【完結】別れさせ屋の私が、絶対に離婚しない弁護士と「恋愛禁止」の契約結婚をするワケ

チャビューヘ

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第2章 第10話「怪物の食卓と、偽りの妻の反逆」

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 廊下が、やけに長い。

 私たちは使用人に先導されて、薄暗い屋敷の奥へと進んでいた。
 壁には古い肖像画が等間隔で並んでいる。
 どの顔も厳めしく、こちらを睨みつけているようだった。

「……すごい絵の数ね」

 私は何気なく呟いた。
 慧は答えない。
 その横顔が、廊下を進むごとに強張っていく。

 まるで刑場へ向かう囚人のようだ。
 そんな比喩が、頭をよぎった。

 やがて、巨大な扉の前で足が止まった。
 使用人が無言で扉を開ける。

 息を呑んだ。

 そこは、信じられないほど広いダイニングルームだった。
 天井には煌びやかなシャンデリア。
 長いテーブルには白いクロスが敷かれ、銀の食器が整然と並んでいる。

 そして、その奥。
 テーブルの最も遠い席に、一人の老人が座っていた。

 鳳凰時康。

 背筋はまっすぐに伸び、白髪は後ろに撫でつけられている。
 年齢を感じさせない鋭い眼光が、こちらを捉えた。
 いや、違う。
 その視線は私を通り抜け、慧にだけ向けられていた。

