雨音の記憶、君の影

金森しのぶ

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第9話 診察室の真実

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秋が深まり、木々の葉が色づきはじめたある日曜日。
咲良は母親に付き添われ、久しぶりの総合病院を訪れた。診察室の前の待合い椅子に並んで座ると、ガラス越しに見える景色が、春に比べてずいぶんぼやけていることにふと気づく。

待合室は静かで、テレビの音も遠い。
咲良は手の中に小さなノートを握りしめていた。
今はもう、ノートに書かれた自分の文字でさえ、ペンの濃さや大きさでないと読みにくい。
「私の目、どこまで見えるんだろう」
そんな不安が、ここ最近ずっと心の底に澱のように沈んでいた。

「咲良さん、どうぞ」
医師の声に促され、母親と診察室に入る。

眼科の医師は、柔らかい口調で咲良に話しかけた。
検査を終えた後、机の上に並べたデータや画像を示しながら、説明が始まる。

「前回からかなり進行しています。視野も、中心部の感度も下がっていますね。今後は点字や補助器具の訓練も並行して始めていきましょう」
医師の言葉は、優しいけれど現実的だった。

咲良は小さく頷き、母親は咲良の背中に手をそっと当てた。
「もし全部見えなくなったら、学校……どうやって行けばいいんでしょう」
母親の問いに、医師はゆっくりと答える。
「学校側とも連携します。家族や友達のサポートも大切ですね」
「でも、咲良さんには“聴こえる世界”がしっかり残っています。音や会話、ピアノ……それはこれからも変わりません。できることを一つずつ見つけていきましょう」

咲良は不安と恐怖を押し殺しながら、静かに頷くことしかできなかった。



病院の帰り道。
バスの中で、咲良はずっと窓の外を見ていた。
すべてがぼんやりと流れていく。
「次は全部見えなくなるんじゃないか」
そんな思いが頭の中をぐるぐる回る。

自宅に戻ると、母親は優しく咲良を迎え入れた。
「咲良、友達に話してもいいんだよ。怖いことも、不安なことも、隠さなくていいからね」

咲良は微笑み、「うん」とだけ答えた。

その夜、眠れぬままベッドで考えごとをしていると、スマートフォンにメッセージが届いた。
——奏人からだった。

『あした、公園で会える? 話したいことがあるんだ』



翌日の放課後。
細かな雨が降る中、咲良は東屋へ向かった。
奏人はすでに待っていて、咲良の姿を見つけるとノートを差し出した。

『病院、どうだった?』

咲良はゆっくりと自分のノートにこう書く。

『もうほとんど見えない。文字も人の顔も、全部ぼやけてる。医者には点字の勉強や補助器具の話もされた』

奏人は咲良の手をとり、しばらくじっと黙っていた。
自分も耳が聞こえないという“見えない壁”を知っている。
不安や孤独が、咲良の中でどれほど大きくなっているか想像できた。

『怖い?』

咲良は目を伏せ、ゆっくりと頷く。

『こわい。でも、音は聴こえるから……ピアノはまだ弾ける。奏人君とも、こうやって話せる』

奏人は静かに微笑み、手話で「きみは一人じゃない」と伝えた。

咲良はその手話をしっかりと見て、涙を堪えながらノートにこう書く。

『失うものが増えていくのが怖い。でも、奏人君がいてくれるから大丈夫って思いたい』

奏人はノートに「ずっとそばにいる」と書き、咲良の手をしっかりと握った。



帰り道、二人はゆっくりと並んで歩く。
雨は小降りになっていた。
途中、健太が傘を持って追いかけてきた。

「おーい! 咲良ちゃん、大丈夫か?」

咲良は健太の声に「うん」と笑い、ノートに『病院に行ってきた。ちょっとこわかった』と書いて見せる。

健太はしばらくノートを見て、「そっか。でも咲良ちゃんは強いよ!」と大きな声で言った。
「何かあったら、俺もいるから! な!」

奏人も健太も、咲良の両側で励ますように歩いた。
「友だちって、こういう時のためにいるんだろ?」
健太が得意げにそう言うと、咲良もつられて笑ってしまった。



家に帰ると、母親が咲良を迎えてくれる。
「今日はよく頑張ったね。きっとこれからも大変なことはあるけど、一緒に乗り越えていこうね」

咲良は母親の胸に顔をうずめ、静かに涙を流した。



夜、ベッドで目を閉じる。
もうほとんど何も見えない世界。
でも、耳を澄ませば、家族の食器の音、ピアノの余韻、友達の笑い声、そして——
雨音が、窓の外から優しく響いてくる。

咲良はその音を、心の中にしっかりと刻みながら思った。

——失うものもあるけれど、
——絶対に消えない“つながり”もある。

そんな希望を胸に、咲良は新しい一日へと歩き始めようとしていた。
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