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第13話 六十年目の、行かないで
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日記帳の背表紙が、朔の指先で崩れた。
紙が朽ちている。六十年という歳月が、記憶を腐らせようとしていた。
それでも、朔は慎重に頁を開いた。
「おい、どれを読むんだ」
絣の袖を捲り上げたグリムが、本棚を見回した。
書生姿は湿気を吸って重い。丸眼鏡が曇っている。
何百冊もの日記が、埃を被って並んでいる。
どれも同じ装丁。同じ厚さ。同じ沈黙。
「古いものから順に。答えは、始まりにあるはずです」
朔は背表紙の日付を確認した。
昭和十七年。十八年。十九年。
その手が、止まった。
「昭和十九年、八月」
グリムの顔が強張る。
「終戦の、一年前か」
*
頁を開くと、少女の文字が躍っていた。
丸みを帯びた筆跡。インクの滲み。
八十代の老婆ではない。十代の、少女の手だ。
朔は、声に出して読み始めた。
『八月三日。晴れ。
薫さんと、川辺で会った。
来週には出征だというのに、いつもと同じ顔をしていた。
笑っていた。私も、笑った。
笑うしか、できなかった』
グリムが、朔の隣に立った。
二人で、日記を覗き込む。
『八月五日。曇り。
薫さんが、本を貸してくれた。
「僕が帰ってくるまで、預かっていて」と言った。
帰ってくる。その言葉を、何度も噛みしめた。
帰ってくる。帰ってくる。
お願いだから、帰ってきて』
朔の指が、頁をめくる。
『八月七日。雨。
薫さんに会えなかった。
雨だから。きっと、雨だから。
胸が苦しい。息ができない。
会いたい。会いたい。会いたい』
グリムが、小さく舌打ちした。
「おい、これ」
「ええ」
朔の声は、低かった。
「恋文ですね。日記の形をした、恋文です」
遠くで、襖が軋む音がした。
ひたり。ひたり。
花嫁の足音が、近づいている。
「急げよ、メガネ」
グリムが本棚の隙間から廊下を窺った。
「あと何冊だ」
「もう少しです」
朔は頁をめくる手を速めた。
*
頁が進むにつれて、文字が乱れていった。
丸みが消え、角ばり、震え始める。
インクの染みが増え、紙が波打っている。
涙の跡だ。六十年前の、少女の涙。
『八月九日。
明日、薫さんが発つ。
駅まで見送りに行く。
笑顔で送り出さなければ。
それが、銃後の女の務めだから。
泣いてはいけない。取り乱してはいけない。
死ぬ覚悟を決めた人の邪魔を、してはいけない』
朔の眼鏡の奥で、光が揺れた。
『でも。
でも、本当は。
行かないでほしい。
死なないでほしい。
私を、置いていかないでほしい』
文字が、途切れていた。
涙で滲み、判読できない。
ただ、何度も同じ言葉が繰り返されている。
『行かないで』
『行かないで』
『行かないで』
*
「見送りの日か」
グリムが、次の頁を指した。
朔は、躊躇した。
この先を読めば、静子の「傷」に触れることになる。
六十年間、誰にも見せなかった傷口に。
それでも、朔は頁をめくった。
『八月十日。晴れ。
駅は、人でいっぱいだった。
出征する兵士たち。見送る家族たち。
万歳の声。日の丸の波。
薫さんは、笑っていた。
いつもと同じ、穏やかな笑顔で。
私も、笑った。
「行ってらっしゃい」と言った。
「元気でね」と言った。
「待っています」と言った。
綺麗な言葉だけを、並べた。
薫さんは、手を振った。
汽車が動き出した。
窓から手を振る薫さんの姿が、どんどん小さくなっていく。
私は、最後まで笑っていた。
涙は、一滴もこぼさなかった。
汽車が見えなくなるまで、ずっと。
手を、振り続けた』
朔が、日記を閉じた。
「ここで、終わっています」
「終わり?」
「この日以降、日記は書かれていません」
グリムの眉が寄った。
