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第一章 舞台の幕が上がるまで

32話 差し出した答えと得られぬ答え

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 「どうして気にかけることができるのか、ね……」

 小さく息を吐き、心の中で自問する。
 何故気にかけることができるのか。それはひとえに、前世の経験があるからだろう。

 貧乏暮らしだったあの頃を、忘れる日など一生来ないと思う。
 ただ毎日を必死に生きて、がむしゃらに走り続けた日々。普通の大学生ではいられず、夜の街に足を踏み入れた。

 夜になればひたすら愛嬌を振りまいて、ときには浴びるほど酒を飲む。
 仕事が終わり朝を迎えても、仕事を忘れて過ごすことなどできやしない。ピコンと鳴るメッセージ受信の知らせに、ため息を吐いたのは数え切れない。

 営業時間以外にも、営業電話やメッセージのやり取りをしなければならなかった。指名客を店に呼ぶため、自分から飽きさせないため、プライベートを犠牲にしてスマートフォンを操作した。

 そんな日々があったからこそ、貴族という枠組みの中に馴染み切れないのだろう。純粋に貴族の生まれとは到底言えないのが、私という人間だ。
 学費のため、生活のためと日夜動き回った。自分が貧困層と呼ばれる人間であると理解もしていた。

 そんな前世の記憶がある限りは、貴族らしく振る舞うことはできても、生粋の貴族になることはできないのだ。

 とはいえ、そんなことを説明できるわけもない。前世があるので、などいえば医者を呼ばれるのが関の山だ。
 ならば、それを避けて説明するしかないだろう。

 「結局のところ、同じ人間だからではないかしら」
 「同じ……ですか?」

 怪訝そうに復唱するルーファスに、こくりを頷く。
 別に大層な理由があるわけではないのだ。貧しい人々の力になりたいと思ったのは事実だけれど、それが博愛精神に基づくものとは思っていない。
 正しい行いであるとは信じているけれど、俗に言う聖女や天使というような清らかな思いからだとは口が裂けても言えない。

 「そう。たしかに、生まれは違うかもしれない。
 けれど、同じ国に生まれた同じ人間よ。考える頭があって、傷つく心がある。そんな相手なの。
 だからこそ、不当に傷つけたいとは思わない。自分のできる範囲で手助けをしたいと思う。
 それはきっと、私だってそうしてほしいと思うから、かな」
 「そうしてほしい……?」

 そうだ。株式会社を設立したときも、大神官と交渉をしたときも同じことを思っていた。

 私が民に助力をしたいと思ったのは、かつての自分が願ったことだったからだ。
 本当は助けてほしかった。もう少しでいい、裕福になりたいなどとは言わないから。ただ、日々が少しでも楽になってほしい、と願っていたことを思い出したからだ。

 「もし私が彼らの立場だったのなら、きっとこう思うでしょう。
 誰でもいいから助けてほしい。貴族になりたいとは言わない。一財を築きたいとは言わないから、どうか不安のない明日を迎えたい、と」

 明日が来ることが怖くて、眠れない夜を迎えることがないように。また明日、と笑って眠りにつけるように。そのためのお金さえ、手に入ればよかったのだ。

 「明日はまともな収入があるだろうか、明後日は、その先は?
 そんな不安を抱えずに済む明日がほしいと、誰か助けてくれと、私はきっと願うと思う」

 今日は本指名のお客様が来てくれた、シャンパンも入れてくれた。でも、明日は?
 明日の売り上げを作らなければ。明後日の売り上げも、その先も。
 月のノルマは達成できるだろうか。売上バックはいくらになる? 学費にどれだけ回せる? 生活費は? 弟の面倒を見る時間はどれだけ作れる?

 そんな不安な日々が苦しくて、お金を稼いでも安心できない。それがどれだけ心の負担になっていたかなど、誰より私が知っている。

 「私がそう願うのならば、同じ人間である誰かも同じことを願うでしょう。そんな誰かのために、自分ができる範囲のことをする。それは、特段おかしな話でもないでしょう?」

 できないことをしろというわけではない。余力のある中で、できる範囲での協力だ。
 今世では、運よく裕福な家に生まれた。助力をできるだけの地盤もできた。だから手を差し伸べた。それだけのことだ。

 「私は、聖女としての活動とは別に、事業に携わっているの」
 「存じ上げております。ペチュニア株式会社ですよね? ナーシングドリンクやヨーグルトを販売している」

 ルーファスの言葉に、微笑んで頷いた。平民の彼にも、その二つが手に届いたのであれば嬉しい。

 「そのとおり。それらの事業は、私にとってできる範囲だった。もちろん、様々な方の助力があってできたこと。けれど、それも含めて何とか実現可能な範囲だったの。
 だからこそ、こうして事業に携わっている。事業を通して、自分にも誰かを助けることができるからよ」
 「……本来であれば、貴族向けの販売だけでよかったのではありませんか? その方が、きっと利益は大きく出たでしょう。
 その利益で民に施すのではいけなかったのでしょうか?」

