その結末、書き換えます。 ~黄昏迷宮図書館の「物語」修復記録~

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第14話 朱色の花葬、終わりの始まり

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 雨音が、止んでいる。

 静子のペンが、白紙の上を滑っていた。
 震える指先。滲む涙。それでも、止まらない。
 六十年間、書けなかった結末が、今ようやく形になろうとしている。

 朔は、その背中を見つめていた。

 老婦人の手は、もう鬼女のそれではなかった。
 黒い根は萎れ、皮膚から剥がれ落ちている。
 白髪が肩に垂れ、和服の襟元がかすかに乱れている。
 ただの、八十歳を超えた女性の背中だった。

「おい」

 グリムが、小声で囁いた。

「あのババア、何書いてんだ」

「静粛に」

 朔は、静かに制した。

「今は、見守るだけです」

          *

 静子のペン先が、止まった。

 最後の一文字を書き終えたのだ。
 彼女の肩が小さく震え、長い息を吐いた。

「……終わったわ」

 その声は、六十年分の疲労を吐き出すように掠れていた。

 朔がゆっくりと近づいた。
 静子の手元を覗き込む。
 白紙だったページに、黒いインクで綴られた文字。

 それは日記ではなかった。
 『朱椿水葬』の、最後の一節だった。

『朱色の椿が、水面に落ちた。

 行かないで。
 死なないで。
 置いていかないで。

 六十年、言えなかった。
 六十年、書けなかった。
 だから今、ここに刻む。

 愛していた。
 今も、愛している。
 だから。

 さようなら。

 椿が沈む。
 涙とともに。
                 完』

          *

 最後の文字が、光を帯びた。

 朔の目が見開かれる。
 ページから立ち昇る淡い燐光が、静子の指先を包んでいく。

「なんだ、これ」

 グリムが身構えた。

 床を覆っていた黒い根が、脈打ち始めた。
 どくん。どくん。
 心臓のように。命のように。
 黒い血管が、色を変えていく。

 黒から、緑へ。
 緑から、深い紅へ。

「……椿だ」

 朔が呟いた。

 根の先端に、蕾が膨らんでいた。
 音もなく、一輪が綻ぶ。
 朱色の花弁。鮮やかな、命の色。

 また一輪。
 また一輪。
 また一輪。

 次々と、椿が咲いていく。
 床を。壁を。天井を。
 黒く腐っていた書庫が、朱色の花畑に変わっていく。

          *

「うわ……」

 グリムが言葉を失った。

 腐臭が消えている。
 代わりに、甘く澄んだ香りが満ちていた。
 椿の香り。雨上がりの土の匂い。そして、かすかな線香の残り香。

「葬式の匂いだ」

 グリムが鼻を鳴らした。

「でも、嫌な感じじゃねぇ」

「ええ」

 朔は、咲き乱れる椿を見上げた。

「これが、『朱椿水葬』の本当の姿なのでしょう」

 タイトルの意味が、ようやく分かった。
 水に沈んだ記憶を、朱色の花で弔う。
 それが、この本の真の結末だったのだ。

          *

 静子が立ち上がった。

 足元がふらついている。朔が手を差し伸べようとしたが、静子は首を横に振った。

「大丈夫よ」

 彼女は、花畑の向こうを見つめていた。

 朔もその視線を追った。
 椿の花の間に、淡い光が揺れていた。

 人の形をした、光。
 薫の輪郭。穏やかな微笑みの残像。
 さっき黒い水に溶けてしまった彼の、最後の欠片だった。
 静子が結末を書いたことで、記憶の底から浮かび上がってきたのだ。

