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第12話 鳥籠の恋文、空白のページ
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雨の音が、やまない。
朔が目を開けると、そこは古い日本家屋の座敷だった。
畳の目から、黒い水がじわりと染み出している。
障子には点々とカビが生え、まるで病人の肌のようだった。
「うげぇ」
隣で、グリムが顔をしかめていた。
絣の着物に袴。丸眼鏡をかけた書生姿。
裾は最初から泥で汚れ、足袋には黒い染みが広がっている。
「最悪だ。足袋の中がぬるぬるする」
グリムが足を上げると、畳から糸を引くような水が滴った。
生温かい。そして、かすかに甘い腐臭がする。
「吐きそう」
「静粛に」
朔は立ち上がり、周囲を見回した。
六畳ほどの座敷。天井は低く、圧迫感がある。
窓はない。あるのは四方を囲む襖だけ。
そして、雨音。
どこから聞こえてくるのか分からない。
ただ絶え間なく、ざあざあと降り続けている。
*
「息が、重いな」
グリムが胸を押さえた。
「空気が湿りすぎてる。肺に水が溜まりそうだ」
「物語の腐敗が進んでいますね」
朔は畳に触れた。
指先が、ぬるりと滑る。
藺草の匂いではない。沼地の底のような、澱んだ臭い。
「この世界は、彼女の涙で満ちています」
「涙?」
「六十年以上、泣き続けた涙です」
朔の声は、淡々としていた。
「それだけの時間があれば、物語は腐る」
*
グリムが、襖に手をかけた。
「おい、これ」
襖の向こうも、同じ六畳間だった。
その向こうにも。さらに向こうにも。
同じ部屋が、無限に続いている。
「迷路かよ。いや、待てよ」
グリムが、鼻を鳴らした。
「この臭い。腐ってるのは本だけじゃねぇな」
「気づきましたか」
「臍の緒だろ。あの探偵んときと同じだ」
グリムの目が、真剣になった。
「作者と物語の繋がりが、ドロドロに溶けてやがる」
朔が、小さく頷いた。
そして、足元を指した。
「見てください」
畳の上に、原稿用紙が散らばっていた。
一枚、二枚、三枚。
部屋中に、無数の紙が落ちている。
「これは」
朔が、一枚を拾い上げた。
だが、文字は読めなかった。
インクが水で滲み、黒い染みになっている。
*
「判読できるものを探しましょう」
朔は、原稿用紙を一枚ずつ確認していった。
グリムも渋々と手伝う。
だが、どの紙も水に浸かったように滲んでいる。
「あった」
朔の手が、止まった。
「かろうじて、読めます」
グリムが、覗き込んだ。
『薫さん、私を見て』
それだけだった。
たった一行。
原稿用紙の真ん中に、ぽつりと書かれている。
「続きは?」
「ありません」
朔は、別の紙を拾った。
『現実なんていらない』
また一行。
次の紙。
『あなただけがいればいい』
グリムの顔が、強張った。
「これ、小説じゃねぇだろ」
「ええ」
朔の声が、硬くなった。
「これは物語ではありません」
*
朔は、原稿用紙を床に並べた。
『どこにも行かないで』
『私を置いていかないで』
『ずっと一緒にいて』
『永遠に』
「キャラクターへの呼びかけ、ですか」
グリムが、眉を寄せた。
「いや、違う。これは」
「依存です」
朔が、断じた。
「小説という体裁を借りた、執着の書き殴り」
朔の指が、原稿用紙をなぞった。
『薫さんは私のもの。誰にも渡さない』
「彼女は物語を書いていたのではない」
朔の指が止まった。
「檻です。言葉で編んだ、檻」
グリムの喉が、小さく鳴った。
「薫を、閉じ込めるための?」
「永遠に。逃げられないように」
*
ぎし、と音がした。
二人が振り向く。
襖が、ゆっくりと開いていく。
