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2章 溺愛侵食編
第14話「人生で初めて」
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白い天井。
施設の天井はいつも白かった。壁も白い。シーツも白い。誕生日にケーキが出たことはない。誰かが「おめでとう」と言ったこともない。
12月の夜、消灯時間を過ぎた部屋の中で、千歳はベッドに仰向けになっていた。6歳。隣のベッドには別の子が眠っている。その子の枕元には、親が面会のときに持ってきたぬいぐるみがあった。
千歳の枕元には何もなかった。
いらない子だった。最初から、ずっと。
配信の画面が光ったのは、16年後のことだ。
ダンジョンの中層。想と千歳は並んで通路を進んでいた。
「今日は深めに行くぞ。中層のB区画。前に一回行ったとこの先」
「はい!」
千歳が半歩前を歩いている。想の盾になるポジション。何度注意しても直らない。
───────────────────
草:千歳ちゃんまた前に出てる
†漆黒の剣†:ボディガードかよ
DJケンタ_B級:B区画は罠が多いから気をつけろよ
しろくま_22:登録者20万おめでとう
推しが重い:ソウくんと千歳ちゃんのコンビ好き
N_o_a:想さんの前を歩くのはわたしの仕事です。
───────────────────
通路が狭くなった。天井が低い。壁面の魔石脈が青白く光っている。気温が2度ほど下がった。ノアが温度を調整しきれないエリアだ。
千歳が急に立ち止まった。
「想さん、止まって」
千歳の声が変わっていた。配信のときの明るいトーンではない。低く、鋭い。戦闘時の声だ。
「何かある」
「トラップ?」
「たぶん。床の色が微妙に違います」
千歳が足元を指さした。通路の石畳に、わずかな色の違い。踏めば起動する圧力式のトラップ。中層のB区画に設置されている岩槍型。天井から石の杭が落ちてくるタイプ。当たれば骨が折れる。
「ノア。解除できるか」
壁面の光苔が点滅した。不規則なリズム。解除に手間取っている。このエリアはノアの制御が完全ではないのかもしれない。
5秒。10秒。光苔がまだ不規則に点滅している。
奥から音がした。
岩が擦れる低い振動。通路の先から、中層のモンスターが1体現れた。岩甲蟲。千歳が先日30秒で倒した種だが、この狭い通路では動きが制限される。
岩甲蟲が突進してきた。通路の幅いっぱいに甲殻を広げて、逃げ道をふさいでいる。
「想さん、下がって」
千歳が前に出た。だが通路が狭すぎる。岩甲蟲を避けるには後退するしかない。後退すれば、背後にはトラップがある。
千歳は後退しなかった。
前に踏み込んだ。トラップの圧力板を、自分の足で踏んだ。
「千歳!」
天井から岩の杭が3本、落ちてきた。千歳は踏み込みの勢いで岩甲蟲の懐に入りながら、杭を背中で受けた。1本が左の肩甲骨を打ち、2本目が脇腹をかすめた。鈍い音が通路に反響する。
千歳の体が一瞬たわんだ。だが拳は止まらない。
岩甲蟲の腹部に、渾身の一撃。マナが弾け、岩甲蟲が砕けた。破片が壁にぶつかって散らばる。
千歳が片膝をついた。左肩を右手で押さえている。装備の肩当てにひび。その下の肌に赤い痕。骨は折れていないが、軽傷ではない。
「想さん、大丈夫ですか」
血が滲んでいる肩で、最初に聞いたのがそれか。
想の中で何かが切れた。
「お前が大丈夫じゃねえだろ」
声が出た。怒りの声だった。恐怖が変換された怒り。千歳の血を見た瞬間に、胃の底から湧き上がってきたもの。
「なんで自分から突っ込むんだよ。トラップわかってたのに。避けられただろ。俺が下がれば済んだ話だ」
「想さんの後ろにモンスターが来てたら挟まれてました。だから私が前に」
「だからって自分の体で受けるやつがあるか!」
想の声が通路に響いた。千歳の目が丸くなる。想がこんなに大きな声を出すのを見たことがない。
「死んだらどうすんだ」
千歳の口が開いて、閉じた。何か言おうとして、言葉が出てこない。
想は千歳の前にしゃがんだ。左肩の傷を確認する。打撲と擦過傷。内出血が広がりかけている。応急処置のジェルを塗りながら、手が微かに震えていた。
