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第四話 母さんの涙
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六月に入ったばかりの雨上がりの朝。
窓を開けると、団地の木々の葉っぱに小さな水滴が残っていて、朝日が当たるたびにきらきらと光っていた。
いつもと同じように、僕は一人で顔を洗って、冷蔵庫からお母さんの作った卵焼きサンドを取り出す。
お母さんはもう出勤していた。
キッチンのカウンターの上に「今日は帰りが遅くなります。晩ごはんはカレーを温めてね」というメモが置いてあった。
母の字を見つめていると、どこかほっとする。
学校へ行くと、信也くんと芽衣ちゃんが廊下で鬼ごっこをしていた。
「春斗、昨日テレビ見た?すっごいおもしろかったんだよ!」
「えー、どのチャンネル?」
みんなでわいわい言い合いながら教室に入ると、先生が少しだけ難しい顔をしていた。
「今週は学級会があります。みんなで、クラスのことをもっとよくするにはどうしたらいいか考えましょう」
話し合いの輪に入っていると、ふと、机の中に昨日のプリントがぐちゃぐちゃに入っているのを思い出した。
ちょっとだけ胸がドキドキする。
でも、先生に見つかる前にこっそりプリントを出して並べてみると、なぜか心がすうっと軽くなった。
放課後、芽衣ちゃんと一緒に公園でシーソーに乗った。
雨上がりの遊具は少し濡れていたけど、芽衣ちゃんは気にしない。
「春斗くん、いつもお母さんにお手紙書いたりする?」
「うーん……書いたことないかも」
「うちね、パパとママがけんかしたとき、私がふたりにお手紙書いたら、仲直りしたの。だから、困ってる人にはやさしくするといいことあるんだよ」
「……そうなんだ」
僕はポケットの中のメモを指先でつまむ。
あの言葉が、芽衣ちゃんの家でも本当になってるんだな、と思った。
団地に帰ると、雨のせいで空気が少し湿っていた。
エレベーターのボタンを押すと、隣の階のおじいさんが乗ってきた。
「おかえり、春斗くん。今日もがんばったかい?」
「うん。おじいさん、雨は大丈夫だった?」
「おかげさまでな。昔はな、雨の日にはよく団地のみんなで長靴競争をしたもんだ」
「へえ、楽しそう」
おじいさんの話を聞いていると、だんだん胸の中があたたかくなってきた。
家のドアを開けると、部屋の中はしんとしていた。
テレビもついていないし、キッチンも静かだ。
僕はリビングでランドセルを下ろし、机の上に宿題を広げる。
夕方になっても、お母さんは帰ってこない。
時計を見ると、もう七時を過ぎていた。
カレーの鍋をコンロで温めて、ひとりでごはんをよそい、テレビをつけて食卓につく。
テレビの中の人たちはみんな楽しそうに笑っていたけれど、僕の食卓は静かだった。
ごはんを食べ終わっても、お母さんはまだ帰ってこない。
お皿を洗って、リビングに戻ると、電話が鳴った。
「はい、春斗です」
「ごめんね、今から帰るから、もう少し待っててくれる?」
「うん、大丈夫」
電話の向こうのお母さんの声は、少しかすれていた。
何かあったのかな、とちょっとだけ不安になった。
八時半すぎ、ようやく玄関の鍵が回る音がした。
お母さんはゆっくりと帰ってきた。
「ただいま……」
「おかえり」
いつもより元気のない声だった。
僕はお母さんに麦茶を出し、そっと「お疲れさま」と言った。
「ありがとう、春斗」
お母さんは少し笑ってくれたけど、その笑顔はどこか遠かった。
お母さんがシャワーを浴びている間、僕はキッチンの片づけをした。
静かな水の音を聞きながら、ふと、誰もいないリビングに座る。
シャワーの音が止んでしばらくすると、キッチンからすすり泣きのような小さな声が聞こえた。
そっとのぞくと、お母さんが椅子に座って、顔を手で覆って泣いていた。
「……どうしよう、がんばっても、がんばっても」
お母さんは小さな声で呟いている。
僕はドアの陰で息をひそめた。
どうしたらいいかわからなくて、その場から動けなかった。
少しして、お母さんはハンカチで涙を拭いて立ち上がった。
僕はなにも見なかったふりをして、自分の部屋へ戻る。
ベッドに入っても、心がざわざわして眠れない。
机の上のメモを手に取る。
「困っている人にやさしくした人には、きっといいことが起きる」
お母さんが泣いている姿を見るのは、はじめてだった。
でも、僕にできることは何もない気がして、胸が苦しかった。
明日、お母さんのために何かしよう――