誰の手も触れていない。
ただ、自然に。滑らかに。
「来たか」
グリムが、身構えた。
襖の向こうに、人影が立っていた。
端正な輪郭。すらりとした背格好。
古風な詰襟の学生服。色褪せた藍色が、遠い時代を感じさせる。
薫だった。
「静子様の、生み出したキャラクター」
朔が、呟いた。
薫が、一歩、踏み出した。
その顔が、座敷の薄明かりに照らされる。
グリムが、息を呑んだ。
「目が、ねぇ」
眼窩には、何もなかった。
黒い穴が、二つ。
底の見えない、深淵のような空洞。
*
薫の口が、開いた。
声は、出なかった。
代わりに、黒い水がとろりと溢れた。
唇の端から顎へ。顎から首筋へ。
学生服の白い襟が、黒く染まっていく。
「おい、メガネ」
グリムが、朔の前に立った。
「攻撃してくるか?」
「分かりません。ただ」
朔は、薫を見つめた。
「敵意は感じませんね」
薫が、また一歩、近づいた。
グリムが拳を握る。だが、薫は攻撃してこなかった。
代わりに、朔の胸元を見つめた。
朱色のペンがある場所を。
じっと。懇願するように。
*
薫の口が、動いた。
声にならない声。
唇の形だけが、何かを訴えている。
「……ロ、シ……テ」
朔の目が、見開かれた。
「何て言ってんだ、そいつ」
グリムが、身を乗り出した。
「聞こえねぇよ。水がごぼごぼ言ってて」
「殺して」
朔の声は、平坦だった。
「彼は『殺して』と言っています」
グリムの顔が、凍りついた。
「は?」
「終わらせてくれ、と」
朔は、薫を見た。
「彼は、この檻から出たがっている」
*
薫が、朔に手を伸ばした。
蒼白い指。爪の先まで血の気がない。
ぬるりとした感触が、朔の腕に触れた。
「おい!」
グリムが、二人の間に割り込もうとした。
だが、薫は攻撃してこなかった。
ただ、朔の腕を掴み、引いていく。
奥へ。もっと奥へ。
無限に続く座敷の、さらに深くへ。
「案内しているようですね」
「罠じゃねぇのか」
「彼を見てください」
朔が、グリムを振り返った。
「あの空洞が、助けを求めています」
グリムは、薫の空洞を見た。
目はない。だが、確かに何かが訴えていた。
六十年分の、絶望が。
「チッ。分かったよ」
グリムが、拳を握った。
「でも何かあったら、俺が先に殴る」
*
いくつもの襖を抜けた。
どの部屋にも、原稿用紙が散らばっている。
どの紙にも、同じような言葉が並んでいる。
『愛してる』
『私だけを見て』
『永遠に一緒に』
そして、時折混じる別の言葉。
『死ね』
『来い』
『お前は私のもの』
「うわ」
グリムが、足を止めた。
「なんだこれ」
壁一面に、文字が書かれていた。
筆で。墨汁で。
ぐちゃぐちゃに、塗りたくるように。
『逃げるな』『逃げるな』『逃げるな』
グリムの顔が青ざめた。
壁に近づくと、墨汁はまだ湿っていた。
指で触れると、ぬるりと黒い液体がついてくる。
「これ、墨汁じゃねぇ」
「ええ」
朔の声は、冷えていた。
「涙と、血を混ぜたものでしょう」
「愛と呪いは、紙一重ってか」
「いえ」
朔は、壁の文字を見つめた。
「同じものかもしれません」
*
奥の間に、たどり着いた。
襖が、音もなく開いた。
そこは、他の部屋とは違っていた。
畳ではない。板張りの床。
天井が高く、梁が剥き出しになっている。
部屋の中央に、布団が敷かれていた。
その上に、白い影が横たわっている。
「静子様」
朔が、呟いた。
白無垢だった。
花嫁衣装の、白い打掛。
老婆の体には不釣り合いなほど、美しい白。
だが。
「おい、あれ」
グリムの声が、震えた。
「体から、何か生えてねぇか」
*
静子の体に、黒い根が張っていた。
腕から。足から。背中から。
血管のように細い根が、床へと伸びている。
木の根が大地に食い込むように。