「じゃあ、薫って奴は」
「帰ってこなかったのでしょう」
朔の声は、静かだった。
「そして静子様は、六十年間、あの日の駅に立ち続けている」
*
「分かったぞ」
グリムが、拳を握った。
「あのババアは、この日記の続きを書いてるんだ」
「続き?」
「考えてみろよ。現実じゃ『行ってらっしゃい』しか言えなかった」
グリムの目が、鋭くなった。
「でも本の中なら、何だって言える。何だってできる」
朔は、頷いた。
「ええ。だから彼女は物語を書いた」
「薫を閉じ込めて、永遠に一緒にいるために」
「いいえ」
朔の声が、わずかに震えた。
「言いたかった言葉を、言うためです」
*
朔は、日記を見つめた。
「彼女は『行かないで』と言いたかった」
「だから物語の中で、薫を引き留めた」
「ええ。でも、それは」
朔の指が、白紙の結末ページに触れた。
「永遠に『行かないで』と言い続けることと同じです」
グリムの顔が、歪んだ。
「だから結末が書けねぇのか」
「結末を書けば、別れが来る」
朔は、窓のない書庫を見回した。
「彼女は別れを拒んだ。だから永遠の地獄を選んだ」
「本人は天国だと思ってるけどな」
「ええ」
朔の声が、苦い。
「愛しているからこそ、さよならを言わなければならない」
その言葉を口にした瞬間、朔の胸が軋んだ。
自分はどうだった。
さよならを言えたか。言わずに、燃やしたのではないか。
「そんなの」
グリムの声で、朔は我に返った。
「彼女には分からなかった。六十年間、ずっと」
*
天井が、軋んだ。
朔とグリムが、同時に見上げる。
書庫の天井に、亀裂が走っていた。
黒い液体が、染み出してくる。
「来やがったか」
グリムが、身構えた。
亀裂が広がる。木材が裂け、本棚が揺れる。
そして。
天井が、崩れ落ちた。
*
黒い根が、降り注いだ。
無数の触手のように。蔦のように。血管のように。
天井から垂れ下がり、床を這い、壁を覆っていく。
「うわっ」
グリムが飛び退いた。
だが、遅かった。
根の一本が、足首に絡みついている。
「グリム!」
「離れろ、メガネ!」
グリムが叫んだ瞬間、朔の腕にも根が巻きついた。
冷たい。湿っている。そして、生きている。
脈打つように、蠢いている。
天井の穴から、人影が降りてきた。
逆さまに。
髪を振り乱して。
白無垢が、血のように赤く染まっている。
*
「見つけた」
静子の声が、書庫に響いた。
その姿は、もはや老婆ではなかった。
顔の半分が、黒い根に覆われている。
木の皮のように硬く、血管のように脈打つ。
根は額から頬へ、頬から首へと広がり、白無垢の襟元に食い込んでいる。
片方の目だけが、狂気の光を宿して輝いている。
髪は振り乱され、蛇のように宙を這う。
白無垢は血のように赤黒く染まり、裾からは無数の根が伸びている。
美しい老婦人の面影は、どこにもなかった。
そこにいるのは、鬼女だった。
「私の日記。私の記憶」
静子が、ゆっくりと床に降り立った。
彼女の体と、この世界が、完全に一体化し始めていた。
「見たのね」
静子の声が、震えた。
「私の恥を。私の弱さを。私の」
その片目が、涙を流した。
「私の、本当の気持ちを」
*
「静子様」
朔が、根に絡め取られながら言った。
「あなたは」
「黙りなさい!」
静子が、叫んだ。
根が締まる。朔の腕に、激痛が走った。
骨が軋む音がする。
「綺麗な思い出だったのに」
静子の顔が、歪んだ。
「綺麗な別れだったのに。私は最後まで、笑っていられたのに」
「静子、様」
「なのに、なのに、なのに」
静子の髪が、逆立った。
根が蠢き、書庫全体が震え始める。
「あなたたちが来て、全部台無しにした!」
*
グリムが、歯を食いしばった。
「くそっ、この」
足首の根を引きちぎろうとする。
だが、根は増殖し続けている。
膝まで。腰まで。胸まで。
「おい、メガネ! なんか打開策は」
「今、考えています」
