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第15話 蔵書目録は語らない
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傘立ての隅に、忘れ物がひとつ。
朔は黒塗りの柄に指を触れた。
和傘だった。
蛇の目模様に、かすかな椿の刺繍。
静子が持ってきたものだ。
「メガネ、またそれ見てんの」
グリムがソファから首だけ起こした。
ヘッドホンを片耳だけ外している。
「静粛に」
朔は傘を元に戻した。
「見ていたのではありません。考えていただけです」
「同じだろ」
「違いますね」
グリムが鼻を鳴らした。
「で、何考えてたんだよ」
朔は眼鏡を押し上げた。
窓の外に視線を向ける。
雨上がりの空は灰色だった。
水たまりが、光を反射している。
「持ち主は、長い雨宿りを終えましたから」
「は?」
「独り言です」
*
午後になって、朔はカウンターに戻った。
白い封筒が、置かれていた。
いつの間に。誰が。
この図書館には、郵便受けなどない。
だが、必要なものは届く。それがこの場所だ。
朔は封筒を手に取った。
封を切る。
白い便箋。丁寧な筆跡。
差出人の名前を見て、朔の手が止まった。
「なんだそれ」
グリムが覗き込んでくる。
「静子様のお孫さんからです」
朔は便箋を広げた。
声には出さず、目で追う。
『司書様
突然のお手紙、失礼いたします。
先日は祖母がお世話になりました。
祖母は穏やかに過ごしております。
年齢のせいか、最近のことはすぐに忘れてしまうのですが、
不思議なことに「素敵な図書館に行った夢を見た」と、
嬉しそうに繰り返しております。
あの本を、大切そうに膝の上に置いて。
「私、ちゃんと書いたのよ」と、誇らしげに。
どうか、お礼をお伝えしたく。
祖母の笑顔を、久しぶりに見ることができました。』
*
封筒の中に、写真が一枚。
縁側に座る静子の姿だった。
膝の上に『朱椿水葬』を置いている。
柔らかな日差し。
穏やかな笑顔。
グリムが肩越しに顔を出した。
「あ、ババア」
「静子様、です」
朔は写真を丁寧に封筒に戻した。
「なあ。あのババア、本の中のこと覚えてんのか」
「さあ」
朔は便箋を折り畳んだ。
「夢だと思っているのかもしれませんね」
「それでいいのかよ」
「ええ」
朔はカウンターの引き出しを開けた。
便箋をそっとしまう。
「書いたこと、それだけ覚えていれば。それでいい」
朔は引き出しを閉じた。
指先が、ほんの少しだけ温かかった。
*
夕方になって、珍しいことが起きた。
グリムがちらりと朔を見た。
朔はカップを手にしたまま、窓の外を眺めている。
コーヒーは、もう冷めているだろう。
「……掃除するぞ!」
グリムが突然、箒を持って立ち上がった。
朔が顔を上げる。
「どういう風の吹き回しですか」
「うるせぇ。ここ埃っぽいんだよ」
「そうですか」
「そうだよ。お前の心が湿気てるからだ」
朔の眉がわずかに動いた。
「私の心と埃に、何の関係が」
「知るか!」
グリムは本棚の間に入っていった。
箒で床を掃きながら、何かを探すように視線を走らせている。
朔はカップを置いた。
その背中を、静かに見つめる。
*
グリムの掃除は、妙に念入りだった。
本棚の裏を覗く。
カウンターの下を確認する。
窓際の隅を箒で突く。
「何を探しているんですか」
朔が声をかけた。
グリムの動きが止まる。
「べ、別に。掃除だっつってんだろ」
「嘘が下手ですね」
「うるせぇ」
グリムは箒を握りしめたまま、朔を睨んだ。
「……燃えカスとか、残ってねぇかなって」
朔の表情が固まった。
「お前が昔燃やしたっていう本。その灰とか、どっかにあるんじゃねぇかって」
静寂が落ちた。
時計の振り子だけが、音を刻んでいる。
「ないですよ」
朔の声は平坦だった。
「灰も残していません。完全に」
「だからだよ」
グリムが箒を下ろした。
「完全に燃やしたって言うから、逆に気になるんだよ」
「意味がわかりませんね」
「わかんなくていい」
グリムはソファに箒を投げ出した。
「細けぇことはわかんねーけどさ。お前、あのババアの言葉、気にしてんだろ」