「お前が怪我する理由なんかないだろ。俺はE級だ。お前のほうがずっと強い。守られる側は俺だよ」
「でも」
「でもじゃない。俺は、お前の命より大事なことなんかねえよ」
千歳が黙った。
想の手がジェルを肩に塗り終える。「痛くないか」と聞こうとして顔を上げたとき、千歳の目から涙が落ちた。
音もなく。頬を伝って、顎から垂れて、ダンジョンの石の床に落ちた。
千歳は泣いていた。
怒られたからではない。怪我が痛いからでもない。
「想さん」
声が震えている。唇を噛んで、それでも止まらない。
「怒ってくれるんですね」
想は手を止めた。
「私のこと心配して、怒ってくれるんですね」
涙が止まらなかった。拭っても拭っても溢れてくる。千歳は両手で顔を覆った。肩が震えている。
「私、ずっと、いらない子だったんです」
声が小さくなった。壁に反射して消える前に、想の耳に届くぎりぎりの音量。
「親がいなくて。施設で育って。友達もいなくて。誰も私のこと心配しなかった。怪我しても、熱を出しても、いなくなっても、誰も気にしなかった」
千歳が顔を上げた。目が赤い。鼻の頭も赤い。涙で前髪が頬に張りついている。
「半年前に想さんの配信を見ました。視聴者3人で、E級で、お金もなくて、それでも笑ってて。お母さんのために、死ぬかもしれないダンジョンに入ってて」
千歳の声が少しだけ強くなった。
「人生で初めて、夢中になれるものができたんです。想さんの配信が。想さんが」
想は何も言えなかった。千歳の涙を見ながら、自分が何を言えばいいのかわからなかった。
「大丈夫」では足りない。「わかる」は嘘になる。想には母親がいる。待っている人がいる。千歳には、それがなかった。
「だから想さんのためなら何でもできる。死ねます。本当に。だって想さんがいなかったら、私はたぶん、何もない人間のままだった」
「千歳」
想の声は静かだった。
「死ぬな」
短い言葉だった。それだけしか出てこなかった。
「お前がいなくなったら、俺が困る。お前に飯作ってもらえなくなるし、ノアと100個対決する相手もいなくなる」
千歳がまだ泣いている。でも唇の端が、ほんの少しだけ上がった。
「俺は、お前を心配する人間だ。だからもう自分から突っ込むな。約束しろ」
「約束」
千歳が涙を拭いて、鼻をすすった。
「約束します。でも想さんが危ないときは、やっぱり前に出ます」
「お前な」
「だって、推しですから」
泣きながら笑っている。涙と笑顔が同時に存在する顔。千歳の人生の大半を占めていた「何もない」時間が、今この瞬間だけ塗り替えられている。
想は立ち上がって、千歳に手を差し伸べた。千歳がその手を取る。引き上げる力に、左肩の傷が軋んだ。千歳は顔をしかめたが、手は離さなかった。
ダンジョンの壁面で、光苔がじっと灯っている。
ノアが見ていた。千歳の涙を。想の怒りを。二人のやりとりの全てを。
光苔の色が、いつもと違った。通常の青白い光ではなく、少しだけ暖かい色味を帯びている。ノアの感情が光の色に漏れている。
排除の対象ではない。無関心の対象でもない。ノアがこの場面に名前をつけるとしたら、それは何だろう。
配信を終えた後。想がダンジョンの壁に手を触れると、ノアの声が聞こえた。
「想さん」
「ん?」
「白峰さんは、嘘をついていません」
御影のときと同じ判定基準。正反対の結論。
「知ってるよ」
「はい。でも、言っておきたかったんです」
ノアの声が小さくなった。光苔がゆっくり明滅する。
「白峰さんを見ていると、わたしの中で何かが動きます。排除したい気持ちではありません。でも何なのか、まだわかりません」
想は壁に額を当てた。石が冷たい。
「ゆっくり考えればいいよ。急がなくていい」
「想さんは優しいですね」
「そうでもない。今日はめちゃくちゃ怒鳴った」
「怒鳴れるのは、優しいからです」
ノアの声が消えた。光苔が穏やかに灯り続けている。
想はダンジョンを出て、夜の空気を吸った。左手にはまだ応急処置のジェルの感触が残っている。千歳の肩に塗ったときの、あの温かさ。
スマホが鳴った。千歳からのメッセージ。
「今日はありがとうございました。想さんに怒ってもらえて、すごく嬉しかったです。左肩は大丈夫です。明日も行きます!」
怒られて嬉しい、と書ける人間は強い。あるいは、それだけ飢えていたのだ。誰かに怒られることに。自分のために声を荒げてくれる人間に。
