雨音の記憶、君の影

金森しのぶ

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第8話 寄り添う手

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学園祭が終わり、学校には再びいつもの静かな日常が戻ってきた。
模擬カフェでの思い出やピアノ演奏の感動が、教室のあちこちで語られている。咲良のピアノは想像以上の反響を呼び、普段あまり話したことのなかったクラスメイトたちからも「素敵だった」「感動した」と声をかけられることが増えた。

だが、咲良の心には、あの日の喜びとともに、ゆっくりと広がる不安もあった。
祭りの当日、楽譜も鍵盤もほとんど見えていなかった。今は机に並ぶ教科書の文字も、黒板の字も、すっかり霞んでいる。
それでも、あの日の「できた」という感触と、みんなの温かい言葉、奏人の手話での「すごかったよ」が、彼女の心を支えていた。



昼休み、教室の一角で咲良は奏人と並んで座っていた。二人の間には、使い込まれたノートと、最近では手話の小さな会話も混じるようになっていた。
咲良は自分から手話を学びたいと言い出してから、ひそかな努力を続けている。家では母親に「指の体操?」と不思議がられつつ、夜遅くまで本をめくったり、ネットの動画を見たりしていた。

奏人はそんな咲良の努力を知っている。
今もそっと咲良の指先を取り、ゆっくりと手話で「ありがとう」と伝えた。

咲良はその手を両手で包み、小さな声で「こちらこそ」と呟いた。
その一言は、奏人には聞こえない。でも、咲良の唇の動きと優しい表情で、きちんと伝わっていた。



放課後、咲良は図書室で健太に呼び止められた。健太は相変わらず明るく、「咲良ちゃん、今度手話教えてよ!」と声をかけてくる。
最初は戸惑っていた咲良も、今では自然と「うん、いいよ」と微笑みながら答えられるようになった。

「じゃあ、今日の分だけでも!」と健太は言い、奏人も加わって、三人で簡単な手話を練習した。
「こんにちは」「ありがとう」「友だち」……手が踊るたびに、笑いがこぼれる。

咲良は、目が見えにくくなっていくことがどんなに怖くても、こうして少しずつ周りの人たちと心を近づけられるのが嬉しかった。

ふと健太が「咲良ちゃん、今一番不安なことって何?」と聞いた。

咲良は少し黙り込んでしまう。
迷いながらも、ノートにこう書いた。

『全部見えなくなったら、みんなの顔が分からなくなるのが、一番こわい』

健太はその文字をじっと見つめたあと、意外なほど真剣な顔で言った。
「大丈夫。顔が分からなくなっても、咲良ちゃんのこと、ちゃんと友だちだって分かるし、ずっと話しかけるからさ」

奏人も健太の言葉にうなずき、手話で「ぼくもずっと一緒にいる」と伝える。
咲良の不安は完全には消えないけれど、そのときだけは心の奥が温かくなった。



その晩、咲良は家で母親に「今日は手話の勉強したんだ」と話した。
母親は静かに咲良の頭を撫でて、「友だちがいてよかったね」と言ってくれた。

「これから見えなくなっても、咲良のままだから。どんな咲良でも、大丈夫だからね」

母の言葉に咲良はふと涙ぐみ、思わずぎゅっと抱きついた。



日曜日、雨が降っていた。
咲良は自分から「公園に行きたい」と母に伝え、傘をさして家を出た。東屋にはやはり奏人がいた。

二人は言葉少なにノートを開き、久しぶりにゆっくりと心の奥をやり取りする。

『最近、いろんなことが怖くて、時々泣きたくなるよ』

そう綴った咲良の文字を読んで、奏人はペンを握り直した。

『怖いときは、僕の手を握って。何度でも』

咲良はその言葉に静かにうなずき、奏人の手を両手で包み込んだ。
静かな雨音が東屋に響き、二人はぬくもりを確かめ合うように、しばらく何も言わずに寄り添っていた。

「こうしていれば、きっと大丈夫」
咲良はそう心の中で繰り返した。



翌週の学校。クラスメイトたちは、咲良が「目が見えにくくなってきている」ことを前よりも自然に受け止めていた。
奏人や健太と一緒に行動することが増え、咲良の笑顔を見るたび、周囲も少しずつ変わっていった。

新しい日々は、もう“以前と同じ”ではない。
でも、雨の日の記憶と、誰かと手をつなぐあたたかさが、咲良と奏人、そして健太やクラスメイトの心を結びつけていた。

「これからも、ちゃんと前を向いて歩いていこう」
咲良はそう思いながら、放課後の昇降口をゆっくりと歩いていった。

振り返ると、奏人がそっと手を差し出してくれていた。
咲良はその手をしっかりと握りしめ、ふたりで静かな校舎を後にした。

どんなに世界が狭くなっても、寄り添う手があれば、きっと歩いていける。
そんな新しい自信が、咲良の心に芽生えていた。

——雨音の中で、二人の歩幅はゆっくりと重なっていく。
それは小さくても、確かな未来への一歩だった。
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