「薫さん」

 静子の声が震えた。

 光の中の薫は、何も言わなかった。
 ただ、静子に向かって深く一礼した。
 言葉はなくとも、伝わるものがあった。

          *

「行くのね」

 静子が微笑んだ。

 涙は、もう流れていなかった。
 穏やかな、老婦人の顔だった。

「今度は、ちゃんと言えるわ」

 静子は一歩を踏み出した。
 椿の花を踏まないように。光に向かって。

「行ってらっしゃい、あなた」

 その声には、嘘がなかった。
 六十年前、駅のホームで言えなかった本当の別れの言葉。
 「行かないで」を書き尽くしたからこそ、言える言葉。

「……待っていなくても、いいのよ」

 静子の声がかすかに震えた。

「私は、もう少しこっちで頑張るから」

 光がゆっくりと薄れていった。
 椿の花弁が舞い上がり、薫の輪郭を包み込む。
 最後に見えたのは、穏やかな笑顔だった。

          *

 グリムが鼻をすすった。

「……っせぇな、花粉が」

「花粉、ですか」

 朔の声に、わずかな皮肉が混じった。

「椿は花粉症の原因にはなりませんが」

「うるせぇよ、知るかそんなの」

 グリムが乱暴に袖で目元を拭った。

「つーか、いちいち突っ込むなよな」

「事実を述べたまでです」

 その仕草を、朔は見ないふりをした。

 静子は、光が消えた場所をしばらく見つめていた。
 やがて、ゆっくりと振り返った。

「司書さん」

「はい」

「ありがとう」

 静子の目は澄んでいた。
 狂気の光は、もうどこにもない。

「私、六十年も迷惑をかけてしまったわね」

「迷惑とは思っていません」

 朔は眼鏡を押し上げた。

「ただ、六十年は少々長すぎましたね。締め切りを守るのも、作家の務めですよ」

 静子が小さく笑った。

「相変わらず、意地悪な司書さんね」

「お褒めに預かり光栄です」

          *

 世界が崩れ始めていた。

 天井の椿が、光の粒子に変わっていく。
 壁が薄れ、床が透けていく。
 本が、閉じようとしている。

「そろそろですね」

 朔が懐から朱色のペンを取り出した。
 『朱入れ』のためのペン。
 司書としての、最後の仕事。

「静子様」

 朔は静子の前に立った。
 一呼吸、間を置いた。

「よく、書き上げました」

 その言葉は皮肉ではなかった。
 慇懃でもなかった。
 ただ静かに、しかし確かな敬意を込めて。

「では、幕を下ろしましょう」

 朔が空中にペンを走らせた。
 朱色のインクが、光となって文字を描く。

『完』

          *

 光が三人を包み込んだ。

 椿の花弁が渦を巻き、視界が白く染まっていく。
 朔は目を閉じた。

 その瞬間、彼の脳裏に別の光景が浮かんだ。

 燃える紙。
 くすぶる灰。
 自分の手で火をつけた、結末のない原稿。

 静子は、書き上げた。
 六十年という歳月をかけて、それでも最後まで。

 朔の手が無意識に握りしめられた。
 爪が掌に食い込む。

          *

 気がつくと、黄昏迷宮図書館の床に倒れていた。

 古書とコーヒーの香り。
 かすかに埃っぽい、懐かしい空気。
 時計の振り子だけが、静寂を刻んでいる。

「いってぇ……」

 グリムが床から起き上がった。
 書生姿は消え、いつものパーカーとヘッドホン姿に戻っている。

「おい、メガネ。生きてるか」

「ええ、なんとか」

 朔も体を起こした。
 首と腕の傷がまだ痛む。だが、致命傷ではない。

 静子はソファの上で眠っていた。
 穏やかな寝顔。
 八十年を生きてきた老婦人の、安らかな寝息。

          *

 朔はテーブルの上を見た。

 『朱椿水葬』が置かれている。
 もう濡れていなかった。
 黒いカビも、腐臭もない。
 ただの、少し古びた本になっている。

 朔はそっと表紙に触れた。

「長い雨宿りでしたね」

 本は何も答えなかった。
 だが、朔にはわかった。
 この本は、ようやく眠りについたのだ。

 グリムが朔の隣に立った。

「なあ」

「なんですか」

「あのババア、目が覚めたらどうなるんだ」

 朔は静子の寝顔を見つめた。

「……覚えているかどうかは、わかりません」

「は?」

「潜書から戻った依頼人の中には、本の中での記憶を失う方もいます」

 グリムの顔が複雑に歪んだ。

「じゃあ、薫との別れも」

「忘れているかもしれません。覚えているかもしれません」

 朔は静かに言った。

「どちらにせよ、彼女はもう囚われていない。それだけは確かです」