「……座れ」

 たった一言。
 それだけで、部屋の空気が凍りついた。

 使用人たちが機械のように動き、私たちの椅子を引く。
 私は慧の隣に腰を下ろした。
 心臓が、静かに速度を上げている。

 これが、契約結婚の本丸。
 この老人を納得させなければ、全てが水の泡になる。

 私は背筋を伸ばし、完璧な微笑みを顔に貼り付けた。

「お招きいただき、ありがとうございます。お義父様」

 時康は私を一瞥もしなかった。
 まるで、そこに誰もいないかのように。

 なるほど。
 最初から、そういう態度で来るわけね。

 私は内心で舌打ちしながら、微笑みを崩さなかった。

-----

 料理が運ばれてきた。

 前菜はフォアグラのテリーヌ。
 メインは和牛のロースト。
 どれも一流レストラン顔負けの豪華さだ。

 でも、味なんて全く分からなかった。
 空気が重すぎて、喉を通る気がしない。

 時康はナイフとフォークを優雅に動かしながら、口を開いた。

「……で」

 その声が、静かに響く。

「お前はどこの馬の骨だ」

 私に向けられた言葉だった。
 ようやく、こちらを見たらしい。

「佐倉と申します。東京の出身でございます」

「学歴は」

「お茶の水女子大学を卒業いたしました」

「家柄は」

「祖父の代から続く、小さな呉服店を営んでおります」

 全て、事前に慧と用意した偽りの経歴。
 私は淀みなく答えた。

 時康の目が、かすかに細まった。

「……呉服屋風情が、よくもまあ」

 その声には、隠そうともしない蔑みが滲んでいた。

「慧の女房を気取るとは。身の程知らずにも程がある」

 テーブルの下で、拳を握りしめた。
 笑顔。笑顔を崩すな。

「恐れ入ります。ただ、私は身の程を弁えた上で、慧さんをお支えしたいと考えております」

「支える?」

 時康が、初めて笑った。
 いや、それは笑いというより、嘲りだった。

「出来損ないを支えて、どうなる」

 心臓が、跳ねた。
 出来損ない。
 この老人は今、慧のことをそう呼んだ。

 私は慧の顔を盗み見た。
 その横顔は、石のように動かない。
 ただ、握られたフォークの先が、かすかに震えている。

「……お義父様」

 私は声を絞り出した。

「慧さんは法曹界で大変なご活躍を」

「弁護士などという卑しい真似事を、いつまで続ける気だ」

 時康の声が、私の言葉を遮った。

「一族の血を引きながら、法廷で口先だけの商売か。恥を知れ」

 空気が、さらに重くなる。
 使用人たちは壁際に立ったまま、微動だにしない。

 私は唇を噛んだ。

 このクソジジイ。
 身内をここまで侮辱して、何が楽しいんだ。

 心の中で毒づきながら、私は笑顔を保ち続けた。
 今はまだ、反撃の時じゃない。
 タイミングを見極めろ。

-----

 メインディッシュが終わり、デザートが運ばれてきた。

 時康の矛先は、完全に慧へと移っていた。

「近頃の仕事ぶりはどうだ」

 その声に、温かみは一切ない。

「……順調です」

 慧の声が、かすれている。
 いつもの冷徹な弁護士の面影がない。

「順調? お前の言う順調など、たかが知れている」

 時康はワインを一口含み、続けた。

「お前は昔から、何をやっても中途半端だった。勉強も、剣道も、ピアノも。全て、一族の恥さらしだ」

 慧の手が、震え始めた。
 ナイフとフォークがカチャカチャと音を立てる。

 時康の目が、その音に向けられた。

「……食事のマナーすら、まともにできんのか」

 その声が、冷たく響く。

「これだから『あの女』の子は」

 慧の顔から、血の気が引いた。
 フォークを握る手が、止まった。

 「あの女」。
 その言葉が、何を指すのか分からない。
 でも、慧の反応を見れば、地雷だということだけは分かった。

 時康は鼻で笑った。

「あの女も、お前も、同じだ。一族の面汚し。汚点。存在そのものが」

「お義父様」

 私の声が、自分でも驚くほど静かに響いた。

 時康が、初めて私を見た。
 その目には、虫けらを見るような冷たさがある。

「……何だ」

「先ほどから伺っておりましたが」

 私は微笑んだ。
 背筋が凍るほど、美しく。

「少々、老眼が進んでらっしゃるのでは?」

 空気が、凍りついた。
 使用人たちの目が、一斉に私に向けられる。

 時康の眉が、わずかに動いた。

「……何だと?」

「お気づきでないようですので、申し上げます」

 私は慧の手の上に、そっと自分の手を重ねた。
 震えが、少しずつ収まっていく。

「彼は一族の汚点ではありません」

 私は時康の目を、真正面から見据えた。

「私が選んだ、世界で一番誇り高い男性です」

 沈黙が落ちた。
 シャンデリアの光が、静かに揺れている。

 時康の表情が、読めない。
 怒っているのか、呆れているのか。

「……ほう」

 やがて、その唇が動いた。

「威勢だけはいいな」

 その声には、怒りがなかった。
 代わりに、奇妙な色が混じっている。

 興味。
 この老人は今、私に興味を持っている。

「面白い女だ」

 時康はナプキンをテーブルに置き、立ち上がった。

「合格だ。少なくとも、退屈しのぎにはなりそうだ」

 そう言い残して、ダイニングルームを出ていった。
 使用人たちが、無言でその後に続く。

 広い部屋に、私と慧だけが取り残された。

-----

「……君は」

 慧の声が、震えていた。

「どうして、あんなことを」

 私は肩をすくめた。

「言ったでしょ。私は800万で雇われたプロよ」

 慧は呆然と、私の顔を見つめている。
 その目が、複雑な色を帯びていた。

「でも、あんな物言いをしたら」

「怒らせた? むしろ興味を持たせたと思うけど」

 私は立ち上がり、ドレスの裾を払った。

「あの手のジジイは、従順な人形には興味がないの。歯向かってくる相手の方が、面白がるタイプよ」

 慧は黙っていた。
 その手が、まだかすかに震えている。

 私は彼の前に立ち、その目を覗き込んだ。

「ねえ、慧」

「……何ですか」

「あのジジイが何を言おうと、私はあんたの味方よ」

 慧の目が、大きく見開かれた。

「契約だからじゃない。今日、あんたが侮辱されてるのを見て、本気で腹が立ったの」

 自分でも驚くほど、素直な言葉が出てきた。
 演技じゃない。
 これは、私の本音だ。

 慧は何も言わなかった。
 ただ、その目が、静かに潤んでいるように見えた。

「……ありがとう、ございます」

 かすれた声が、小さく響いた。

 私は微笑んで、彼の手を取った。

「さ、部屋に戻りましょ。明日も戦いは続くんだから」

 慧は無言で頷いた。
 その手が、私の手を握り返す力が、いつもより強かった。

-----

 廊下を歩きながら、私は考えていた。

 鳳凰時康。
 あの老人は、一筋縄ではいかない。
 今日の「合格」は、本当の勝利じゃない。
 ただの「興味を持たれた」に過ぎない。

 そして、「あの女」という言葉。
 慧の過去に、何があったのか。

 この洋館には、まだ秘密が眠っている。

 私は慧の横顔を盗み見た。
 その表情は、まだ硬い。
 でも、さっきよりは少しだけ、血の気が戻っているように見えた。

 大丈夫。
 どんな敵が来ても、私が守ってみせる。

 そう心の中で呟いて、私は慧の手を強く握りしめた。
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