その結末、書き換えます。 ~黄昏迷宮図書館の「物語」修復記録~

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第13話 六十年目の、行かないで

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 日記帳の背表紙が、朔の指先で崩れた。

 紙が朽ちている。六十年という歳月が、記憶を腐らせようとしていた。
 それでも、朔は慎重に頁を開いた。

「おい、どれを読むんだ」

 絣の袖を捲り上げたグリムが、本棚を見回した。
 書生姿は湿気を吸って重い。丸眼鏡が曇っている。
 何百冊もの日記が、埃を被って並んでいる。
 どれも同じ装丁。同じ厚さ。同じ沈黙。

「古いものから順に。答えは、始まりにあるはずです」

 朔は背表紙の日付を確認した。
 昭和十七年。十八年。十九年。

 その手が、止まった。

「昭和十九年、八月」

 グリムの顔が強張る。

「終戦の、一年前か」

          *

 頁を開くと、少女の文字が躍っていた。

 丸みを帯びた筆跡。インクの滲み。
 八十代の老婆ではない。十代の、少女の手だ。

 朔は、声に出して読み始めた。

『八月三日。晴れ。
 薫さんと、川辺で会った。
 来週には出征だというのに、いつもと同じ顔をしていた。
 笑っていた。私も、笑った。
 笑うしか、できなかった』

 グリムが、朔の隣に立った。
 二人で、日記を覗き込む。

『八月五日。曇り。
 薫さんが、本を貸してくれた。
 「僕が帰ってくるまで、預かっていて」と言った。
 帰ってくる。その言葉を、何度も噛みしめた。
 帰ってくる。帰ってくる。
 お願いだから、帰ってきて』

 朔の指が、頁をめくる。

『八月七日。雨。
 薫さんに会えなかった。
 雨だから。きっと、雨だから。
 胸が苦しい。息ができない。
 会いたい。会いたい。会いたい』

 グリムが、小さく舌打ちした。

「おい、これ」

「ええ」

 朔の声は、低かった。

「恋文ですね。日記の形をした、恋文です」

 遠くで、襖が軋む音がした。
 ひたり。ひたり。
 花嫁の足音が、近づいている。

「急げよ、メガネ」

 グリムが本棚の隙間から廊下を窺った。

「あと何冊だ」

「もう少しです」

 朔は頁をめくる手を速めた。

          *

 頁が進むにつれて、文字が乱れていった。

 丸みが消え、角ばり、震え始める。
 インクの染みが増え、紙が波打っている。
 涙の跡だ。六十年前の、少女の涙。

『八月九日。
 明日、薫さんが発つ。
 駅まで見送りに行く。
 笑顔で送り出さなければ。
 それが、銃後の女の務めだから。
 泣いてはいけない。取り乱してはいけない。
 死ぬ覚悟を決めた人の邪魔を、してはいけない』

 朔の眼鏡の奥で、光が揺れた。

『でも。
 でも、本当は。
 行かないでほしい。
 死なないでほしい。
 私を、置いていかないでほしい』

 文字が、途切れていた。
 涙で滲み、判読できない。
 ただ、何度も同じ言葉が繰り返されている。

 『行かないで』
 『行かないで』
 『行かないで』

          *

「見送りの日か」

 グリムが、次の頁を指した。

 朔は、躊躇した。
 この先を読めば、静子の「傷」に触れることになる。
 六十年間、誰にも見せなかった傷口に。

 それでも、朔は頁をめくった。

『八月十日。晴れ。
 駅は、人でいっぱいだった。
 出征する兵士たち。見送る家族たち。
 万歳の声。日の丸の波。
 薫さんは、笑っていた。
 いつもと同じ、穏やかな笑顔で。
 私も、笑った。
 「行ってらっしゃい」と言った。
 「元気でね」と言った。
 「待っています」と言った。
 綺麗な言葉だけを、並べた。
 薫さんは、手を振った。
 汽車が動き出した。
 窓から手を振る薫さんの姿が、どんどん小さくなっていく。
 私は、最後まで笑っていた。
 涙は、一滴もこぼさなかった。
 汽車が見えなくなるまで、ずっと。
 手を、振り続けた』