「考えてる場合か!」
グリムの首に、根が巻きついた。
呼吸が止まる。視界が暗くなる。
「グリム!」
朔が叫んだ。
だが、朔自身も動けない。
両腕と両足が、完全に拘束されている。
白紙の結末ページが、指先から滑り落ちそうになった。
「それを、渡しなさい」
静子が、ゆっくりと近づいてきた。
「そのページを、破り捨てなさい」
「お断りします」
朔の声は、まだ冷静だった。
「これは、あなたが書くべきページです」
「書かない」
静子の目が、燃えた。
「書いたら、薫さんがいなくなる。私から、いなくなってしまう」
「もう、いなくなっているのではないですか」
朔の言葉に、静子の動きが止まった。
「あなたの薫様は、六十年前に」
「黙れ!」
*
根が、朔の首を絞めた。
息ができない。視界が白くなる。
それでも、朔は静子を見つめ続けた。
「殺してやる」
静子の声が、低く響いた。
「薫さんを奪おうとする者は、全員」
その時。
黒い水が、静子の顔に叩きつけられた。
*
「がっ」
静子が、顔を押さえた。
黒い水が、目に入った。口に入った。
彼女の動きが、一瞬だけ止まる。
朔は、その光景を見た。
薫が、いた。
崩れかけた体で。空洞の目で。
それでも必死に、静子にしがみついている。
彼の体は溶けかけていた。腕は泥のように崩れ、足は黒い水たまりになっている。
それでも。
最後の力を振り絞って、静子を止めていた。
「薫、さん」
静子が、呆然と呟いた。
「どう、して」
薫が、朔を見た。
空洞の目が、必死に何かを訴えている。
その口が、動いた。
『逃げて』
水泡が弾ける。
『早く』
喉から黒い水が溢れる。
『書かせて』
朔は、理解した。
薫は静子を止めているのではない。
朔に時間を与えているのだ。
結末を書かせるための、時間を。
薫の口が、また動いた。
『もう、いいんだ』
*
薫の体が、限界だった。
これ以上、形を保てない。
それでも。
薫が、静子を抱きしめた。
崩れる体で。溶けていく腕で。
六十年間、言えなかった言葉を伝えるように。
『泣いて、いいんだ』
静子の体が、震えた。
「薫さん、何を」
『あの日、僕も本当は』
薫の空洞の目から、黒い涙が流れた。
『行きたくなかった』
*
静子の目が、見開かれた。
「嘘」
グリムが、小さく息を呑んだ。
薫の空洞に、涙が浮かんでいる。
六十年間、泣けなかった涙が。
『嘘じゃない』
薫の声は、もはや水音ではなかった。
かすれた、若い男の声。
六十年前の、あの日の声。
『行きたくなかった。君のそばにいたかった』
「でも、あなたは笑っていた」
『君も、笑っていた』
薫が、静子の頬に触れた。
『僕たちは、お互いに嘘をついていたんだ』
静子の顔から、血の気が引いた。
「嘘」
『綺麗な別れなんて、いらなかった』
薫の体が、崩れ始める。
『僕は君に、泣いてほしかった。引き留めてほしかった』
*
静子の拘束が、緩んだ。
根が萎れ、力を失っていく。
朔は地面に落ち、激しく咳き込んだ。
「メガネ!」
グリムが駆け寄る。
首の跡が赤く腫れているが、動ける。
「大丈夫です」
朔は、立ち上がった。
そして、白紙のページを拾い上げた。
静子は、その場に崩れ落ちていた。
薫を抱きしめたまま。
いや、薫だったものを。
彼の体は、黒い水になって溶けていく。
静子の腕の中で、ゆっくりと。
*
「薫さん」
静子が、嗚咽を漏らした。
「嫌。消えないで。また、いなくなるの」
『いなくならないよ』
薫の声が、遠くなっていく。
『でも、もう終わりにしよう』
「終わりになんて」
『六十年も、一緒にいられたじゃないか』
薫の輪郭が、曖昧になっていく。
『もう十分だよ。僕は、幸せだった』
「私は、まだ」
『静子』
その名前を呼ばれて、静子の体が震えた。
『書いてくれ。僕たちの結末を』
*
朔が、静子の前に膝をついた。
「静子様」
朔の手には、白紙のページがある。