静子の体と、この世界が、一体化し始めていた。
「静子様」
朔が、近づいた。
静子の目が、ゆっくりと開いた。
濁った瞳。だが、どこか幸福そうな光。
「あら」
静子が、微笑んだ。
「来てくれたのね、司書さん」
*
「お体の具合は」
「とても幸せよ」
静子の声は、夢見心地だった。
「見て、薫さんが喜んでいるわ」
静子が、薫を見た。
薫の口からは、相変わらず黒い水が溢れている。
苦しそうに。喘ぐように。
「あら、嬉し泣きね」
静子が、うっとりと目を細めた。
「私が来てくれて、嬉しいのね」
グリムが、朔を見た。
その目が問いかけている。本気で言ってんのか、と。
朔は、答えなかった。
ただ、薫の顔を見つめていた。
その空洞の目が、何を訴えているか。
朔には、分かっていた。
*
「静子様」
朔が、静かに問いかけた。
「この物語の結末を、お聞かせ願えますか」
「結末?」
静子が、首を傾げた。
「そんなもの、ないわ」
「ないのですか」
「だって、終わってほしくないもの」
静子が、布団から身を起こそうとした。
だが、根が体を縫い止めている。動けない。
それでも、静子は幸せそうに笑っていた。
「薫さんと私は、ずっと一緒よ」
「ずっと」
「永遠に」
静子の目が、朔を見た。
いや、見ていなかった。
見ているのは、朔の向こう側。
六十年前の、若い自分。
「だから、結末なんて書かないの」
*
朔が、部屋の奥を見た。
掛け軸が、一幅だけ掛かっている。
墨で、大きく一文字。
『永劫』
「静子様」
朔の声が、わずかに低くなった。
「あなたは心中する気など、なかったのですね」
「心中?」
静子が、不思議そうに首を傾げた。
「どうして? 死んだら、薫さんに会えなくなるもの」
朔の背筋を、冷たいものが走った。
「だから、ここにいるの」
静子が、微笑んだ。
「永遠に。ずっと。二人きりで」
朔は、薫を見た。
薫の空洞の目から、黒い涙が流れていた。
*
「グリム」
朔の声が、低く響いた。
「彼女は心中しに来たのではありません」
「じゃあ、何だよ」
「監禁です」
朔の目が、鋭くなった。
「この地獄で、永遠に薫を飼い殺しにするつもりだ」
グリムの顔が、強張った。
「それって」
「ええ」
朔は、静子を見た。
「図書館で彼女が言った『この子を、お願いね』」
「覚えてる」
「あれは『修復してくれ』ではなかった」
朔の声が、苦いものを含んだ。
「『永遠に一緒にいさせてくれ』という意味だったのでしょう」
静子は、幸福そうに笑っている。
薫は、声にならない悲鳴を上げ続けている。
この世界は、物語ではなかった。
牢獄だった。
作者が作り上げた、永遠の牢獄。
*
「静子様」
朔が、静子の前に膝をついた。
「もう一度、お聞きします」
「なあに?」
「あなたは本当に、これを望んでいるのですか」
静子の目が、一瞬だけ揺らいだ。
「この永遠を。この牢獄を。この地獄を」
「地獄?」
静子が、首を傾げた。
「何を言っているの。ここは天国よ」
その声には、一点の曇りもなかった。
*
その時。
薫が、動いた。
静子の手を取り、何かを握らせようとしている。
蒼白い手が、必死に何かを差し出している。
「なあに、薫さん」
静子が、手を開いた。
原稿用紙だった。
一枚だけ。
他の紙と違い、全く濡れていない。
「これは」
朔が、息を呑んだ。
その紙は、白かった。
何も書かれていない。
ただの白紙。
「結末のページです」
朔の声が、震えた。
「彼女が、書くことを拒んだページだ」
*
静子の顔から、笑みが消えた。
一瞬、正気の光が瞳に戻る。
そして、恐怖に変わった。
「いやよ」
静子が、紙を払いのけようとした。
「書かないわ。書いたら終わってしまう」
「静子様」