想はスマホを閉じた。返信は明日でいい。今日はもう、言葉の引き出しが空だった。
施設の天井はいつも白かった。壁も白い。シーツも白い。誕生日にケーキが出たことはない。誰かが「おめでとう」と言ったこともない。
12月の夜、消灯時間を過ぎた部屋の中で、千歳はベッドに仰向けになっていた。6歳。隣のベッドには別の子が眠っている。その子の枕元には、親が面会のときに持ってきたぬいぐるみがあった。
千歳の枕元には何もなかった。
いらない子だった。最初から、ずっと。
配信の画面が光ったのは、16年後のことだ。
ダンジョンの中層。想と千歳は並んで通路を進んでいた。
「今日は深めに行くぞ。中層のB区画。前に一回行ったとこの先」
「はい!」
千歳が半歩前を歩いている。想の盾になるポジション。何度注意しても直らない。
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草:千歳ちゃんまた前に出てる
†漆黒の剣†:ボディガードかよ
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千歳が急に立ち止まった。
「想さん、止まって」
千歳の声が変わっていた。配信のときの明るいトーンではない。低く、鋭い。戦闘時の声だ。
「何かある」
「トラップ?」
「たぶん。床の色が微妙に違います」
千歳が足元を指さした。通路の石畳に、わずかな色の違い。踏めば起動する圧力式のトラップ。中層のB区画に設置されている岩槍型。天井から石の杭が落ちてくるタイプ。当たれば骨が折れる。
「ノア。解除できるか」
壁面の光苔が点滅した。不規則なリズム。解除に手間取っている。このエリアはノアの制御が完全ではないのかもしれない。
5秒。10秒。光苔がまだ不規則に点滅している。
奥から音がした。
岩が擦れる低い振動。通路の先から、中層のモンスターが1体現れた。岩甲蟲。千歳が先日30秒で倒した種だが、この狭い通路では動きが制限される。
岩甲蟲が突進してきた。通路の幅いっぱいに甲殻を広げて、逃げ道をふさいでいる。
「想さん、下がって」
千歳が前に出た。だが通路が狭すぎる。岩甲蟲を避けるには後退するしかない。後退すれば、背後にはトラップがある。
千歳は後退しなかった。
前に踏み込んだ。トラップの圧力板を、自分の足で踏んだ。
「千歳!」
天井から岩の杭が3本、落ちてきた。千歳は踏み込みの勢いで岩甲蟲の懐に入りながら、杭を背中で受けた。1本が左の肩甲骨を打ち、2本目が脇腹をかすめた。鈍い音が通路に反響する。
千歳の体が一瞬たわんだ。だが拳は止まらない。
岩甲蟲の腹部に、渾身の一撃。マナが弾け、岩甲蟲が砕けた。破片が壁にぶつかって散らばる。
千歳が片膝をついた。左肩を右手で押さえている。装備の肩当てにひび。その下の肌に赤い痕。骨は折れていないが、軽傷ではない。
「想さん、大丈夫ですか」
血が滲んでいる肩で、最初に聞いたのがそれか。
想の中で何かが切れた。
「お前が大丈夫じゃねえだろ」
声が出た。怒りの声だった。恐怖が変換された怒り。千歳の血を見た瞬間に、胃の底から湧き上がってきたもの。
「なんで自分から突っ込むんだよ。トラップわかってたのに。避けられただろ。俺が下がれば済んだ話だ」
「想さんの後ろにモンスターが来てたら挟まれてました。だから私が前に」
「だからって自分の体で受けるやつがあるか!」
想の声が通路に響いた。千歳の目が丸くなる。想がこんなに大きな声を出すのを見たことがない。
「死んだらどうすんだ」
千歳の口が開いて、閉じた。何か言おうとして、言葉が出てこない。
想は千歳の前にしゃがんだ。左肩の傷を確認する。打撲と擦過傷。内出血が広がりかけている。応急処置のジェルを塗りながら、手が微かに震えていた。
「お前が怪我する理由なんかないだろ。俺はE級だ。お前のほうがずっと強い。守られる側は俺だよ」
「でも」
「でもじゃない。俺は、お前の命より大事なことなんかねえよ」
千歳が黙った。
想の手がジェルを肩に塗り終える。「痛くないか」と聞こうとして顔を上げたとき、千歳の目から涙が落ちた。
音もなく。頬を伝って、顎から垂れて、ダンジョンの石の床に落ちた。