「これが、あなたの最後の頁です」
静子は、涙で濡れた顔を上げた。
「書いたら、薫さんが」
「いいえ」
朔は、首を横に振った。
「薫様は、もうここにはいません」
静子の目から、新しい涙が溢れた。
「でも、あなたの中には、います」
「私の、中」
「六十年間、あなたは薫様を忘れなかった」
朔の声が、少しだけ柔らかくなった。
「それこそが、本当の『永遠』ではないですか」
*
静子の手が、震えていた。
「私は、何を書けばいいの」
「六十年前、駅で、本当は何を言いたかったのですか」
朔の声が、大きくなった。
「『行ってらっしゃい』ですか。『元気でね』ですか」
「そう言ったわ。綺麗な言葉を」
「違うはずです」
朔が、立ち上がった。
「あなたが本当に言いたかった言葉は、そんな綺麗なものではなかったはずです」
静子の体が、震えた。
「六十年間、喉の奥で腐らせてきた言葉があるでしょう」
朔の視線が、床に落ちた一本のペンを捉えた。
静子のものだろう。記憶の書庫に漂着したのだ。
朔はそれを拾い上げ、静子に差し出した。
朱色ではない。ありふれた万年筆。
だが、彼女の人生を綴ってきたペンだ。
「それを、書きなさい」
静子の目に、遠い日の光景が蘇る。
汽車の窓から、手を振る薫の姿。
どんどん小さくなっていく。
消えていく。
二度と、戻ってこない。
*
「行かないで」
静子が、呟いた。
「死なないで」
涙が、頬を伝う。
「私を、置いていかないで」
六十年間、喉の奥で腐らせてきた言葉。
やっと、声になった。
「書きなさい」
朔の声が、静かに響いた。
「それが、あなたの結末です」
*
静子の手が、ペンを握った。
震えている。だが、確かに握っている。
白紙のページに、ペン先が触れる。
一文字。また一文字。
涙で滲む。だが、書き続ける。
遠くで、雨音が止んだ。
六十年ぶりの、静寂だった。
グリムが、朔の隣に立った。
「これで、終わるのか」
「いいえ」
朔は、静子の背中を見つめた。
「始まるのです。彼女の、本当の別れが」
紙が朽ちている。六十年という歳月が、記憶を腐らせようとしていた。
それでも、朔は慎重に頁を開いた。
「おい、どれを読むんだ」
絣の袖を捲り上げたグリムが、本棚を見回した。
書生姿は湿気を吸って重い。丸眼鏡が曇っている。
何百冊もの日記が、埃を被って並んでいる。
どれも同じ装丁。同じ厚さ。同じ沈黙。
「古いものから順に。答えは、始まりにあるはずです」
朔は背表紙の日付を確認した。
昭和十七年。十八年。十九年。
その手が、止まった。
「昭和十九年、八月」
グリムの顔が強張る。
「終戦の、一年前か」
*
頁を開くと、少女の文字が躍っていた。
丸みを帯びた筆跡。インクの滲み。
八十代の老婆ではない。十代の、少女の手だ。
朔は、声に出して読み始めた。
『八月三日。晴れ。
薫さんと、川辺で会った。
来週には出征だというのに、いつもと同じ顔をしていた。
笑っていた。私も、笑った。
笑うしか、できなかった』
グリムが、朔の隣に立った。
二人で、日記を覗き込む。
『八月五日。曇り。
薫さんが、本を貸してくれた。
「僕が帰ってくるまで、預かっていて」と言った。
帰ってくる。その言葉を、何度も噛みしめた。
帰ってくる。帰ってくる。
お願いだから、帰ってきて』
朔の指が、頁をめくる。
『八月七日。雨。
薫さんに会えなかった。
雨だから。きっと、雨だから。
胸が苦しい。息ができない。
会いたい。会いたい。会いたい』
グリムが、小さく舌打ちした。
「おい、これ」
「ええ」
朔の声は、低かった。
「恋文ですね。日記の形をした、恋文です」
遠くで、襖が軋む音がした。
ひたり。ひたり。
花嫁の足音が、近づいている。
「急げよ、メガネ」
グリムが本棚の隙間から廊下を窺った。
「あと何冊だ」
「もう少しです」
朔は頁をめくる手を速めた。
*
