう映っているのでしょう」
グリムは、何か言いかけて、やめた。
代わりに、朔の隣に立った。
*
静子は、コーヒーには手をつけなかった。
代わりに、風呂敷包みを膝の上に置いた。
結び目を、丁寧にほどいていく。
「見せてあげる」
その声は、宝物を見せる子供のようだった。
「私の、大切な人」
風呂敷が、開かれた。
中から現れたのは、一冊の和装本だった。
古い。昭和の、手仕事の残る装丁。
背表紙には、かすれた金文字。
『朱椿水葬』
「これは」
朔の声が、わずかに硬くなった。
「失礼。拝見しても?」
「ええ、どうぞ」
静子が、本を差し出した。
そして、小さく呟いた。
「この子を、お願いね」
何を願っているのか。静子自身にも分かっていないようだった。
ただ、その声には切実さがあった。
その瞬間、朔の鼻腔を腐臭が突いた。
*
本は、濡れていた。
表紙を触ると、ぬるりと指が滑る。
ページを開くと、ぽたり、ぽたりと水滴が落ちた。
「うわっ」
グリムが、後ずさった。
「なんだその水! 汚ねぇ!」
「静粛に」
朔は、手袋をはめた。
白い手袋が、すぐに水を吸って灰色に染まる。
「インクではありませんね」
朔は、指先を見つめた。
「長年流し続けた涙です」
「涙? 本が泣いてんのか?」
「いいえ」
朔は、静子を見た。
「彼女が、泣かせたのでしょう」
*
ページを、めくった。
文字は、ほとんど読めなかった。
黒カビがびっしりと生え、紙を侵食している。
かろうじて読めるのは、断片的な単語だけ。
死ね。
来い。
愛してる。
「ひっ」
グリムが、喉を鳴らした。
「おい、これ、やべぇだろ」
「ええ」
朔の声は、平坦だった。
「極めて重篤な汚染状態ですね」
だが、その指先は。かすかに、震えていた。
*
静子が、本を覗き込んだ。
「ああ、薫さん」
その声は、恋する乙女のものだった。
「やっぱり、お迎えに来てくれたのね」
「静子様」
朔が、本を閉じた。
「この本について、詳しくお聞かせ願えますか」
「これ?」
静子が、首を傾げた。
「私が書いたの。ずっと昔に」
朔の目が、見開かれた。
「あなたが?」
「ええ」
静子は、うっとりと目を閉じた。
「薫さんは、私が生み出した人なの」
*
沈黙が、落ちた。
グリムが、朔を見た。
朔は、動かなかった。
自分が書いた物語のキャラクターを、愛している。
朔の指が、本の上で止まった。
「素敵な人よ」
静子の声が、夢見るように響く。
「優しくて、誠実で、いつも私を守ってくれる」
朔は、答えなかった。
「でもね、この本には続きがないの」
静子の瞳が、朔を見た。
いや、見ていなかった。
見ているのは、朔の向こう側にいる誰か。
「だから、私が行くの」
「どこへ」
「薫さんのところへ」
静子が、微笑んだ。
「本の中へ」
*
その瞬間。本から、水が溢れた。
ぼたぼたと。ぬるぬると。
床に広がった水は、黒く濁っている。
「なっ」
グリムが飛び退いた。
「おい、水が! 床が!」
水溜まりが、広がっていく。
図書館の床が、夜の川に変わっていく。
黒い水面に、薄暗い照明が揺れている。
「静粛に」
朔が、静子の前に立った。
「静子様。その水には、近づかないでください」
「どうして?」
静子が、不思議そうに首を傾げた。
「薫さんが、待っているのに」
水面から、手が伸びた。
*
蒼白い手だった。
指が長く、爪が黒い。
水の中から、ぬるりと這い出てくる。
一本。二本。三本。
無数の手が、水面を割って伸びてくる。
「うわあああ!」
グリムが叫んだ。
ソファの背を飛び越え、カウンターの陰に隠れる。
「な、なんだこれ! 気持ち悪ぃ! 寄んな、寄んなよ!」
パーカーの袖を必死に引っ張っている。
濡れた床を踏んでしまったらしい。
「うげぇ、靴が! ぬるぬるしやがる!」
手が、静子の足首を掴んだ。
ひんやりとした感触。ぬめりのある肌。
静子は、微笑んだ。