          *

 静子が目を開けた。

「……ここは」

「黄昏迷宮図書館です」

 朔は淡々と答えた。

「ようやくお目覚めですか、静子様」

 静子はゆっくりと体を起こした。
 辺りを見回す。本棚。ランプの灯り。コーヒーの香り。

「私、どうして」

 その目が、テーブルの上の本を捉えた。

「……『朱椿水葬』」

 静子の声が震えた。

「私の、本」

 彼女はそっと本を手に取った。
 古びた表紙を、指でなぞる。

「……書いたのね、私」

「覚えていらっしゃいますか」

 朔の問いに、静子は小さく頷いた。

「夢のようだけれど。でも、確かに」

 彼女の目から、一筋の涙がこぼれた。

「さようなら、って。言えたのよね」

 朔はハンカチを差し出した。

「ええ。まあ、及第点でしょう」

 静子が目を丸くした。

「……相変わらずね」

「何がでしょう」

「褒めているのよ、それ」

「さあ、どうでしょうね」

 朔は眼鏡を押し上げた。
 その口元が、かすかに緩んでいた。

          *

 静子は涙を拭い、本を胸に抱いた。

「この本、持って帰っていいかしら」

「どうぞ」

 朔は頷いた。

「それはあなたの本です。あなた以外に、持つ資格はありません」

 静子は、朔の顔をじっと見つめた。
 その視線が、朔の目を捉えて離さない。

「……何か」

「いいえ」

 静子は首を横に振った。
 だが、その目には奇妙な確信があった。

「ただ、あなたの目が気になっただけ」

「私の、目」

「ええ」

 静子の声が、少しだけ柔らかくなった。

「書けない人間の顔は、わかるの。六十年も抱えていたから」

 朔の眼鏡に手が伸びた。レンズを拭うふりをして、視線を逸らす。

「……買いかぶりです」

「そうかしら」

 静子は穏やかに微笑んだ。

「無理に話さなくていいわ。ただ、ひとつだけ」

 彼女は本を抱きしめたまま、朔を見上げた。

「燃やしても、灰は残るのよ」

 朔の手が止まった。
 眼鏡を持ったまま、動けない。

「……何の話でしょう」

「さあ、何かしら」

 静子はそれ以上何も言わなかった。
 ただ、穏やかな笑みを浮かべたまま、立ち上がった。

          *

 静子を送り出した後、朔はカウンターに戻った。

 グリムがソファでだらしなく伸びている。

「なあ、メガネ」

「なんですか」

「あのババア、最後になんか言ってただろ。お前に」

 朔はカップを棚に戻しながら答えた。

「……気のせいでしょう」

「嘘つけ」

 グリムが片目を開けた。

「お前、あの本の中で何か思い出してただろ。つーか、帰ってきてからずっと顔色悪ぃぞ」

「そうですか」

「そうだよ」

 グリムがソファから身を起こした。

「細けぇことはわかんねーけどさ、お前のことくらいわかるんだぜ。なんか引っかかってんだろ」

 朔の手が一瞬だけ止まった。
 それから、淹れたてのコーヒーを一口含んだ。
 苦味が喉を通り過ぎていく。

「……隠しているつもりはありません」

「じゃあ話せよ」

「話す必要がないだけです」

 グリムが舌打ちした。

「ったく、相変わらずひねくれてんな」

「お褒めに預かり光栄です」

「褒めてねぇよ」

 グリムは再びソファに沈み込んだ。

「まあいいや。お前が話したくなったら、聞いてやる」

「……そうですか」

「おう。だから安心して悩んでろ」

 グリムが大きな欠伸をした。

「……寝る。起こすなよ」

 数秒後には、寝息が聞こえ始めた。
 いや。
 朔はちらりとグリムを見た。
 寝息にしては、やけに規則正しい。

 朔は小さく息をついて、窓の外に視線を戻した。

          *

 静子の言葉が、まだ耳に残っている。

『書けない人間の顔は、わかるの』
『燃やしても、灰は残るのよ』

 朔は自分の掌を見つめた。
 さっき、無意識に握りしめた手。
 爪の跡がうっすらと残っている。

 静子は六十年かけて結末を書いた。

 朔は懐の朱色のペンに触れた。
 冷たい金属の感触。
 他人の本に「完」を与える道具。

 自分の原稿には、まだ何も書けていない。

          *

 窓の外で、夜が白み始めていた。

 東の空がかすかに明るくなっている。
 時計の振り子だけが、静寂を刻み続けている。

 次の依頼が来るまで、束の間の静寂。

 朔は空になったカップを置いた。
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