頁が進むにつれて、文字が乱れていった。
丸みが消え、角ばり、震え始める。
インクの染みが増え、紙が波打っている。
涙の跡だ。六十年前の、少女の涙。
『八月九日。
明日、薫さんが発つ。
駅まで見送りに行く。
笑顔で送り出さなければ。
それが、銃後の女の務めだから。
泣いてはいけない。取り乱してはいけない。
死ぬ覚悟を決めた人の邪魔を、してはいけない』
朔の眼鏡の奥で、光が揺れた。
『でも。
でも、本当は。
行かないでほしい。
死なないでほしい。
私を、置いていかないでほしい』
文字が、途切れていた。
涙で滲み、判読できない。
ただ、何度も同じ言葉が繰り返されている。
『行かないで』
『行かないで』
『行かないで』
*
「見送りの日か」
グリムが、次の頁を指した。
朔は、躊躇した。
この先を読めば、静子の「傷」に触れることになる。
六十年間、誰にも見せなかった傷口に。
それでも、朔は頁をめくった。
『八月十日。晴れ。
駅は、人でいっぱいだった。
出征する兵士たち。見送る家族たち。
万歳の声。日の丸の波。
薫さんは、笑っていた。
いつもと同じ、穏やかな笑顔で。
私も、笑った。
「行ってらっしゃい」と言った。
「元気でね」と言った。
「待っています」と言った。
綺麗な言葉だけを、並べた。
薫さんは、手を振った。
汽車が動き出した。
窓から手を振る薫さんの姿が、どんどん小さくなっていく。
私は、最後まで笑っていた。
涙は、一滴もこぼさなかった。
汽車が見えなくなるまで、ずっと。
手を、振り続けた』
朔が、日記を閉じた。
「ここで、終わっています」
「終わり?」
「この日以降、日記は書かれていません」
グリムの眉が寄った。
「じゃあ、薫って奴は」
「帰ってこなかったのでしょう」
朔の声は、静かだった。
「そして静子様は、六十年間、あの日の駅に立ち続けている」
*
「分かったぞ」
グリムが、拳を握った。
「あのババアは、この日記の続きを書いてるんだ」
「続き?」
「考えてみろよ。現実じゃ『行ってらっしゃい』しか言えなかった」
グリムの目が、鋭くなった。
「でも本の中なら、何だって言える。何だってできる」
朔は、頷いた。
「ええ。だから彼女は物語を書いた」
「薫を閉じ込めて、永遠に一緒にいるために」
「いいえ」
朔の声が、わずかに震えた。
「言いたかった言葉を、言うためです」
*
朔は、日記を見つめた。
「彼女は『行かないで』と言いたかった」
「だから物語の中で、薫を引き留めた」
「ええ。でも、それは」
朔の指が、白紙の結末ページに触れた。
「永遠に『行かないで』と言い続けることと同じです」
グリムの顔が、歪んだ。
「だから結末が書けねぇのか」
「結末を書けば、別れが来る」
朔は、窓のない書庫を見回した。
「彼女は別れを拒んだ。だから永遠の地獄を選んだ」
「本人は天国だと思ってるけどな」
「ええ」
朔の声が、苦い。
「愛しているからこそ、さよならを言わなければならない」
その言葉を口にした瞬間、朔の胸が軋んだ。
自分はどうだった。
さよならを言えたか。言わずに、燃やしたのではないか。
「そんなの」
グリムの声で、朔は我に返った。
「彼女には分からなかった。六十年間、ずっと」
*
天井が、軋んだ。
朔とグリムが、同時に見上げる。
書庫の天井に、亀裂が走っていた。
黒い液体が、染み出してくる。
「来やがったか」
グリムが、身構えた。
亀裂が広がる。木材が裂け、本棚が揺れる。
そして。
天井が、崩れ落ちた。
*
黒い根が、降り注いだ。
無数の触手のように。蔦のように。血管のように。
天井から垂れ下がり、床を這い、壁を覆っていく。
「うわっ」
グリムが飛び退いた。
だが、遅かった。
根の一本が、足首に絡みついている。
「グリム!」
「離れろ、メガネ!」
グリムが叫んだ瞬間、朔の腕にも根が巻きついた。
冷たい。湿っている。そして、生きている。