「ああ、薫さん」
「静子様!」
朔が、静子の腕を掴もうとした。
だが、静子は身を引いた。
穏やかに。優雅に。
まるで、ダンスのステップを踏むように。
「邪魔しないで」
その声は、優しかった。
「やっと、会えるのだから」
*
水面から、顔が浮かび上がった。
青年の顔。
端正な輪郭。整った鼻筋。
しかし、目がなかった。
眼窩には、黒い穴が空いている。
底の見えない、深淵のような穴。
「薫さん」
静子が、手を伸ばした。
「お迎えに来てくれたのね」
青年の口が、開いた。
声はない。ただ、水が溢れ出る。
黒く、生暖かく、腐った臭いのする水が。
「おいババア!」
グリムが叫んだ。
「その水から離れろ! 引きずり込まれるぞ!」
だが、朔は動かなかった。
冷徹に。静かに。
その光景を、観察していた。
*
「グリム」
朔の声が、低く響いた。
「引きずり込まれるのではありません」
「は?」
「彼女は、自ら飛び込もうとしている」
グリムの顔が、強張った。
「自分から?」
「ええ」
朔は、静子を見た。
彼女の顔には、恐怖がなかった。
あるのは、幸福だけ。
「認知症で、現実の記憶が薄れていく」
朔の声は、淡々としていた。
「家族の顔も、自分の名前も、忘れていく」
グリムは、黙って聞いていた。
「でも、物語の中の恋人だけは。鮮明に、覚えている」
朔の目が、わずかに揺れた。
「彼女にとって、本の中こそが『現実』なんです」
*
静子が、水の中に足を踏み入れた。
ちゃぷん、と小さな音がした。
黒い水が、彼女の足首を呑み込んでいく。
「薫さん」
静子の声は、幸せに満ちていた。
「ずっと、待っていたのね」
青年の手が、静子の手を取った。
指が絡み合う。水滴が散る。
まるで、結婚式のように。
「今回の依頼は」
朔が、呟いた。
「『修復』ではありません」
グリムが、朔を見た。
「じゃあ、何だよ」
「埋葬です」
その言葉を発した瞬間。朔の手が、無意識に胸元を押さえていた。
そこには、何もないはずだった。
燃やしたはずだった。
自分の手で、灰にしたはずだった。
お前の燃やした本も、いつか結末を迎えに来るよ。
編集者の声が、脳裏に蘇った。
*
静子が、振り返った。
膝まで水に浸かりながら。
少女のような笑顔を浮かべながら。
「ねえ、司書さん」
「はい」
「あなたは、本を大切にする人ね」
朔は、答えなかった。
「私もよ。ずっと、大切にしてきた」
静子の声が、遠くなる。
「でもね、昔は違ったの」
朔の呼吸が、止まった。
「若い頃、一度だけ。自分の書いたものを、捨てようとしたことがあるの」
静子の目が、一瞬だけ正気に戻った。
「燃やしてしまおうと思った。恥ずかしくて、情けなくて」
朔は、答えられなかった。
ただ、胸元を押さえる手に、力が入った。
*
静子が、再び水の中へ向き直った。
「さようなら、司書さん」
その声は、穏やかだった。
「私は、幸せになりに行くの」
水面が、静子を呑み込んでいく。
膝から腰へ。腰から胸へ。
「待てよ!」
グリムが、叫んだ。
「助けなくていいのかよ、メガネ!」
朔の足は、床に縫い付けられたように動かなかった。
「おい! 聞いてんのか!」
それでも、朔は立ち尽くしていた。
静子の顔が、水面の下に消えていく。
最後まで、笑っていた。
幸福に。満足げに。
まるで、花嫁のように。
*
水が、引いた。
黒い水溜まりは、煙のように消えていく。
後に残ったのは、濡れた床と、一冊の本だけ。
『朱椿水葬』
ぽたり、ぽたりと、水滴が落ち続けている。
「消えた」
グリムが、呆然と呟いた。
「あのババア、消えちまった」
「いいえ」
朔が、本を拾い上げた。
「消えたのではありません。本の中に、潜ったのです」
「潜書? 自分で? そんなことできんのかよ」
「通常は、できません」
朔は、本を見つめた。
「ですが、彼女は作者です。物語との臍の緒が、今も繋がっている」