朔は答えなかった。
「灰は残るとか、なんとか」
「……聞いていたんですか」
「聞こえたんだよ。勝手に」
グリムはソファにどさりと座った。
「だから、探してやろうと思ったんだ。灰があるなら、見つけてやろうって」
朔は眼鏡を外した。
レンズを布で拭く。
その手が、わずかに震えている。
「……ありがとう」
声は小さかった。
「あ? 聞こえねぇよ」
「聞こえなくていいです」
「なんだよそれ」
*
夜になった。
グリムはソファで寝息を立てている。
今度は本当の寝息だった。
朔はカウンターに座り、蔵書目録を開いた。
万年筆を手に取る。
業務日誌をつけるためだ。
ペン先が紙に触れた。
止まった。
目録の最後のページ。
そこに、見覚えのない一行が追加されている。
朔の知らない筆跡ではなかった。
むしろ、よく知っている。
あの黒いコートの男。
影に覆われた顔。
編集者の、筆跡だった。
*
朔の喉が鳴った。
書かれているのは、タイトルだった。
ひとつだけ。
朔が自分の手で燃やした、あの本の名前。
『████の灰塵』
タイトルの横に、小さな文字が添えられている。
『準備はいいかい? 次は、君の番だ。』
朔の手が、万年筆を握りしめた。
力が入りすぎて、軸が軋む。
静子の声が蘇る。
『燃やしても、灰は残るのよ』
編集者の声が重なる。
『お前の燃やした本も、いつか結末を迎えに来るよ』
朔は目を閉じた。
逃げたい。
その衝動が、胸の奥で暴れている。
あの時と同じだ。
火をつけて、灰にして、なかったことにしたい。
だが。
静子の笑顔が浮かんだ。
六十年かけて、結末を書いた老婦人。
「さようなら」を言えた、あの穏やかな顔。
深く、息を吸う。
吐く。
目を開けた。
「……上等です」
声は静かだった。
だが、震えてはいなかった。
「その結末、私が書きましょう」
万年筆を置く。
軸に、細いひびが入っていた。
*
窓の外で、また雨が降り始めていた。
傘立ての隅で、静子の和傘が静かに佇んでいる。
蛇の目の模様。
椿の刺繍。
朔は蔵書目録を閉じた。
雨音が、少しずつ強くなっていく。
朔は黒塗りの柄に指を触れた。
和傘だった。
蛇の目模様に、かすかな椿の刺繍。
静子が持ってきたものだ。
「メガネ、またそれ見てんの」
グリムがソファから首だけ起こした。
ヘッドホンを片耳だけ外している。
「静粛に」
朔は傘を元に戻した。
「見ていたのではありません。考えていただけです」
「同じだろ」
「違いますね」
グリムが鼻を鳴らした。
「で、何考えてたんだよ」
朔は眼鏡を押し上げた。
窓の外に視線を向ける。
雨上がりの空は灰色だった。
水たまりが、光を反射している。
「持ち主は、長い雨宿りを終えましたから」
「は?」
「独り言です」
*
午後になって、朔はカウンターに戻った。
白い封筒が、置かれていた。
いつの間に。誰が。
この図書館には、郵便受けなどない。
だが、必要なものは届く。それがこの場所だ。
朔は封筒を手に取った。
封を切る。
白い便箋。丁寧な筆跡。
差出人の名前を見て、朔の手が止まった。
「なんだそれ」
グリムが覗き込んでくる。
「静子様のお孫さんからです」
朔は便箋を広げた。
声には出さず、目で追う。
『司書様
突然のお手紙、失礼いたします。
先日は祖母がお世話になりました。
祖母は穏やかに過ごしております。
年齢のせいか、最近のことはすぐに忘れてしまうのですが、
不思議なことに「素敵な図書館に行った夢を見た」と、
嬉しそうに繰り返しております。
あの本を、大切そうに膝の上に置いて。
「私、ちゃんと書いたのよ」と、誇らしげに。
どうか、お礼をお伝えしたく。
祖母の笑顔を、久しぶりに見ることができました。』
*
封筒の中に、写真が一枚。
縁側に座る静子の姿だった。
膝の上に『朱椿水葬』を置いている。
柔らかな日差し。
穏やかな笑顔。
グリムが肩越しに顔を出した。
「あ、ババア」
「静子様、です」
朔は写真を丁寧に封筒に戻した。
「なあ。あのババア、本の中のこと覚えてんのか」
「さあ」
朔は便箋を折り畳んだ。
「夢だと思っているのかもしれませんね」
「それでいいのかよ」