 朔が、日記を閉じた。

「ここで、終わっています」

「終わり?」

「この日以降、日記は書かれていません」

 グリムの眉が寄った。

「じゃあ、薫って奴は」

「帰ってこなかったのでしょう」

 朔の声は、静かだった。

「そして静子様は、六十年間、あの日の駅に立ち続けている」

          *

「分かったぞ」

 グリムが、拳を握った。

「あのババアは、この日記の続きを書いてるんだ」

「続き?」

「考えてみろよ。現実じゃ『行ってらっしゃい』しか言えなかった」

 グリムの目が、鋭くなった。

「でも本の中なら、何だって言える。何だってできる」

 朔は、頷いた。

「ええ。だから彼女は物語を書いた」

「薫を閉じ込めて、永遠に一緒にいるために」

「いいえ」

 朔の声が、わずかに震えた。

「言いたかった言葉を、言うためです」

          *

 朔は、日記を見つめた。

「彼女は『行かないで』と言いたかった」

「だから物語の中で、薫を引き留めた」

「ええ。でも、それは」

 朔の指が、白紙の結末ページに触れた。

「永遠に『行かないで』と言い続けることと同じです」

 グリムの顔が、歪んだ。

「だから結末が書けねぇのか」

「結末を書けば、別れが来る」

 朔は、窓のない書庫を見回した。

「彼女は別れを拒んだ。だから永遠の地獄を選んだ」

「本人は天国だと思ってるけどな」

「ええ」

 朔の声が、苦い。

「愛しているからこそ、さよならを言わなければならない」

 その言葉を口にした瞬間、朔の胸が軋んだ。
 自分はどうだった。
 さよならを言えたか。言わずに、燃やしたのではないか。

「そんなの」

 グリムの声で、朔は我に返った。

「彼女には分からなかった。六十年間、ずっと」

          *

 天井が、軋んだ。

 朔とグリムが、同時に見上げる。
 書庫の天井に、亀裂が走っていた。
 黒い液体が、染み出してくる。

「来やがったか」

 グリムが、身構えた。

 亀裂が広がる。木材が裂け、本棚が揺れる。
 そして。

 天井が、崩れ落ちた。

          *

 黒い根が、降り注いだ。

 無数の触手のように。蔦のように。血管のように。
 天井から垂れ下がり、床を這い、壁を覆っていく。

「うわっ」

 グリムが飛び退いた。
 だが、遅かった。
 根の一本が、足首に絡みついている。

「グリム!」

「離れろ、メガネ!」

 グリムが叫んだ瞬間、朔の腕にも根が巻きついた。
 冷たい。湿っている。そして、生きている。
 脈打つように、蠢いている。

 天井の穴から、人影が降りてきた。

 逆さまに。
 髪を振り乱して。
 白無垢が、血のように赤く染まっている。

          *

「見つけた」

 静子の声が、書庫に響いた。

 その姿は、もはや老婆ではなかった。
 顔の半分が、黒い根に覆われている。
 木の皮のように硬く、血管のように脈打つ。
 根は額から頬へ、頬から首へと広がり、白無垢の襟元に食い込んでいる。
 片方の目だけが、狂気の光を宿して輝いている。
 髪は振り乱され、蛇のように宙を這う。
 白無垢は血のように赤黒く染まり、裾からは無数の根が伸びている。