千歳は泣いていた。
怒られたからではない。怪我が痛いからでもない。
「想さん」
声が震えている。唇を噛んで、それでも止まらない。
「怒ってくれるんですね」
想は手を止めた。
「私のこと心配して、怒ってくれるんですね」
涙が止まらなかった。拭っても拭っても溢れてくる。千歳は両手で顔を覆った。肩が震えている。
「私、ずっと、いらない子だったんです」
声が小さくなった。壁に反射して消える前に、想の耳に届くぎりぎりの音量。
「親がいなくて。施設で育って。友達もいなくて。誰も私のこと心配しなかった。怪我しても、熱を出しても、いなくなっても、誰も気にしなかった」
千歳が顔を上げた。目が赤い。鼻の頭も赤い。涙で前髪が頬に張りついている。
「半年前に想さんの配信を見ました。視聴者3人で、E級で、お金もなくて、それでも笑ってて。お母さんのために、死ぬかもしれないダンジョンに入ってて」
千歳の声が少しだけ強くなった。
「人生で初めて、夢中になれるものができたんです。想さんの配信が。想さんが」
想は何も言えなかった。千歳の涙を見ながら、自分が何を言えばいいのかわからなかった。
「大丈夫」では足りない。「わかる」は嘘になる。想には母親がいる。待っている人がいる。千歳には、それがなかった。
「だから想さんのためなら何でもできる。死ねます。本当に。だって想さんがいなかったら、私はたぶん、何もない人間のままだった」
「千歳」
想の声は静かだった。
「死ぬな」
短い言葉だった。それだけしか出てこなかった。
「お前がいなくなったら、俺が困る。お前に飯作ってもらえなくなるし、ノアと100個対決する相手もいなくなる」
千歳がまだ泣いている。でも唇の端が、ほんの少しだけ上がった。
「俺は、お前を心配する人間だ。だからもう自分から突っ込むな。約束しろ」
「約束」
千歳が涙を拭いて、鼻をすすった。
「約束します。でも想さんが危ないときは、やっぱり前に出ます」
「お前な」
「だって、推しですから」
泣きながら笑っている。涙と笑顔が同時に存在する顔。千歳の人生の大半を占めていた「何もない」時間が、今この瞬間だけ塗り替えられている。
想は立ち上がって、千歳に手を差し伸べた。千歳がその手を取る。引き上げる力に、左肩の傷が軋んだ。千歳は顔をしかめたが、手は離さなかった。
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ノアが見ていた。千歳の涙を。想の怒りを。二人のやりとりの全てを。
光苔の色が、いつもと違った。通常の青白い光ではなく、少しだけ暖かい色味を帯びている。ノアの感情が光の色に漏れている。
排除の対象ではない。無関心の対象でもない。ノアがこの場面に名前をつけるとしたら、それは何だろう。
配信を終えた後。想がダンジョンの壁に手を触れると、ノアの声が聞こえた。
「想さん」
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「知ってるよ」
「はい。でも、言っておきたかったんです」
ノアの声が小さくなった。光苔がゆっくり明滅する。
「白峰さんを見ていると、わたしの中で何かが動きます。排除したい気持ちではありません。でも何なのか、まだわかりません」
想は壁に額を当てた。石が冷たい。
「ゆっくり考えればいいよ。急がなくていい」
「想さんは優しいですね」
「そうでもない。今日はめちゃくちゃ怒鳴った」
「怒鳴れるのは、優しいからです」
ノアの声が消えた。光苔が穏やかに灯り続けている。
想はダンジョンを出て、夜の空気を吸った。左手にはまだ応急処置のジェルの感触が残っている。千歳の肩に塗ったときの、あの温かさ。
スマホが鳴った。千歳からのメッセージ。
「今日はありがとうございました。想さんに怒ってもらえて、すごく嬉しかったです。左肩は大丈夫です。明日も行きます!」
怒られて嬉しい、と書ける人間は強い。あるいは、それだけ飢えていたのだ。誰かに怒られることに。自分のために声を荒げてくれる人間に。
想はスマホを閉じた。返信は明日でいい。今日はもう、言葉の引き出しが空だった。
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