「ええ」
朔はカウンターの引き出しを開けた。
便箋をそっとしまう。
「書いたこと、それだけ覚えていれば。それでいい」
朔は引き出しを閉じた。
指先が、ほんの少しだけ温かかった。
*
夕方になって、珍しいことが起きた。
グリムがちらりと朔を見た。
朔はカップを手にしたまま、窓の外を眺めている。
コーヒーは、もう冷めているだろう。
「……掃除するぞ!」
グリムが突然、箒を持って立ち上がった。
朔が顔を上げる。
「どういう風の吹き回しですか」
「うるせぇ。ここ埃っぽいんだよ」
「そうですか」
「そうだよ。お前の心が湿気てるからだ」
朔の眉がわずかに動いた。
「私の心と埃に、何の関係が」
「知るか!」
グリムは本棚の間に入っていった。
箒で床を掃きながら、何かを探すように視線を走らせている。
朔はカップを置いた。
その背中を、静かに見つめる。
*
グリムの掃除は、妙に念入りだった。
本棚の裏を覗く。
カウンターの下を確認する。
窓際の隅を箒で突く。
「何を探しているんですか」
朔が声をかけた。
グリムの動きが止まる。
「べ、別に。掃除だっつってんだろ」
「嘘が下手ですね」
「うるせぇ」
グリムは箒を握りしめたまま、朔を睨んだ。
「……燃えカスとか、残ってねぇかなって」
朔の表情が固まった。
「お前が昔燃やしたっていう本。その灰とか、どっかにあるんじゃねぇかって」
静寂が落ちた。
時計の振り子だけが、音を刻んでいる。
「ないですよ」
朔の声は平坦だった。
「灰も残していません。完全に」
「だからだよ」
グリムが箒を下ろした。
「完全に燃やしたって言うから、逆に気になるんだよ」
「意味がわかりませんね」
「わかんなくていい」
グリムはソファに箒を投げ出した。
「細けぇことはわかんねーけどさ。お前、あのババアの言葉、気にしてんだろ」
朔は答えなかった。
「灰は残るとか、なんとか」
「……聞いていたんですか」
「聞こえたんだよ。勝手に」
グリムはソファにどさりと座った。
「だから、探してやろうと思ったんだ。灰があるなら、見つけてやろうって」
朔は眼鏡を外した。
レンズを布で拭く。
その手が、わずかに震えている。
「……ありがとう」
声は小さかった。
「あ? 聞こえねぇよ」
「聞こえなくていいです」
「なんだよそれ」
*
夜になった。
グリムはソファで寝息を立てている。
今度は本当の寝息だった。
朔はカウンターに座り、蔵書目録を開いた。
万年筆を手に取る。
業務日誌をつけるためだ。
ペン先が紙に触れた。
止まった。
目録の最後のページ。
そこに、見覚えのない一行が追加されている。
朔の知らない筆跡ではなかった。
むしろ、よく知っている。
あの黒いコートの男。
影に覆われた顔。
編集者の、筆跡だった。
*
朔の喉が鳴った。
書かれているのは、タイトルだった。
ひとつだけ。
朔が自分の手で燃やした、あの本の名前。
『████の灰塵』
タイトルの横に、小さな文字が添えられている。
『準備はいいかい? 次は、君の番だ。』
朔の手が、万年筆を握りしめた。
力が入りすぎて、軸が軋む。
静子の声が蘇る。
『燃やしても、灰は残るのよ』
編集者の声が重なる。
『お前の燃やした本も、いつか結末を迎えに来るよ』
朔は目を閉じた。
逃げたい。
その衝動が、胸の奥で暴れている。
あの時と同じだ。
火をつけて、灰にして、なかったことにしたい。
だが。
静子の笑顔が浮かんだ。
六十年かけて、結末を書いた老婦人。
「さようなら」を言えた、あの穏やかな顔。
深く、息を吸う。
吐く。
目を開けた。
「……上等です」
声は静かだった。
だが、震えてはいなかった。
「その結末、私が書きましょう」
万年筆を置く。
軸に、細いひびが入っていた。
*
窓の外で、また雨が降り始めていた。
傘立ての隅で、静子の和傘が静かに佇んでいる。
蛇の目の模様。
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朔は蔵書目録を閉じた。
雨音が、少しずつ強くなっていく。
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