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23 あなたがくれる快感を私だけが知っている
しおりを挟む「…………」
敬意のある態度を取られていないことは嫌というほどわかっているが、その原因を作ったのは自分であるから、叱るわけにもいかない。
いや——実のところ「騎士に対する不敬」を理由にすればこの状況でも叱れないことはないのだが、リィはそれを良しとしていない。
むしろ——。
「すまなかった」
リィは、ルーランに向けて言った。
蜂蜜色の彼の目が、微かに大きくなる。リィは続けた。
「戻ってからのことに注意がいって、お前のことを失念していた」
「……戻ってから……?」
「ああ。お前を厩舎に送り届けてからのことだ。明日も調教はあるし、お前の遠征後の体調検査の結果も——」
「戻ってからのこと、考えてたんだ?」
「そうだが」
意表を突かれた、という顔をしているルーランを見つめ返す。
「そうだが……何か隠してる事があるのか? もしかしてまだ検査を受けていないとか……」
「いや——いや」
それは受けたけど。
ルーランは言うと、どこか気まずそうに目を逸らす。
再びリィを見ると、「ふーん」と一人ごちるように言った。
リィは微かに目を眇めた。
「なんだ。はっきり言え」
「……」
「ルーラン」
「怒ると思うんだよね」
と、彼は再び気まずそうに斜め上を見ながら言う。
リィはますます眉を寄せた。
「私が? 私が怒るようなことをしたのか」
訊ねたが、待ってもルーランからの答えはない。
なんなんだ、こいつは。
リィは、やや声を荒らげて言った。
「いい加減にしろ。言いたい事があるならはっきり言え。でなければもう戻るぞ」
「まっ——」
踵を返しかけたリィの手が掴まれる。
次の瞬間、ルーランは慌てたようにそれを離した。
「待った。なしなし。今のなし。わざとじゃないから! 反射だから! はずみだから!」
「だからなんなんだ、いったい!」
とうとう堪らず、リィははっきりと声を荒らげる。
往来でなんてことだと思ったが、それよりも苛立ちの方が勝った。
睨み付けると、ルーランは視線を右に左に彷徨わせる。
ややあって、ポツリと言った。
「欲求不満」
「……なんだと?」
あまりに予想外の言葉だったせいで、聞き取れなかった。
聞き返すと、ルーランは荒っぽい手つきで自身の髪をかき上げる。ちらりと覗いた片方の瞳がやけに艶かしい。
「だから、すっごく欲求不満なんだよ。せっかくここまで来たのに——まあ外出できたのはいいんだけど、すっきりしない状態で帰るハメになってさ」
「……」
「しかも、あんたは人のこと忘れてあの騎兵と恋の話に夢中だし」
「こ……」
「あいつと別れてからも、ずっとそのこと考えてんのかと思った」
「……」
ふてくされたように言うルーランに、リィは絶句する。
まさかそんなことを考えていたとは思わなかった。
(ああ、だから……)
同時に、彼がどうしてリィに怒られると思ったのかも合点がいった。
こうして事情を打ち明けるには、リィがルュオインとしていた話を聞いていたことも話さなければならないからだ。
「聞こえていても聞いていないふり」——それを守っていなかったと自ら告白しなければならないから。
(それはまあ……怒られるかもしれないと気にするところかもしれないが……)
そこなのか?
(と言うか、自分はそんなに恋の話をしていたのか?)
しない、という話ならしていたと思う。
でも。
(そんなに気にすることか?)