「終わったら、薫さんがいなくなってしまう!」
静子の声が、悲鳴に変わった。
「私から薫さんを奪わないで!」
部屋が、揺れた。
床から黒い水が噴き出す。
天井から、カビの胞子が降り注ぐ。
「グリム!」
「分かってる!」
グリムが、朔の手を掴んだ。
二人は、部屋から飛び出した。
背後で、静子の叫び声が響く。
「返して! 薫さんを返して!」
*
座敷を走り抜けた。
襖を蹴破り、畳を踏みしめる。
どこへ向かっているか分からない。
ただ、逃げた。
「おい、メガネ」
グリムが、朔の手を見た。
「それ、持ってきたのか」
朔の手には、白紙の原稿用紙があった。
薫が差し出した、結末のページ。
「ええ」
朔は、走りながら答えた。
「これが、鍵です」
*
水が、追いかけてくる。
黒い水が、床を這い、壁を這い、天井を這う。
座敷が、沈んでいく。
この世界そのものが、崩壊し始めていた。
「どうすんだよ!」
グリムが叫んだ。
「静子様を説得するには、材料が足りません」
朔は、白紙を見つめた。
「なぜ彼女が結末を書けなかったのか。その理由を知る必要がある」
「理由?」
「彼女はただの狂人ではない」
朔の眼鏡の奥で、光が冷たく凝った。
「六十年前、何かがあったはずです」
*
襖が、開いた。
そこは、別の部屋だった。
畳も板張りもない。
ただ、本棚が並んでいる。
「図書館?」
グリムが、呆然と呟いた。
「いいえ」
朔は、本棚を見つめた。
「作者の本には、その人の記憶が染み込みます」
「染み込む?」
「六十年分の想いが、この本を作った。ならば」
朔の声に、確信が宿った。
「六十年分の記憶も、ここにある」
本棚には、日記帳が並んでいた。
何十冊も。何百冊も。
六十年分の、静子の人生。
「ここで、答えを探しましょう」
朔は、一冊の日記を手に取った。
背後で、水音が近づいてくる。
そして、足音。
ひたり、ひたりと。花嫁の足音が、追いかけてくる。
時間は、あまりない。
朔が目を開けると、そこは古い日本家屋の座敷だった。
畳の目から、黒い水がじわりと染み出している。
障子には点々とカビが生え、まるで病人の肌のようだった。
「うげぇ」
隣で、グリムが顔をしかめていた。
絣の着物に袴。丸眼鏡をかけた書生姿。
裾は最初から泥で汚れ、足袋には黒い染みが広がっている。
「最悪だ。足袋の中がぬるぬるする」
グリムが足を上げると、畳から糸を引くような水が滴った。
生温かい。そして、かすかに甘い腐臭がする。
「吐きそう」
「静粛に」
朔は立ち上がり、周囲を見回した。
六畳ほどの座敷。天井は低く、圧迫感がある。
窓はない。あるのは四方を囲む襖だけ。
そして、雨音。
どこから聞こえてくるのか分からない。
ただ絶え間なく、ざあざあと降り続けている。
*
「息が、重いな」
グリムが胸を押さえた。
「空気が湿りすぎてる。肺に水が溜まりそうだ」
「物語の腐敗が進んでいますね」
朔は畳に触れた。
指先が、ぬるりと滑る。
藺草の匂いではない。沼地の底のような、澱んだ臭い。
「この世界は、彼女の涙で満ちています」
「涙?」
「六十年以上、泣き続けた涙です」
朔の声は、淡々としていた。
「それだけの時間があれば、物語は腐る」
*
グリムが、襖に手をかけた。
「おい、これ」
襖の向こうも、同じ六畳間だった。
その向こうにも。さらに向こうにも。
同じ部屋が、無限に続いている。
「迷路かよ。いや、待てよ」
グリムが、鼻を鳴らした。
「この臭い。腐ってるのは本だけじゃねぇな」
「気づきましたか」
「臍の緒だろ。あの探偵んときと同じだ」
グリムの目が、真剣になった。
「作者と物語の繋がりが、ドロドロに溶けてやがる」
朔が、小さく頷いた。
そして、足元を指した。
「見てください」
