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2章 溺愛侵食編
第10話「B級の怪物」
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岩が砕けた。
中層のボスエリア。天井まで6メートルある広間の中央で、体長3メートルの岩甲蟲が甲殻を振り上げている。B級の討伐対象。通常なら4人パーティーで20分かかる相手だ。
千歳はその巨体の懐に、ひとりで飛び込んでいた。
「はっ」
短い呼気。千歳の右足が岩甲蟲の前脚を蹴り上げた。身体強化型のスキルが脚に集中し、甲殻ごと関節が折れる音が響く。岩甲蟲がバランスを崩した一瞬、千歳の体が沈む。
左の拳が、甲殻の隙間。首と胴の接合部に入った。
マナが拳から放射状に弾けて、岩甲蟲の頭部が内側から砕けた。巨体がゆっくりと横倒しになる。床に当たる衝撃で砂ぼこりが舞った。
30秒。
想はARゴーグル越しにその光景を見ていた。配信は開始している。登録者が11万を超えた翌日。千歳との初の共闘配信だ。
共闘といっても、想は何もしていない。千歳が「見ててください!」と駆け出してから、ボスが倒れるまで30秒。想がやったことは壁際に立って邪魔にならないことだけだった。
「お前さ」
想は砂ぼこりの中で呆然としている。
「俺いらなくない?」
千歳が振り返る。汗で額に前髪が張りついていたが、笑顔には翳りがない。
「何言ってるんですか! 想さんが見てくれてるから力が出るんです!」
───────────────────
草:30秒で草
†漆黒の剣†:B級ボスを素手で!?
DJケンタ_B級:おいB級ってレベルじゃねえぞ
しろくま_22:探索者歴1ヶ月って本当?
深層好き_A:身体強化の純度がおかしい。A級の上位互換だ
推しが重い:推しのために強くなった女、ガチすぎる
N_o_a:想さんの隣はわたしの場所です。
───────────────────
千歳は配信カメラの存在を気にしていない。視聴者の反応も見ていない。ただ想の近くにいたいだけだ。ボスを倒したのも、想に「すごい」と言ってもらいたいだけだ。動機がそれしかない。
「想さん、水飲みますか?」
「いや、自分の持ってるし」
「これ、私のタオルです。使ってください」
「汗かいたのお前だろ。自分で使え」
「想さんが使ったタオル、返してもらえたら嬉しいです」
「何を言ってんだ」
距離感がおかしい。隣に立つと肩が触れるぐらい近い。想が一歩引くと千歳も一歩詰める。無意識なのか意識的なのか判別がつかない。
コメント欄には「距離www」「ガチ恋勢やべえ」「ノアちゃん大丈夫?」が流れていた。
配信を続けながら中層を進む。千歳の戦い方を観察する余裕ができた。身体強化に無駄がない。脚に集中させたスキルを、次の瞬間には腕に切り替える。切り替えの速度が異常だった。普通の身体強化型は一箇所への集中に3秒かかる。千歳はそれをコンマ数秒で処理している。
「お前、誰かに戦い方教わったのか」
「独学です! 想さんの配信で研究しました!」
「俺E級だぞ。参考になるわけないだろ」
「想さんの動きには理論があるんです。避け方とか、間合いの取り方とか。私、全部メモしてます」
千歳がポケットから小さなノートを取り出した。ぎっしりと文字が詰まっている。想の配信の日付と、戦闘シーンのタイムスタンプ。動きの分析。弱点の推測。
想はノートを手に取って数ページめくり、黙って返した。
「すごいな」とは言わなかった。言えなかった。これだけの才能と熱量を、自分ひとりの配信に注ぎ込んでいる人間を前にして、軽い言葉が出てこない。
配信を終えてダンジョンを出ると、入口に見覚えのない女性が立っていた。
三十代半ば。眼鏡。グレーのコートの下に白いブラウス。手にはタブレット端末を抱えている。想を見つけると、穏やかに微笑んだ。
「はじめまして、柊さん。探索者協会研究部門の梶原紗耶です」
DMの相手だった。一週間以上放置していた返信先の顔を、今になって初めて見る。
「ああ、返事しなくて悪いな」
「いいえ。突然のメッセージでしたから。今日は直接ご挨拶に伺いました」
梶原の声は落ち着いている。テレビで見る協会職員の堅さがない。どちらかというと、大学の先生が研究室に学生を招くときの空気に似ていた。
千歳が想の横から顔を出す。