 美しい老婦人の面影は、どこにもなかった。
 そこにいるのは、鬼女だった。

「私の日記。私の記憶」

 静子が、ゆっくりと床に降り立った。
 彼女の体と、この世界が、完全に一体化し始めていた。

「見たのね」

 静子の声が、震えた。

「私の恥を。私の弱さを。私の」

 その片目が、涙を流した。

「私の、本当の気持ちを」

          *

「静子様」

 朔が、根に絡め取られながら言った。

「あなたは」

「黙りなさい!」

 静子が、叫んだ。

 根が締まる。朔の腕に、激痛が走った。
 骨が軋む音がする。

「綺麗な思い出だったのに」

 静子の顔が、歪んだ。

「綺麗な別れだったのに。私は最後まで、笑っていられたのに」

「静子、様」

「なのに、なのに、なのに」

 静子の髪が、逆立った。
 根が蠢き、書庫全体が震え始める。

「あなたたちが来て、全部台無しにした!」

          *

 グリムが、歯を食いしばった。

「くそっ、この」

 足首の根を引きちぎろうとする。
 だが、根は増殖し続けている。
 膝まで。腰まで。胸まで。

「おい、メガネ! なんか打開策は」

「今、考えています」

「考えてる場合か!」

 グリムの首に、根が巻きついた。
 呼吸が止まる。視界が暗くなる。

「グリム!」

 朔が叫んだ。

 だが、朔自身も動けない。
 両腕と両足が、完全に拘束されている。
 白紙の結末ページが、指先から滑り落ちそうになった。

「それを、渡しなさい」

 静子が、ゆっくりと近づいてきた。

「そのページを、破り捨てなさい」

「お断りします」

 朔の声は、まだ冷静だった。

「これは、あなたが書くべきページです」

「書かない」

 静子の目が、燃えた。

「書いたら、薫さんがいなくなる。私から、いなくなってしまう」

「もう、いなくなっているのではないですか」

 朔の言葉に、静子の動きが止まった。

「あなたの薫様は、六十年前に」

「黙れ!」

          *

 根が、朔の首を絞めた。

 息ができない。視界が白くなる。
 それでも、朔は静子を見つめ続けた。

「殺してやる」

 静子の声が、低く響いた。

「薫さんを奪おうとする者は、全員」

 その時。

 黒い水が、静子の顔に叩きつけられた。

          *

「がっ」

 静子が、顔を押さえた。

 黒い水が、目に入った。口に入った。
 彼女の動きが、一瞬だけ止まる。

 朔は、その光景を見た。

 薫が、いた。

 崩れかけた体で。空洞の目で。
 それでも必死に、静子にしがみついている。
 彼の体は溶けかけていた。腕は泥のように崩れ、足は黒い水たまりになっている。
 それでも。
 最後の力を振り絞って、静子を止めていた。