脈打つように、蠢いている。
天井の穴から、人影が降りてきた。
逆さまに。
髪を振り乱して。
白無垢が、血のように赤く染まっている。
*
「見つけた」
静子の声が、書庫に響いた。
その姿は、もはや老婆ではなかった。
顔の半分が、黒い根に覆われている。
木の皮のように硬く、血管のように脈打つ。
根は額から頬へ、頬から首へと広がり、白無垢の襟元に食い込んでいる。
片方の目だけが、狂気の光を宿して輝いている。
髪は振り乱され、蛇のように宙を這う。
白無垢は血のように赤黒く染まり、裾からは無数の根が伸びている。
美しい老婦人の面影は、どこにもなかった。
そこにいるのは、鬼女だった。
「私の日記。私の記憶」
静子が、ゆっくりと床に降り立った。
彼女の体と、この世界が、完全に一体化し始めていた。
「見たのね」
静子の声が、震えた。
「私の恥を。私の弱さを。私の」
その片目が、涙を流した。
「私の、本当の気持ちを」
*
「静子様」
朔が、根に絡め取られながら言った。
「あなたは」
「黙りなさい!」
静子が、叫んだ。
根が締まる。朔の腕に、激痛が走った。
骨が軋む音がする。
「綺麗な思い出だったのに」
静子の顔が、歪んだ。
「綺麗な別れだったのに。私は最後まで、笑っていられたのに」
「静子、様」
「なのに、なのに、なのに」
静子の髪が、逆立った。
根が蠢き、書庫全体が震え始める。
「あなたたちが来て、全部台無しにした!」
*
グリムが、歯を食いしばった。
「くそっ、この」
足首の根を引きちぎろうとする。
だが、根は増殖し続けている。
膝まで。腰まで。胸まで。
「おい、メガネ! なんか打開策は」
「今、考えています」
「考えてる場合か!」
グリムの首に、根が巻きついた。
呼吸が止まる。視界が暗くなる。
「グリム!」
朔が叫んだ。
だが、朔自身も動けない。
両腕と両足が、完全に拘束されている。
白紙の結末ページが、指先から滑り落ちそうになった。
「それを、渡しなさい」
静子が、ゆっくりと近づいてきた。
「そのページを、破り捨てなさい」
「お断りします」
朔の声は、まだ冷静だった。
「これは、あなたが書くべきページです」
「書かない」
静子の目が、燃えた。
「書いたら、薫さんがいなくなる。私から、いなくなってしまう」
「もう、いなくなっているのではないですか」
朔の言葉に、静子の動きが止まった。
「あなたの薫様は、六十年前に」
「黙れ!」
*
根が、朔の首を絞めた。
息ができない。視界が白くなる。
それでも、朔は静子を見つめ続けた。
「殺してやる」
静子の声が、低く響いた。
「薫さんを奪おうとする者は、全員」
その時。
黒い水が、静子の顔に叩きつけられた。
*
「がっ」
静子が、顔を押さえた。
黒い水が、目に入った。口に入った。
彼女の動きが、一瞬だけ止まる。
朔は、その光景を見た。
薫が、いた。
崩れかけた体で。空洞の目で。
それでも必死に、静子にしがみついている。
彼の体は溶けかけていた。腕は泥のように崩れ、足は黒い水たまりになっている。
それでも。
最後の力を振り絞って、静子を止めていた。
「薫、さん」
静子が、呆然と呟いた。
「どう、して」
薫が、朔を見た。
空洞の目が、必死に何かを訴えている。
その口が、動いた。
『逃げて』
水泡が弾ける。
『早く』
喉から黒い水が溢れる。
『書かせて』
朔は、理解した。
薫は静子を止めているのではない。
朔に時間を与えているのだ。
結末を書かせるための、時間を。
薫の口が、また動いた。
『もう、いいんだ』
*
薫の体が、限界だった。
これ以上、形を保てない。
それでも。
薫が、静子を抱きしめた。
崩れる体で。溶けていく腕で。
六十年間、言えなかった言葉を伝えるように。
『泣いて、いいんだ』
静子の体が、震えた。
「薫さん、何を」
『あの日、僕も本当は』