「この人、誰ですか?」
「協会の研究者だ。俺に用があるらしい」
「想さんに用がある人は、全員チェックします」
「お前はお前で怖いこと言うな」
梶原が千歳を見て、少し目を細めた。品定めのような視線ではない。興味深いものを見つけた研究者の目だ。
「白峰千歳さんですね。B級昇格の速度、研究部門でも話題になっています」
「そうなんですか? 想さんの配信を見てたら強くなっちゃって」
梶原は笑って受け流した。それから想に向き直る。
「柊さん。よければ、協会の研究施設を見学しませんか。ノアさんについて、お話ししたいことがあります」
「ノアさん」と呼んだ。名前を知っている。配信を見たのか、独自に調べたのか。想は少し考えてから頷いた。
梶原の車で30分。都心のビルの地下にある研究施設は、想が想像していたよりずっと整っていた。
白い壁。柔らかい照明。奥にはガラス越しに分析機器が並んでいる。梶原がタブレットを操作しながら、ひとつずつ説明した。
「ここではダンジョンコアから発生するマナの波形を分析しています。コアの安定性を測るのが主な目的です」
モニターにデータ項目が並ぶ。想はざっと目を通した。マナ密度、波形周期、空間安定度、構造維持係数。
その中にひとつ、他と毛色の違う項目があった。
「エネルギー変換効率?」
「ああ、それは副次的な指標だ。コアがマナをどれくらい効率的に処理しているかの数値。安定性の参考データだな」
梶原の説明は淀みなかった。想は「ふうん」と流した。研究のことは詳しくない。梶原が味方だというなら、任せてもいい。
「柊さん。ノアさんのようなケースは、世界で初めてです。自我を持つダンジョンコア。私はノアさんを守りたいんです」
梶原の目が想を真っすぐ見ている。眼鏡の奥の瞳に、嘘の色は見えなかった。
「協力っていうと?」
「定期的にデータを取らせてください。ノアさんの安定性を科学的に証明できれば、協会の中でもノアさんの存在を認めさせる根拠になります」
想は腕を組んで考えた。ノアの立場は不安定だ。ダンジョンコアが自我を持っているなどと公言すれば、排除対象にされかねない。科学的な裏付けがあれば、守る材料になる。
「わかった。ノアにも聞いてみる」
「ありがとうございます」
梶原が微笑んだ。穏やかで、信頼に足る笑顔だった。
研究施設を出て、想はダンジョンに戻った。千歳はすでに帰っている。「明日も来ます!」と手を振って去っていった。毎日来る気らしい。
ダンジョンの中層。壁面に手を触れると、ノアの声が聞こえた。
「想さん。今日は楽しかったですか」
「楽しいっていうか、疲れた。千歳のやつ、元気すぎる」
「白峰さん」
ノアの声に感情が乗らない。千歳の名前を呼ぶときだけ、温度がひとつ下がる。
「白峰さんは、ずっと想さんの壁を見ていました」
「壁?」
「わたしの壁です。想さんの隣に立つとき、壁を背にしていました。わたしの方を向いて」
千歳が壁に話しかけていた場面を思い出す。「ノアさんですよね?」と笑いかけていた、あの朝。
「あいつ、お前のこと気にしてるんだよ。敵意じゃない」
「わかっています。だから困っているんです」
ノアの声が小さくなった。壁面の光苔が不規則に灯っては消える。ノアが処理しきれていない感情を、光が勝手に漏らしている。
「わたしは、想さん以外の人間に興味がありません。でも白峰さんを見ていると、変な感じがします」
「変な感じ?」
「白峰さんが想さんを見る目が、わたしと同じなんです」
想は壁に額をつけたまま黙った。ノアの声が、いつもよりゆっくりだった。
「同じ目をした人間は、排除するべきですか」
「するな」
即答した。ノアの光苔が止まった。
「あいつは敵じゃない。お前と同じ気持ちの人間は、敵じゃない」
ノアは答えなかった。壁面の光がゆっくりと戻り、規則的な明滅に落ち着く。納得なのか保留なのか、想には読めなかった。
ダンジョンを出て、スマホを確認する。DunCastのDMに新着が1件。
「はじめまして。フロンティアプロ代表の財前と申します。柊様の配信活動について、ぜひご相談させてください。あなたの才能を、もっと大きなステージで活かしませんか?」
丁寧な文面。添付された名刺画像には、都内一等地のオフィス住所が載っていた。
梶原に続いて、知らない大人からのメッセージ。有名になるとはこういうことか。
想はDMを閉じて、冬の空を見上げた。星が見えない。街の光が強すぎる。