 ルーファスの問いに、私は目を丸くした。
 本当に、彼は賢い子どもだ。そして、慈善事業についても一通りの知識があるのだろう。貴族としてならば、そのやり方の方が自然でもある。
 けれど、それだけではダメなのだ。

 「いいえ、それだけではダメなの。従来の慈善事業が重要であるということは分かっているわ。でも、それは他の誰かがやってくれるでしょう?」

 教会でも、他の貴族でも、もっと言えば王族も。慈善事業に財を投入している。それでも、変わらない現実があるのだ。

 「慈善事業ではできないことがある。あくまでも善意の施しは、施しでしかないの。無くなってしまえば、受け取る側は苦しむだけよ。
 誰かの施しを待つというのはそういうこと。根本的な解決にはならないもの。

 だからこそ、事業が必要だった。民が安心して暮らせる生活を作るための基盤が必要なの。端的に言えば、安定した収入源の構築ね」

 民に安心して暮らしてもらうには、絶対的に避けられない問題だ。彼ら自身の生活基盤を整えなければ、慈善事業をしてもその場限りで終わる。
 ましてや、慈善事業というセーフティネットから弾かれた者は、救いを受けることすらできない。

 「民の中には、慈善事業の対象にはなれず、それでも苦しんでいる人がいる。そういう人々もまとめて支援するには、事業で支えるのが一番だったのよ」

 親も、仕事もあって、それでも貧しい人たち。そんな人たちもいれば、何も持たず苦しみ続けている人もいる。
 その双方を救う足掛かりになるのが、事業だと信じているのだ。

 「……あなたは、遠いところを見ているのですね」
 「ルーファス?」

 小さな声で漏らす彼に、私は首を傾げる。
 そんな私の姿を見て、彼はどこか苦しそうに笑った。

 「いえ、私が浅はかだったと思ったのです。私は場当たり的な対処しか考えていなかったのだと、そう気づけました」
 「慈善事業の重要性は変わらないわ。助けられている人は、今もたしかにいるのだから」

 大神官も同じように自身を恥じていたが、そんな必要はないのだ。
 こういった支援は、一つであっては意味がない。様々な支援を用意して、初めて不足を埋められるのだ。

 事業が必要だからといって、全員が事業に舵を切るのは間違いだろう。
 今まさに、慈善事業によって救われている孤児院などを忘れてはいけない。それがなくなれば、彼らの生活は立ちいかなくなるのだから。

 「バランスが大事、ということよ。教会ならば慈善事業にこそ力を入れるべきでしょうしね。今まさに助けられている民の存在を忘れてはいけないわ。
 もちろん、やり方を見直すなどの行為はいい事でしょうけれど」
 「バランス……」
 「そう。それにやり方は一つではないでしょう。きっとこれから先、優れた方法を見つける人も出てくるわ。
 人の営みは、そうやって改善していくものではないかしら」

 この世界では初めての試みだったからこそ、株式会社は注目された。けれど、この先もっといい方法は出てくるだろう。民を思う人がいれば、必ず。

 「私からあなたへ返すべき言葉は、こんなところかしら。
 彼らが私と同じ人間だからこそ、私は手を差し伸べる。私と同じように傷つく心のある人間だからこそ、私がほしいと思う救いの手を伸ばしたい。
 大それたことは何もないの。結局は、自分がしてほしいことをしたい、というだけ。

 例えばほら、甘いクッキーが食べたい、とかね?」

 そう言ってクッキーを口に放り込む私を、ルーファスはポカンとした顔で見つめる。
 一拍すると、口元を手で覆い笑い出した。どうやら噴き出すのだけはこらえているらしい。
 笑いがとれたならいいとすべきか、悩む部分である。

 「ふふ、聖女様は不思議な方ですね。とてもしっかりしていると思えば、そのような茶目っ気もお持ちで」
 「たしかに。とても真面目な方かと思っていたが、ユーモアのあるお方のようだ」

 ルーファスに続き、オーウェンまで口に手を当てて笑っている。ミステリアスな印象の彼の笑みは、思ったよりも子どもらしかった。

 そこまで笑わなくても、とは思うものの、場が和んだならいいとしよう。
 私は彼らより精神年齢が上なのだから、ここは引いてあげるべきだろう。釈然としない気持ちを抱えたまま、心の中で自分を慰めた。

 「でも、本当に聖女様がこのようなお方でよかった。仕える方がどんな方なのかは、やはり重要ですから」
 「それなら、私はあなたの及第点くらいはもらえたのかしら?」
 「及第点なんてとんでもない! 素晴らしい方だと思います。聖女があなたのような方であることに、感謝しかありません。この国にとっても、喜ばしいことでしょう」

 胸を張って言うルーファスに、私は苦笑してしまう。
 自分自身が聖女というのに、未だピンときていないのだ。役目は理解しているし、重要性も理解している。
 だが、自分の中の聖女像と自身がかけ離れているせいか、どうにも聖女と言われるのに違和感がある。
 いつか当たり前のように受け入れられる日が来るのかもしれないが、今のところそんな日は遠そうだ。