「薫、さん」

 静子が、呆然と呟いた。

「どう、して」

 薫が、朔を見た。
 空洞の目が、必死に何かを訴えている。

 その口が、動いた。

『逃げて』

 水泡が弾ける。

『早く』

 喉から黒い水が溢れる。

『書かせて』

 朔は、理解した。
 薫は静子を止めているのではない。
 朔に時間を与えているのだ。
 結末を書かせるための、時間を。

 薫の口が、また動いた。

『もう、いいんだ』

          *

 薫の体が、限界だった。
 これ以上、形を保てない。
 それでも。

 薫が、静子を抱きしめた。

 崩れる体で。溶けていく腕で。
 六十年間、言えなかった言葉を伝えるように。

『泣いて、いいんだ』

 静子の体が、震えた。

「薫さん、何を」

『あの日、僕も本当は』

 薫の空洞の目から、黒い涙が流れた。

『行きたくなかった』

          *

 静子の目が、見開かれた。

「嘘」

 グリムが、小さく息を呑んだ。
 薫の空洞に、涙が浮かんでいる。
 六十年間、泣けなかった涙が。

『嘘じゃない』

 薫の声は、もはや水音ではなかった。
 かすれた、若い男の声。
 六十年前の、あの日の声。

『行きたくなかった。君のそばにいたかった』

「でも、あなたは笑っていた」

『君も、笑っていた』

 薫が、静子の頬に触れた。

『僕たちは、お互いに嘘をついていたんだ』

 静子の顔から、血の気が引いた。

「嘘」

『綺麗な別れなんて、いらなかった』

 薫の体が、崩れ始める。

『僕は君に、泣いてほしかった。引き留めてほしかった』

          *

 静子の拘束が、緩んだ。

 根が萎れ、力を失っていく。
 朔は地面に落ち、激しく咳き込んだ。

「メガネ!」

 グリムが駆け寄る。
 首の跡が赤く腫れているが、動ける。

「大丈夫です」

 朔は、立ち上がった。
 そして、白紙のページを拾い上げた。

 静子は、その場に崩れ落ちていた。
 薫を抱きしめたまま。
 いや、薫だったものを。

 彼の体は、黒い水になって溶けていく。
 静子の腕の中で、ゆっくりと。

          *

「薫さん」

 静子が、嗚咽を漏らした。

「嫌。消えないで。また、いなくなるの」

『いなくならないよ』

 薫の声が、遠くなっていく。

『でも、もう終わりにしよう』

「終わりになんて」

『六十年も、一緒にいられたじゃないか』

 薫の輪郭が、曖昧になっていく。

『もう十分だよ。僕は、幸せだった』

「私は、まだ」

『静子』

 その名前を呼ばれて、静子の体が震えた。

『書いてくれ。僕たちの結末を』

          *

 朔が、静子の前に膝をついた。

「静子様」

 朔の手には、白紙のページがある。

「これが、あなたの最後の頁です」

 静子は、涙で濡れた顔を上げた。

「書いたら、薫さんが」

「いいえ」

 朔は、首を横に振った。

「薫様は、もうここにはいません」

 静子の目から、新しい涙が溢れた。

「でも、あなたの中には、います」

「私の、中」

「六十年間、あなたは薫様を忘れなかった」

 朔の声が、少しだけ柔らかくなった。

「それこそが、本当の『永遠』ではないですか」

          *

 静子の手が、震えていた。

「私は、何を書けばいいの」

「六十年前、駅で、本当は何を言いたかったのですか」

 朔の声が、大きくなった。

「『行ってらっしゃい』ですか。『元気でね』ですか」

「そう言ったわ。綺麗な言葉を」

「違うはずです」

 朔が、立ち上がった。

「あなたが本当に言いたかった言葉は、そんな綺麗なものではなかったはずです」

 静子の体が、震えた。

「六十年間、喉の奥で腐らせてきた言葉があるでしょう」

 朔の視線が、床に落ちた一本のペンを捉えた。
 静子のものだろう。記憶の書庫に漂着したのだ。
 朔はそれを拾い上げ、静子に差し出した。
 朱色ではない。ありふれた万年筆。
 だが、彼女の人生を綴ってきたペンだ。

「それを、書きなさい」

 静子の目に、遠い日の光景が蘇る。

 汽車の窓から、手を振る薫の姿。
 どんどん小さくなっていく。
 消えていく。
 二度と、戻ってこない。

          *

「行かないで」

 静子が、呟いた。

「死なないで」

 涙が、頬を伝う。

「私を、置いていかないで」

 六十年間、喉の奥で腐らせてきた言葉。
 やっと、声になった。

「書きなさい」

 朔の声が、静かに響いた。

「それが、あなたの結末です」

          *

 静子の手が、ペンを握った。

 震えている。だが、確かに握っている。
 白紙のページに、ペン先が触れる。

 一文字。また一文字。

 涙で滲む。だが、書き続ける。

 遠くで、雨音が止んだ。
 六十年ぶりの、静寂だった。

 グリムが、朔の隣に立った。

「これで、終わるのか」

「いいえ」

 朔は、静子の背中を見つめた。

「始まるのです。彼女の、本当の別れが」
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