中層のボスエリア。天井まで6メートルある広間の中央で、体長3メートルの岩甲蟲が甲殻を振り上げている。B級の討伐対象。通常なら4人パーティーで20分かかる相手だ。
千歳はその巨体の懐に、ひとりで飛び込んでいた。
「はっ」
短い呼気。千歳の右足が岩甲蟲の前脚を蹴り上げた。身体強化型のスキルが脚に集中し、甲殻ごと関節が折れる音が響く。岩甲蟲がバランスを崩した一瞬、千歳の体が沈む。
左の拳が、甲殻の隙間。首と胴の接合部に入った。
マナが拳から放射状に弾けて、岩甲蟲の頭部が内側から砕けた。巨体がゆっくりと横倒しになる。床に当たる衝撃で砂ぼこりが舞った。
30秒。
想はARゴーグル越しにその光景を見ていた。配信は開始している。登録者が11万を超えた翌日。千歳との初の共闘配信だ。
共闘といっても、想は何もしていない。千歳が「見ててください!」と駆け出してから、ボスが倒れるまで30秒。想がやったことは壁際に立って邪魔にならないことだけだった。
「お前さ」
想は砂ぼこりの中で呆然としている。
「俺いらなくない?」
千歳が振り返る。汗で額に前髪が張りついていたが、笑顔には翳りがない。
「何言ってるんですか! 想さんが見てくれてるから力が出るんです!」
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草:30秒で草
†漆黒の剣†:B級ボスを素手で!?
DJケンタ_B級:おいB級ってレベルじゃねえぞ
しろくま_22:探索者歴1ヶ月って本当?
深層好き_A:身体強化の純度がおかしい。A級の上位互換だ
推しが重い:推しのために強くなった女、ガチすぎる
N_o_a:想さんの隣はわたしの場所です。
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千歳は配信カメラの存在を気にしていない。視聴者の反応も見ていない。ただ想の近くにいたいだけだ。ボスを倒したのも、想に「すごい」と言ってもらいたいだけだ。動機がそれしかない。
「想さん、水飲みますか?」
「いや、自分の持ってるし」
「これ、私のタオルです。使ってください」
「汗かいたのお前だろ。自分で使え」
「想さんが使ったタオル、返してもらえたら嬉しいです」
「何を言ってんだ」
距離感がおかしい。隣に立つと肩が触れるぐらい近い。想が一歩引くと千歳も一歩詰める。無意識なのか意識的なのか判別がつかない。
コメント欄には「距離www」「ガチ恋勢やべえ」「ノアちゃん大丈夫?」が流れていた。
配信を続けながら中層を進む。千歳の戦い方を観察する余裕ができた。身体強化に無駄がない。脚に集中させたスキルを、次の瞬間には腕に切り替える。切り替えの速度が異常だった。普通の身体強化型は一箇所への集中に3秒かかる。千歳はそれをコンマ数秒で処理している。
「お前、誰かに戦い方教わったのか」
「独学です! 想さんの配信で研究しました!」
「俺E級だぞ。参考になるわけないだろ」
「想さんの動きには理論があるんです。避け方とか、間合いの取り方とか。私、全部メモしてます」
千歳がポケットから小さなノートを取り出した。ぎっしりと文字が詰まっている。想の配信の日付と、戦闘シーンのタイムスタンプ。動きの分析。弱点の推測。
想はノートを手に取って数ページめくり、黙って返した。
「すごいな」とは言わなかった。言えなかった。これだけの才能と熱量を、自分ひとりの配信に注ぎ込んでいる人間を前にして、軽い言葉が出てこない。
配信を終えてダンジョンを出ると、入口に見覚えのない女性が立っていた。
三十代半ば。眼鏡。グレーのコートの下に白いブラウス。手にはタブレット端末を抱えている。想を見つけると、穏やかに微笑んだ。
「はじめまして、柊さん。探索者協会研究部門の梶原紗耶です」
DMの相手だった。一週間以上放置していた返信先の顔を、今になって初めて見る。
「ああ、返事しなくて悪いな」
「いいえ。突然のメッセージでしたから。今日は直接ご挨拶に伺いました」
梶原の声は落ち着いている。テレビで見る協会職員の堅さがない。どちらかというと、大学の先生が研究室に学生を招くときの空気に似ていた。
千歳が想の横から顔を出す。
「この人、誰ですか?」
「協会の研究者だ。俺に用があるらしい」
「想さんに用がある人は、全員チェックします」
「お前はお前で怖いこと言うな」
