悪役令嬢は肴を求めて三千里

遊佐

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まだ前菜には手を出せそうにない

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グラスの縁を恐る恐る唇へ近付ければ、白ブドウの発酵した酸味が口を付けずとも分かるほどに芳醇な香りが鼻孔を擽る。唇を一舐め、いざグラスを傾けた時、それは起きた。

「きゃっ!ご、ごめんなさい…っ!」

瞬間、全てがスローモーションのように感じた。
とんっ、と、あまりにも軽い衝撃ではあったがそれだけで充分。考えても見て欲しい。ションパングラスを持つ時は普通、どうする?中指と親指とでつまみ、人差し指でそれを支えないだろうか?ある意味での当たり前の持ち方ではあるが、ある意味での不安定な持ち方でもある。そこに予想すらしなかった衝撃が来れば、どんなに軽くとも腕回りはふらついてしまうはず。しかも、こちとら転生先が蝶よ花よと育てられた公爵令嬢の、吹けば飛んでしまった上に傘一つで空中遊覧してしまいそうな程の身体である。
そうして揺らされたグラスの中身はその器ごと地へと落ちていってしまった。

   -パリンっ!-

軽く、高い音をもって割れたグラスは、それでもシャンデリアの光を反射してキラキラと煌めいている。
しかし、トゥリーチェはそれを綺麗だなどと思う気持ちにはなれない。
「……っ!」
広がるのはただの無。怒ることも、慌てることも通りすぎた無、である。思わず当てた手のひらの中の唇はわなわなと歪み。心なしかさっき引っ込めたところである涙も帰ってきてしまったかもしれない。
「トーリ!大丈夫かい?!」
慌てて駆け寄る兄が肩を抱いてくれたが、このポンコツになってしまった身体は震えが止まってくれない。トゥリーチェを胸に抱き寄せ、落ち着かせるように髪をすいてトゥアレは元凶へと批難を含む目を向ける。
そこにはミルクティブラウンの髪を綺麗に結いあげた白に近い若草色のドレスを纏った令嬢と、ソレを抱き止めたような姿勢でもって気遣わしげに肩や腕をなでさそる令息の姿があった。
込み合うような立食会や晩餐会ならいざ知らず、デビュタントが主役である御披露目が主な夜会では、きちんと周りを確認していればこのように人と人がぶつかることもない。ましてやトゥリーチェは公爵家の令嬢であるのだ。自ずと周囲もマナーも何もかもを知り尽くした高位貴族で固められ、容易く近付くのも難しい筈である。
明らかに意図的にもって近付いたのは明白であり、かつ確実に加害者で有るのにも関わらず礼の一つもせずあまつさえ震えて慰められるのを甘んじている。さしもの被害者であるように。
令息の方は確か取りたてる事も無かったような伯爵の次男であったはずだ。
では、この失礼極まりなく常識はずれな令嬢は誰であっただろうか?高位貴族…伯爵以上ではないのは確かだ。
トゥアレが記憶を探るように瞳を細めて令嬢の顔をしげしげと眺めていると、何を思ったか先ほどまで怯えていたその令嬢は薄く頬を桃色に染め、未だ心配げにしている令息の肩の後ろへ恥ずかしげに身を隠した。
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