畳の上に、原稿用紙が散らばっていた。
一枚、二枚、三枚。
部屋中に、無数の紙が落ちている。
「これは」
朔が、一枚を拾い上げた。
だが、文字は読めなかった。
インクが水で滲み、黒い染みになっている。
*
「判読できるものを探しましょう」
朔は、原稿用紙を一枚ずつ確認していった。
グリムも渋々と手伝う。
だが、どの紙も水に浸かったように滲んでいる。
「あった」
朔の手が、止まった。
「かろうじて、読めます」
グリムが、覗き込んだ。
『薫さん、私を見て』
それだけだった。
たった一行。
原稿用紙の真ん中に、ぽつりと書かれている。
「続きは?」
「ありません」
朔は、別の紙を拾った。
『現実なんていらない』
また一行。
次の紙。
『あなただけがいればいい』
グリムの顔が、強張った。
「これ、小説じゃねぇだろ」
「ええ」
朔の声が、硬くなった。
「これは物語ではありません」
*
朔は、原稿用紙を床に並べた。
『どこにも行かないで』
『私を置いていかないで』
『ずっと一緒にいて』
『永遠に』
「キャラクターへの呼びかけ、ですか」
グリムが、眉を寄せた。
「いや、違う。これは」
「依存です」
朔が、断じた。
「小説という体裁を借りた、執着の書き殴り」
朔の指が、原稿用紙をなぞった。
『薫さんは私のもの。誰にも渡さない』
「彼女は物語を書いていたのではない」
朔の指が止まった。
「檻です。言葉で編んだ、檻」
グリムの喉が、小さく鳴った。
「薫を、閉じ込めるための?」
「永遠に。逃げられないように」
*
ぎし、と音がした。
二人が振り向く。
襖が、ゆっくりと開いていく。
誰の手も触れていない。
ただ、自然に。滑らかに。
「来たか」
グリムが、身構えた。
襖の向こうに、人影が立っていた。
端正な輪郭。すらりとした背格好。
古風な詰襟の学生服。色褪せた藍色が、遠い時代を感じさせる。
薫だった。
「静子様の、生み出したキャラクター」
朔が、呟いた。
薫が、一歩、踏み出した。
その顔が、座敷の薄明かりに照らされる。
グリムが、息を呑んだ。
「目が、ねぇ」
眼窩には、何もなかった。
黒い穴が、二つ。
底の見えない、深淵のような空洞。
*
薫の口が、開いた。
声は、出なかった。
代わりに、黒い水がとろりと溢れた。
唇の端から顎へ。顎から首筋へ。
学生服の白い襟が、黒く染まっていく。
「おい、メガネ」
グリムが、朔の前に立った。
「攻撃してくるか?」
「分かりません。ただ」
朔は、薫を見つめた。
「敵意は感じませんね」
薫が、また一歩、近づいた。
グリムが拳を握る。だが、薫は攻撃してこなかった。
代わりに、朔の胸元を見つめた。
朱色のペンがある場所を。
じっと。懇願するように。
*
薫の口が、動いた。
声にならない声。
唇の形だけが、何かを訴えている。
「……ロ、シ……テ」
朔の目が、見開かれた。
「何て言ってんだ、そいつ」
グリムが、身を乗り出した。
「聞こえねぇよ。水がごぼごぼ言ってて」
「殺して」
朔の声は、平坦だった。
「彼は『殺して』と言っています」
グリムの顔が、凍りついた。
「は?」
「終わらせてくれ、と」
朔は、薫を見た。
「彼は、この檻から出たがっている」
*
薫が、朔に手を伸ばした。
蒼白い指。爪の先まで血の気がない。
ぬるりとした感触が、朔の腕に触れた。
「おい!」
グリムが、二人の間に割り込もうとした。
だが、薫は攻撃してこなかった。
ただ、朔の腕を掴み、引いていく。
奥へ。もっと奥へ。
無限に続く座敷の、さらに深くへ。
「案内しているようですね」
「罠じゃねぇのか」
「彼を見てください」
朔が、グリムを振り返った。
「あの空洞が、助けを求めています」
グリムは、薫の空洞を見た。