梶原が千歳を見て、少し目を細めた。品定めのような視線ではない。興味深いものを見つけた研究者の目だ。
「白峰千歳さんですね。B級昇格の速度、研究部門でも話題になっています」
「そうなんですか? 想さんの配信を見てたら強くなっちゃって」
梶原は笑って受け流した。それから想に向き直る。
「柊さん。よければ、協会の研究施設を見学しませんか。ノアさんについて、お話ししたいことがあります」
「ノアさん」と呼んだ。名前を知っている。配信を見たのか、独自に調べたのか。想は少し考えてから頷いた。
梶原の車で30分。都心のビルの地下にある研究施設は、想が想像していたよりずっと整っていた。
白い壁。柔らかい照明。奥にはガラス越しに分析機器が並んでいる。梶原がタブレットを操作しながら、ひとつずつ説明した。
「ここではダンジョンコアから発生するマナの波形を分析しています。コアの安定性を測るのが主な目的です」
モニターにデータ項目が並ぶ。想はざっと目を通した。マナ密度、波形周期、空間安定度、構造維持係数。
その中にひとつ、他と毛色の違う項目があった。
「エネルギー変換効率?」
「ああ、それは副次的な指標だ。コアがマナをどれくらい効率的に処理しているかの数値。安定性の参考データだな」
梶原の説明は淀みなかった。想は「ふうん」と流した。研究のことは詳しくない。梶原が味方だというなら、任せてもいい。
「柊さん。ノアさんのようなケースは、世界で初めてです。自我を持つダンジョンコア。私はノアさんを守りたいんです」
梶原の目が想を真っすぐ見ている。眼鏡の奥の瞳に、嘘の色は見えなかった。
「協力っていうと?」
「定期的にデータを取らせてください。ノアさんの安定性を科学的に証明できれば、協会の中でもノアさんの存在を認めさせる根拠になります」
想は腕を組んで考えた。ノアの立場は不安定だ。ダンジョンコアが自我を持っているなどと公言すれば、排除対象にされかねない。科学的な裏付けがあれば、守る材料になる。
「わかった。ノアにも聞いてみる」
「ありがとうございます」
梶原が微笑んだ。穏やかで、信頼に足る笑顔だった。
研究施設を出て、想はダンジョンに戻った。千歳はすでに帰っている。「明日も来ます!」と手を振って去っていった。毎日来る気らしい。
ダンジョンの中層。壁面に手を触れると、ノアの声が聞こえた。
「想さん。今日は楽しかったですか」
「楽しいっていうか、疲れた。千歳のやつ、元気すぎる」
「白峰さん」
ノアの声に感情が乗らない。千歳の名前を呼ぶときだけ、温度がひとつ下がる。
「白峰さんは、ずっと想さんの壁を見ていました」
「壁?」
「わたしの壁です。想さんの隣に立つとき、壁を背にしていました。わたしの方を向いて」
千歳が壁に話しかけていた場面を思い出す。「ノアさんですよね?」と笑いかけていた、あの朝。
「あいつ、お前のこと気にしてるんだよ。敵意じゃない」
「わかっています。だから困っているんです」
ノアの声が小さくなった。壁面の光苔が不規則に灯っては消える。ノアが処理しきれていない感情を、光が勝手に漏らしている。
「わたしは、想さん以外の人間に興味がありません。でも白峰さんを見ていると、変な感じがします」
「変な感じ?」
「白峰さんが想さんを見る目が、わたしと同じなんです」
想は壁に額をつけたまま黙った。ノアの声が、いつもよりゆっくりだった。
「同じ目をした人間は、排除するべきですか」
「するな」
即答した。ノアの光苔が止まった。
「あいつは敵じゃない。お前と同じ気持ちの人間は、敵じゃない」
ノアは答えなかった。壁面の光がゆっくりと戻り、規則的な明滅に落ち着く。納得なのか保留なのか、想には読めなかった。
ダンジョンを出て、スマホを確認する。DunCastのDMに新着が1件。
「はじめまして。フロンティアプロ代表の財前と申します。柊様の配信活動について、ぜひご相談させてください。あなたの才能を、もっと大きなステージで活かしませんか?」
丁寧な文面。添付された名刺画像には、都内一等地のオフィス住所が載っていた。
梶原に続いて、知らない大人からのメッセージ。有名になるとはこういうことか。
想はDMを閉じて、冬の空を見上げた。星が見えない。街の光が強すぎる。
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