薫の空洞の目から、黒い涙が流れた。
『行きたくなかった』
*
静子の目が、見開かれた。
「嘘」
グリムが、小さく息を呑んだ。
薫の空洞に、涙が浮かんでいる。
六十年間、泣けなかった涙が。
『嘘じゃない』
薫の声は、もはや水音ではなかった。
かすれた、若い男の声。
六十年前の、あの日の声。
『行きたくなかった。君のそばにいたかった』
「でも、あなたは笑っていた」
『君も、笑っていた』
薫が、静子の頬に触れた。
『僕たちは、お互いに嘘をついていたんだ』
静子の顔から、血の気が引いた。
「嘘」
『綺麗な別れなんて、いらなかった』
薫の体が、崩れ始める。
『僕は君に、泣いてほしかった。引き留めてほしかった』
*
静子の拘束が、緩んだ。
根が萎れ、力を失っていく。
朔は地面に落ち、激しく咳き込んだ。
「メガネ!」
グリムが駆け寄る。
首の跡が赤く腫れているが、動ける。
「大丈夫です」
朔は、立ち上がった。
そして、白紙のページを拾い上げた。
静子は、その場に崩れ落ちていた。
薫を抱きしめたまま。
いや、薫だったものを。
彼の体は、黒い水になって溶けていく。
静子の腕の中で、ゆっくりと。
*
「薫さん」
静子が、嗚咽を漏らした。
「嫌。消えないで。また、いなくなるの」
『いなくならないよ』
薫の声が、遠くなっていく。
『でも、もう終わりにしよう』
「終わりになんて」
『六十年も、一緒にいられたじゃないか』
薫の輪郭が、曖昧になっていく。
『もう十分だよ。僕は、幸せだった』
「私は、まだ」
『静子』
その名前を呼ばれて、静子の体が震えた。
『書いてくれ。僕たちの結末を』
*
朔が、静子の前に膝をついた。
「静子様」
朔の手には、白紙のページがある。
「これが、あなたの最後の頁です」
静子は、涙で濡れた顔を上げた。
「書いたら、薫さんが」
「いいえ」
朔は、首を横に振った。
「薫様は、もうここにはいません」
静子の目から、新しい涙が溢れた。
「でも、あなたの中には、います」
「私の、中」
「六十年間、あなたは薫様を忘れなかった」
朔の声が、少しだけ柔らかくなった。
「それこそが、本当の『永遠』ではないですか」
*
静子の手が、震えていた。
「私は、何を書けばいいの」
「六十年前、駅で、本当は何を言いたかったのですか」
朔の声が、大きくなった。
「『行ってらっしゃい』ですか。『元気でね』ですか」
「そう言ったわ。綺麗な言葉を」
「違うはずです」
朔が、立ち上がった。
「あなたが本当に言いたかった言葉は、そんな綺麗なものではなかったはずです」
静子の体が、震えた。
「六十年間、喉の奥で腐らせてきた言葉があるでしょう」
朔の視線が、床に落ちた一本のペンを捉えた。
静子のものだろう。記憶の書庫に漂着したのだ。
朔はそれを拾い上げ、静子に差し出した。
朱色ではない。ありふれた万年筆。
だが、彼女の人生を綴ってきたペンだ。
「それを、書きなさい」
静子の目に、遠い日の光景が蘇る。
汽車の窓から、手を振る薫の姿。
どんどん小さくなっていく。
消えていく。
二度と、戻ってこない。
*
「行かないで」
静子が、呟いた。
「死なないで」
涙が、頬を伝う。
「私を、置いていかないで」
六十年間、喉の奥で腐らせてきた言葉。
やっと、声になった。
「書きなさい」
朔の声が、静かに響いた。
「それが、あなたの結末です」
*
静子の手が、ペンを握った。
震えている。だが、確かに握っている。
白紙のページに、ペン先が触れる。
一文字。また一文字。
涙で滲む。だが、書き続ける。
遠くで、雨音が止んだ。
六十年ぶりの、静寂だった。
グリムが、朔の隣に立った。
「これで、終わるのか」
「いいえ」
朔は、静子の背中を見つめた。
「始まるのです。彼女の、本当の別れが」
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