目はない。だが、確かに何かが訴えていた。
六十年分の、絶望が。
「チッ。分かったよ」
グリムが、拳を握った。
「でも何かあったら、俺が先に殴る」
*
いくつもの襖を抜けた。
どの部屋にも、原稿用紙が散らばっている。
どの紙にも、同じような言葉が並んでいる。
『愛してる』
『私だけを見て』
『永遠に一緒に』
そして、時折混じる別の言葉。
『死ね』
『来い』
『お前は私のもの』
「うわ」
グリムが、足を止めた。
「なんだこれ」
壁一面に、文字が書かれていた。
筆で。墨汁で。
ぐちゃぐちゃに、塗りたくるように。
『逃げるな』『逃げるな』『逃げるな』
グリムの顔が青ざめた。
壁に近づくと、墨汁はまだ湿っていた。
指で触れると、ぬるりと黒い液体がついてくる。
「これ、墨汁じゃねぇ」
「ええ」
朔の声は、冷えていた。
「涙と、血を混ぜたものでしょう」
「愛と呪いは、紙一重ってか」
「いえ」
朔は、壁の文字を見つめた。
「同じものかもしれません」
*
奥の間に、たどり着いた。
襖が、音もなく開いた。
そこは、他の部屋とは違っていた。
畳ではない。板張りの床。
天井が高く、梁が剥き出しになっている。
部屋の中央に、布団が敷かれていた。
その上に、白い影が横たわっている。
「静子様」
朔が、呟いた。
白無垢だった。
花嫁衣装の、白い打掛。
老婆の体には不釣り合いなほど、美しい白。
だが。
「おい、あれ」
グリムの声が、震えた。
「体から、何か生えてねぇか」
*
静子の体に、黒い根が張っていた。
腕から。足から。背中から。
血管のように細い根が、床へと伸びている。
木の根が大地に食い込むように。
静子の体と、この世界が、一体化し始めていた。
「静子様」
朔が、近づいた。
静子の目が、ゆっくりと開いた。
濁った瞳。だが、どこか幸福そうな光。
「あら」
静子が、微笑んだ。
「来てくれたのね、司書さん」
*
「お体の具合は」
「とても幸せよ」
静子の声は、夢見心地だった。
「見て、薫さんが喜んでいるわ」
静子が、薫を見た。
薫の口からは、相変わらず黒い水が溢れている。
苦しそうに。喘ぐように。
「あら、嬉し泣きね」
静子が、うっとりと目を細めた。
「私が来てくれて、嬉しいのね」
グリムが、朔を見た。
その目が問いかけている。本気で言ってんのか、と。
朔は、答えなかった。
ただ、薫の顔を見つめていた。
その空洞の目が、何を訴えているか。
朔には、分かっていた。
*
「静子様」
朔が、静かに問いかけた。
「この物語の結末を、お聞かせ願えますか」
「結末?」
静子が、首を傾げた。
「そんなもの、ないわ」
「ないのですか」
「だって、終わってほしくないもの」
静子が、布団から身を起こそうとした。
だが、根が体を縫い止めている。動けない。
それでも、静子は幸せそうに笑っていた。
「薫さんと私は、ずっと一緒よ」
「ずっと」
「永遠に」
静子の目が、朔を見た。
いや、見ていなかった。
見ているのは、朔の向こう側。
六十年前の、若い自分。
「だから、結末なんて書かないの」
*
朔が、部屋の奥を見た。
掛け軸が、一幅だけ掛かっている。
墨で、大きく一文字。
『永劫』
「静子様」
朔の声が、わずかに低くなった。
「あなたは心中する気など、なかったのですね」
「心中?」
静子が、不思議そうに首を傾げた。
「どうして? 死んだら、薫さんに会えなくなるもの」
朔の背筋を、冷たいものが走った。
「だから、ここにいるの」
静子が、微笑んだ。
「永遠に。ずっと。二人きりで」
朔は、薫を見た。
薫の空洞の目から、黒い涙が流れていた。
*
「グリム」
朔の声が、低く響いた。
「彼女は心中しに来たのではありません」
「じゃあ、何だよ」
「監禁です」