「臍の緒。あの探偵んときも言ってたな」
グリムが、呟いた。
「作者と作品の繋がりは、それほど強い」
朔の声は、どこか苦いものを含んでいた。
「物語に、心中しに行ったのでしょう」
*
沈黙が、図書館を満たした。
コーヒーの香りは、もう感じられない。
あるのは、カビの臭いと、水の匂いだけ。
「メガネ」
グリムが、朔の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か」
「何がですか」
「さっき、胸押さえてただろ」
朔の指が、ぴくりと動いた。
「気のせいでしょう」
「嘘つくなよ」
グリムの声は、責めるようではなかった。
ただ、静かに問いかけていた。
「あの婆さんが言ってたこと。『燃やした』って」
朔は、答えなかった。
「お前のことだろ」
*
沈黙が、答えだった。
朔は、代わりに本を開いた。
ぐしょぐしょのページ。カビの臭い。
断片的に残る言葉たち。
「静子様は」
朔の声は、平坦だった。
「自分の生み出したキャラクターを、愛していました」
「ああ」
「認知症で、現実が溶けていく中で」
朔は、本を閉じた。
「物語の中の恋人だけが、鮮明に残った」
グリムは、黙って聞いていた。
「それは、幸福なのか、悲劇なのか」
朔の唇が、わずかに歪んだ。
「私には、分かりません」
*
グリムが、朔の隣に立った。
「で、どうすんだよ」
「どう、とは」
「あのババア。助けに行くのか、行かないのか」
朔は、本を見つめた。
長い沈黙。
「助ける、という表現は正確ではありませんね」
「じゃあ何だよ」
「彼女は、『助けてほしい』とは言っていません」
グリムの眉が、寄った。
「でも、死にに行ったんだろ?」
「ええ」
「じゃあ」
「彼女にとって、それは『死』ではないのです」
朔が、グリムを見た。
「『結婚式』なのですよ」
*
グリムは、黙った。
しばらく、何かを考えていた。
そして、口を開いた。
「俺は」
「はい」
「助けに行くべきだと思う」
朔の目が、わずかに動いた。
「理由を、聞いても?」
「簡単だろ」
グリムが、にやりと笑った。
「本人が望んでなくても。見殺しにしたら、後味悪ぃじゃん」
朔は、答えなかった。
「それに」
グリムの声が、少し真剣になった。
「お前、気になってんだろ。あの婆さんのこと」
「私が?」
「だって、同じだもんな」
グリムが、朔を見た。
「自分の書いた物語を、殺そうとした奴」
*
朔は、何も言わなかった。
ただ、本を見つめていた。
ぐしょぐしょの、カビだらけの本を。
「そうですね」
ようやく、声が出た。
「彼女を止める権利が、私にあるかどうか。分かりません」
「権利とか、そういう話じゃねぇだろ」
「では、何の話ですか」
「決まってんだろ」
グリムが、朔の肩を叩いた。
「仕事だよ、仕事」
*
朔は、小さく笑った。
いつもの毒舌は、出てこなかった。
代わりに、静かな笑みが浮かんでいた。
「そうですね」
「ああ」
「仕事、ですね」
朔は、ペンを取り出した。
使い込まれた朱色のペン。
「静子様の依頼は『埋葬』でした」
「うん」
「ならば、埋葬する前に確認しなければなりません」
朔の目が、鋭くなった。
「本当に、その墓に入りたいのかどうかを」
*
朔は、本の表紙に手を置いた。
「グリム」
「おう」
「今回の潜書は、少し厄介かもしれません」
「分かってる」
グリムが、首を鳴らした。
「水とカビだろ? 最悪だな」
「ええ」
朔が、ペンを構えた。
「では、参りましょうか」
朱色のインクが、表紙に染み込んでいく。
文字が浮かび上がる。
潜書
床が、溶けた。
黒い水が、二人を呑み込んでいく。
カビの臭い。腐った水の感触。
そして、遠くから聞こえる女の笑い声。
幸福に満ちた、狂気の笑い声。
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