 「そういえば、オーウェンはヴァレンティ辺境伯家の出よね? そんなに重要な方が、私の従者になっていいのかしら……?」

 いたたまれない気持ちを振り払うように、私は話題を変える。
 水を向けられたオーウェンは目を丸くしていたが、質問内容に合点がいったのか、一つ頷き口を開いた。

 「おっしゃるとおり、私はヴァレンティ辺境伯家の出です。私は嫡男ですので、普通であれば誰かの従者になることはありません」
 「えぇ、そのとおりだと思うわ。でも、それならばなぜ?」
 「色々と理由はございますが……一つは、あなたです、聖女様」
 「……私?」

 人差し指を顎につけ、こてりと首を傾げる。
 はて、何のことだろうか。さすがに、聖女だからいい家から従者をつけよう、とはならないだろう。
 いくら聖女相手とはいえ、嫡男を差し出す意味はない。教会は政治から距離を取っているし、なおさらだ。

 「聖女様がお生まれになるのは数百年に一度です。その身分は国王陛下でさえも一定の礼を尽くすもの。
 それに加えて、聖女様は既に経済の面で大きな実績がございます。そうである以上、貴族たちとて黙ってはいません。縁繋ぎになりたいと願う家は多いでしょう」
 「……子爵家の生まれでも?」
 「子爵家のお生まれでも、です」

 何と言うことか。自分の政治的重要性については理解していた。お爺様にあれだけ説明されたのだ。頭には入っている。
 だが、それはあくまでも王統の正当性を補強するためのものだ。だからこそ、気をつけていればいいだろうと考えていた。

 王家にとって重要と思われる人間に、一貴族が手を出すとは思えなかったのだ。
 王家に睨まれる可能性があるのなら、普通はそんな橋を渡りたいとは思わないだろう。少なくとも、私ならば思わない。
 他の貴族たちからすれば、私のような子爵令嬢が王家と婚約する可能性など考えられないからか。だから王家に睨まれる可能性など考えてもいないのだろうか?

 ……それとも、その可能性も視野に入れた上で、と思っているのか。
 もしそうであれば、王家の求心力はかなり落ちていることになる。

 「聖女という特殊な力を持つ身でありながら、事業の才覚をも併せ持つ女性。その支えとして、ウィルソン公爵家やランシアン侯爵家がついているとあれば、その存在感は高まるばかりです」
 「うっ……」

 それを言われると痛いところだ。子爵家では到底届かない地位の方々が助力くださったことは、私自身よく理解している。
 聖女であり、事業を立ち上げ、バックには公爵家と侯爵家がある。……普通に考えればインパクトが強い。強すぎるくらいだ。

 「聖女様が嫁いで来てくだされば、それだけの方々とお近づきになれると考える者は多い。
 ましてや、エクセツィオーレのフローレス伯爵家とも懇意であると聞いています。砂糖栽培がなされていない我が国において、かの家との繋がりは極めて重要な意味をもちます」
 「う、うぅん……」

 何も言い返せない。10歳前後の子どもに諭される成人女性とはこれいかに。
 本当に、こういうところがこの世界に馴染めていない証だろう。言葉で言われれば理解できるけれども、逆に言えば、客観的に自分を見ることができていないのだ。普通の貴族なら当たり前にできることだろうが、私にはまだその感覚が薄い。

 「今後、あなたに近づこうとする者はあなたが思うより多いでしょう。それを弾くために、自分が従者としてあなたの側につくことになりました。
 これでも辺境伯家の身。そう邪険にされることはありません。あなたに余計な虫がつかないようにする役目は、しっかり務められると自負しております」

 ヴァレンティ辺境伯家、この家は我が国にとって大きな意味を持つ家だ。
 王妃の生家であるケンドール辺境伯家は国境沿いの守りについているが、ヴァレンティ辺境伯家は少々異なる。
 国有数の交易地帯、その守りを国から任されているのがヴァレンティ辺境伯家だ。国の外縁部ではあるものの、辺境と呼ぶには程遠い土地だ。

 現在、王妃と陛下の関係が険悪になっている中、ヴァレンティ辺境伯家への陛下の信頼は高い。元々重要視された家柄だったことに加え、辺境伯の一つと上手くいっていない状況。重用されるのは当たり前の流れだ。

 そんな重用される家から来た従者が、オーウェンだ。
 我が国では、ランシアン侯爵家のように女性が爵位を継ぐこともある。ヴァレンティ辺境伯家の内情は知らないが、オーウェンがここにいるのだ。万が一が起きても、家を守る手段があるのだろう。

 「……余計な虫、ね。それはのことなのかしら?」

 冷えたティーカップに口をつける。既に冷め切ってしまったお茶は、私の思考をすっきりとさせた。
 水面に映る私の顔には、薄っすらと笑みが張り付いている。

 流し目でオーウェンを見つめると、彼は口角を緩やかに上げた。
 しかし、私の言葉に対する返答はない。

 ――面倒なことになったものだ
 
 重いため息を隠すかのように、冷え切った紅茶を飲み干した。
 

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