朔の目が、鋭くなった。
「この地獄で、永遠に薫を飼い殺しにするつもりだ」
グリムの顔が、強張った。
「それって」
「ええ」
朔は、静子を見た。
「図書館で彼女が言った『この子を、お願いね』」
「覚えてる」
「あれは『修復してくれ』ではなかった」
朔の声が、苦いものを含んだ。
「『永遠に一緒にいさせてくれ』という意味だったのでしょう」
静子は、幸福そうに笑っている。
薫は、声にならない悲鳴を上げ続けている。
この世界は、物語ではなかった。
牢獄だった。
作者が作り上げた、永遠の牢獄。
*
「静子様」
朔が、静子の前に膝をついた。
「もう一度、お聞きします」
「なあに?」
「あなたは本当に、これを望んでいるのですか」
静子の目が、一瞬だけ揺らいだ。
「この永遠を。この牢獄を。この地獄を」
「地獄?」
静子が、首を傾げた。
「何を言っているの。ここは天国よ」
その声には、一点の曇りもなかった。
*
その時。
薫が、動いた。
静子の手を取り、何かを握らせようとしている。
蒼白い手が、必死に何かを差し出している。
「なあに、薫さん」
静子が、手を開いた。
原稿用紙だった。
一枚だけ。
他の紙と違い、全く濡れていない。
「これは」
朔が、息を呑んだ。
その紙は、白かった。
何も書かれていない。
ただの白紙。
「結末のページです」
朔の声が、震えた。
「彼女が、書くことを拒んだページだ」
*
静子の顔から、笑みが消えた。
一瞬、正気の光が瞳に戻る。
そして、恐怖に変わった。
「いやよ」
静子が、紙を払いのけようとした。
「書かないわ。書いたら終わってしまう」
「静子様」
「終わったら、薫さんがいなくなってしまう!」
静子の声が、悲鳴に変わった。
「私から薫さんを奪わないで!」
部屋が、揺れた。
床から黒い水が噴き出す。
天井から、カビの胞子が降り注ぐ。
「グリム!」
「分かってる!」
グリムが、朔の手を掴んだ。
二人は、部屋から飛び出した。
背後で、静子の叫び声が響く。
「返して! 薫さんを返して!」
*
座敷を走り抜けた。
襖を蹴破り、畳を踏みしめる。
どこへ向かっているか分からない。
ただ、逃げた。
「おい、メガネ」
グリムが、朔の手を見た。
「それ、持ってきたのか」
朔の手には、白紙の原稿用紙があった。
薫が差し出した、結末のページ。
「ええ」
朔は、走りながら答えた。
「これが、鍵です」
*
水が、追いかけてくる。
黒い水が、床を這い、壁を這い、天井を這う。
座敷が、沈んでいく。
この世界そのものが、崩壊し始めていた。
「どうすんだよ!」
グリムが叫んだ。
「静子様を説得するには、材料が足りません」
朔は、白紙を見つめた。
「なぜ彼女が結末を書けなかったのか。その理由を知る必要がある」
「理由?」
「彼女はただの狂人ではない」
朔の眼鏡の奥で、光が冷たく凝った。
「六十年前、何かがあったはずです」
*
襖が、開いた。
そこは、別の部屋だった。
畳も板張りもない。
ただ、本棚が並んでいる。
「図書館?」
グリムが、呆然と呟いた。
「いいえ」
朔は、本棚を見つめた。
「作者の本には、その人の記憶が染み込みます」
「染み込む?」
「六十年分の想いが、この本を作った。ならば」
朔の声に、確信が宿った。
「六十年分の記憶も、ここにある」
本棚には、日記帳が並んでいた。
何十冊も。何百冊も。
六十年分の、静子の人生。
「ここで、答えを探しましょう」
朔は、一冊の日記を手に取った。
背後で、水音が近づいてくる。
そして、足音。
ひたり、ひたりと。花嫁の足音が、追いかけてくる。
時間は、あまりない。
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