リィが眉を寄せたからだろうか。
ルーランはいささか慌てたように言葉を継いだ。
「いや、いいよ、別に。あんたが何を考えようがあんたの勝手だし。けど、人のこと忘れてってのはどうかなー、なんて」
そこまで言うと、彼は拗ねたようにそっぽを向く。
リィはその横顔を見ながら考えた。
要するに——。
要するに彼の言葉を要約すれば、彼はなんの成果も得られず帰ることに不満で、しかもリィが彼のことを忘れていた事が不満——らしい。
(ふむ)
まあ……それはわからなくもない。
前者も後者も。
ただ、彼のことを忘れていた理由は彼の想像していたこととは違う。
「では、誤解は解けたわけか」
リィが言うと、ルーランは「ん?」とこちらを向く。
瞬間、リィの思考は寸前の話題からふと離れた。
美しいな、と思ったのだ。
彼の貌が。そして姿が。
最初に見た時も思った。
一番最初に会ったときは、彼は馬の姿をしていて放牧場にいた。
「あれですよ」と調教師に教えられて、少し離れたところからその姿を眺めたのだ。
その時は、距離があったせいで彼の毛色が珍しい緑がかったものだということは、よく解らなかった。
解ったのは、遠目からでも一目で知れる、その完璧と言っていいほどの均整のとれた体躯。そして強い意志を感じさせる面差しだった。
馬の面差しに差などあるのかと言われそうだが、それは「ある」と言い切れるほどの馬を見た事がない者の発言だ、とリィは思う。
差はある。
そしてこの騏驥には、間違いなく他の騏驥にない「何か」があった。
それは、人の姿になった彼を見た時も同じで——まだ騎士になって日が浅く、なんの手柄も功績も残していない身だった自分は、たじろがず彼と対峙するのに必死だった。
この、特別で、美しく、強く、そしてきっと恐ろしい騏驥を、それでも絶対に自分のものにするのだ、と。
自分が騎士として名を挙げるには、家名や父の名誉を取り戻すには、それしか方法がないのだから、と。
そして、過日覚えたたその想いは、今でも褪せる事がない。
ふとした時、ふとした仕草に彼の美しさを見て、感じている。
彼自身はきっと、そんなことどうでもいいと思っているだろうけれど。
リィは、こちらを向いたルーランに言う。
「誤解は解けたかと訊ねたんだ。私はお前のことを忘れていたが、それはお前が想像していたような理由からじゃない。それはわかったのか」
「……あー……うん。でも——」
「わかっている。忘れていたことは謝罪する。騎士として相応しい態度ではなかった」
「…………」
「なんだ」
返事のないルーランにリィが問うと、彼は指で頰を掻くようにしながら言った。
「いや、『謝るんだ』と思って。それも結構すんなりとさ。さっきもだけど……」
その言葉は、騎士と騏驥の関係を如実に示していると言っていいだろう。
騎士は従わせる側で、騏驥は従う側。
それは騎士にも騏驥にも徹底されて教え込まれるから、騏驥に謝罪する騎士などほとんどいない。
リィは、ルーランを真っ直ぐに見て言った。
「私は……相手が誰であっても自らに非があればそれを認められるような自分でいたいと思う……」
周囲から蔑まれるような立場になってしまったからこそ、そうありたいと思うのだ。謝罪を恥と思わない強さを持っていたい、と。自分のために。自分の抱く誇りのために。
と、ルーランは静かに微かに唇を上げる。
「そう」と、彼は微笑んで言った。
そんなルーランを見ながら、リィは話を戻すように言う。
「それで、欲求不満で? だからなんだ。私にどうしろというんだ」
その途端、ルーランの微笑みは驚きの顔に変わる。
「対処して、くれるの」
「……今日のお前の言動については、色々と言いたいこともあるが、助けられたことも多かった。だから……何か希望があるなら……」
「あるある!」
即座に、ルーランは声をあげる。
また林檎でも食べたいのかとリィは予想したが、続いた言葉は予想外のものだった。
「走りに行こうぜ」
遠くを見ながら、彼は言った。
「どこでもいい。でも外な。調教場じゃなくて、どっか外」
「……」
外乗りに連れて行け、と言うわけか。
リィは意外に思いつつも、自身もまたうずうずしてくるのを感じていた。
騎士が騏驥を連れて郊外に出かけ、その野山を駆ける外乗りは、騎士にとっても騏驥にとっても好みの分かれるところだ。
調教場よりも広く、自由が多い分、危険も多い。
騎士としては万が一落馬した時にすぐに助けが来るわけではないから下手をすれば命に関わることになるし、騏驥だってもし騎士から酷い扱いを受けたとしても、それを注意する調教師や獣医はいないのだ。
良くも悪くも周囲の目がある調教場で乗るのとは訳が違っていた。
とは言え、もちろんいい点もたくさんある。
一人と一頭だけという状況は互いの信頼関係を強くするにはもってこいだし、広い自然の中、思うままに駆けることは、普段抑圧された生活をしている騏驥の何より気分転換になった。
騎士もまた同じだ。野山を自在に疾走する騏驥を駆る爽快感は日頃の憂いを忘れさせてくれる。
ただ、そうして走り回ることは大抵が普段の調教とは別に走らせることになるから、騏驥の体調管理をしている調教師はなかなかそれを許可しない。
気分転換に効果があるとわかってはいても、外に出れば思わぬ事故に遭うこともある。自然の起伏や荒れた土地のせいで騏驥が脚を傷めることもある。