そう思いながら、僕はメモをぎゅっと握りしめて、静かに目を閉じた。
窓を開けると、団地の木々の葉っぱに小さな水滴が残っていて、朝日が当たるたびにきらきらと光っていた。
いつもと同じように、僕は一人で顔を洗って、冷蔵庫からお母さんの作った卵焼きサンドを取り出す。
お母さんはもう出勤していた。
キッチンのカウンターの上に「今日は帰りが遅くなります。晩ごはんはカレーを温めてね」というメモが置いてあった。
母の字を見つめていると、どこかほっとする。
学校へ行くと、信也くんと芽衣ちゃんが廊下で鬼ごっこをしていた。
「春斗、昨日テレビ見た?すっごいおもしろかったんだよ!」
「えー、どのチャンネル?」
みんなでわいわい言い合いながら教室に入ると、先生が少しだけ難しい顔をしていた。
「今週は学級会があります。みんなで、クラスのことをもっとよくするにはどうしたらいいか考えましょう」
話し合いの輪に入っていると、ふと、机の中に昨日のプリントがぐちゃぐちゃに入っているのを思い出した。
ちょっとだけ胸がドキドキする。
でも、先生に見つかる前にこっそりプリントを出して並べてみると、なぜか心がすうっと軽くなった。
放課後、芽衣ちゃんと一緒に公園でシーソーに乗った。
雨上がりの遊具は少し濡れていたけど、芽衣ちゃんは気にしない。
「春斗くん、いつもお母さんにお手紙書いたりする?」
「うーん……書いたことないかも」
「うちね、パパとママがけんかしたとき、私がふたりにお手紙書いたら、仲直りしたの。だから、困ってる人にはやさしくするといいことあるんだよ」
「……そうなんだ」
僕はポケットの中のメモを指先でつまむ。
あの言葉が、芽衣ちゃんの家でも本当になってるんだな、と思った。
団地に帰ると、雨のせいで空気が少し湿っていた。
エレベーターのボタンを押すと、隣の階のおじいさんが乗ってきた。
「おかえり、春斗くん。今日もがんばったかい?」
「うん。おじいさん、雨は大丈夫だった?」
「おかげさまでな。昔はな、雨の日にはよく団地のみんなで長靴競争をしたもんだ」
「へえ、楽しそう」
おじいさんの話を聞いていると、だんだん胸の中があたたかくなってきた。
家のドアを開けると、部屋の中はしんとしていた。
テレビもついていないし、キッチンも静かだ。
僕はリビングでランドセルを下ろし、机の上に宿題を広げる。
夕方になっても、お母さんは帰ってこない。
時計を見ると、もう七時を過ぎていた。
カレーの鍋をコンロで温めて、ひとりでごはんをよそい、テレビをつけて食卓につく。
テレビの中の人たちはみんな楽しそうに笑っていたけれど、僕の食卓は静かだった。
ごはんを食べ終わっても、お母さんはまだ帰ってこない。
お皿を洗って、リビングに戻ると、電話が鳴った。
「はい、春斗です」
「ごめんね、今から帰るから、もう少し待っててくれる?」
「うん、大丈夫」
電話の向こうのお母さんの声は、少しかすれていた。
何かあったのかな、とちょっとだけ不安になった。
八時半すぎ、ようやく玄関の鍵が回る音がした。
お母さんはゆっくりと帰ってきた。
「ただいま……」
「おかえり」
いつもより元気のない声だった。
僕はお母さんに麦茶を出し、そっと「お疲れさま」と言った。
「ありがとう、春斗」
お母さんは少し笑ってくれたけど、その笑顔はどこか遠かった。
お母さんがシャワーを浴びている間、僕はキッチンの片づけをした。
静かな水の音を聞きながら、ふと、誰もいないリビングに座る。
シャワーの音が止んでしばらくすると、キッチンからすすり泣きのような小さな声が聞こえた。
そっとのぞくと、お母さんが椅子に座って、顔を手で覆って泣いていた。
「……どうしよう、がんばっても、がんばっても」
お母さんは小さな声で呟いている。
僕はドアの陰で息をひそめた。
どうしたらいいかわからなくて、その場から動けなかった。
少しして、お母さんはハンカチで涙を拭いて立ち上がった。
僕はなにも見なかったふりをして、自分の部屋へ戻る。
ベッドに入っても、心がざわざわして眠れない。
机の上のメモを手に取る。
「困っている人にやさしくした人には、きっといいことが起きる」
お母さんが泣いている姿を見るのは、はじめてだった。
でも、僕にできることは何もない気がして、胸が苦しかった。
明日、お母さんのために何かしよう――
そう思いながら、僕はメモをぎゅっと握りしめて、静かに目を閉じた。
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