何より、慣れない環境で走ることで、逆にひどく疲れてしまう騏驥もいるためだ。
だからリィも、外乗りに出る時は自分から騏驥を連れ出すのではなく、調教師に頼まれて、というケースばかりだった。
リィはルーランを見る。
彼はすっかり行く気のようで、眼差しは期待にキラキラしている。
その瞳を眩しく見つめながら、リィは言った。
「……検査結果を聞いた後なら」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
乗せてやるから早く厩舎地区に帰ろうぜ。早く早く早く。
——そんなルーランのうるさい訴えを断り続け、二人で普通に歩いて厩舎地区へ戻り(それでもかなり走らされた。ルーランが走るからだ!)、順番待ちをしていたほかの騏驥や騏驥を連れた調教師を押し除けて獣医から検査結果を聞こうとするルーランを嗜め(強引に退かされようとしていた騏驥や調教師たちにはリィが謝った)、獣医から「異常なし」の回答を得て(加えて獣医は今後の注意点など詳しく説明してくれようとしていたのにルーランによって全部後日になった)、ルーランの調教師から外乗りの許可を取り付けた(「俺、リィと外乗り行くから」と言いっぱなしで厩舎を後にしたルーランを慌てて追いかけてリィもその場を後にしたのだが、あれは「許可を取り付けた」ということでいいのだろうか?)————のち。
リィは馬の姿に変わったルーランの、その背の上にいた。
王都の西、主要な街道から分岐するいくつかの細い道の一つを少し奥に入ると、そこにはまだ手付かずの草原が残っている。
そのまま進めば、いずれ山を越えて近隣の村へたどり着くだろうが、ここは見渡す限りの平原だ。昔の狩場だったのか、わざと手付かずの地として残しているらしい。
視界は開けているが土地には若干起伏があり、生えている草木も多いためか、少し進むたび見える景色が変わるのが面白い。
<いいじゃん、ここ。こんなところよく知ってたね>
手綱を伝わって、彼の声が頭に響く。リィはルーランの背に揺られながら「まあな」と返事をした。
まだ歩かせているだけだ。
準備運動がわりに一通り周囲を歩き回り、馬場の状況や危険物の位置、野生動物の有無などを確認してからでなければ走れないし走らせられない。
「外乗りの場所については、常にいくつかの場所の目星はつけている。急に頼まれることもあるから……」
<ここは?>
「ん?」
<ここは、誰かと来たことある?>
「いや……」
リィは答えた。風に乗って、草の香りが鼻先を掠める。
「初めてだ。良さそうな場所だなと思ってはいたんだが、なかなかな。普通の騏驥なら、もう少しフラットな馬場の方がいいし……」
<じゃあ、初めてなんだ>
「……ああ」
<俺のためにここにしたんだ?>
「まあ……そういうことになる……」
なるのか?
まあ確かに他の騏驥ならここは選ばなかった。
もっと安心安全な——裏を返せば騎乗者としてはあまり面白くない場所にしただろう。
騏驥の安全を優先して。
気を抜くと背の高い草の生えている一角へ行こうとするルーランをさりげなく「そっちじゃない」と誘導しながら、リィは思う。
にしても、そんなところに行って、何が楽しいんだ?
楽しいわけじゃないんだろうな。騎乗者を困らせようとしているだけだ。
こんな時でも細かな悪戯を——と言うか嫌がらせをしようとするルーランに溜息をつくリィに、ルーランは小さく笑った。
<なんだかいいな、そういうの>
「どういうのだ」
<あんたが俺のために考えてくれた、っていうのがだよ。しかも『初めて』なら尚更いい>
「…………」
やけに嬉しそうな気配が手綱から伝わってきて、リィは返答に困る。
聞かなかったことにして、ルーランを歩かせ続けていると(準備運動は入念にやっておいたほうがいい)、彼は思い出したように言った。
<にしても、今日は残念だったよな。ま、魔術師ってのはやっぱり奇妙な奴だってことを改めて知れたのは良かったけど……>
「……」
彼の言葉に、リィも師の部屋でのことを思い返した。
確かに残念だった。
でもルーランには幸運なこともあっただろう。
スゥファをじっと見つめ、「綺麗だ」と褒めていたルーラン。彼女も——もしくは彼もそれに応えるように微笑んでいて……。
思い出すと、なぜか胸が苦しくなる。
確かに彼女は、または彼は綺麗だった。
だった、けれど。
まさかルーランがそれを口にするとは思わなかった。言わずにいられないほどだった、ということなのだろう。
「でもお前はいいこともあっただろう?」
気づけば、リィはそんなことを口走っていた。
どうして、と思ったがもう遅い。
ルーランは、
<ん?>
と、聞き返してくる。
仕方なく、リィは続けた。
「スゥファだ。綺麗だっただろう、彼女は」
何を言っているのだろう、と自分でも思うのに、口は止まらない。
ここでルーランに彼女のことを思い出させて、その美しさを反芻させて、それでいったいどうなると言うのか。
そんなこと、したいわけじゃないのに。
リィは自分の行動に混乱する。
しかし、そんなリィに届いたルーランの言葉は、予想外のものだった。
<……ああいうのが好きなの?>
「?」
一瞬、何を言われたのかわからなくなる。
すぐに返事ができずにいるリィに、ルーランは続ける。
<ああいう、あんたに似た人>
「似てないだろう」
<うん>
「どっちだ」
<似てないよ。でもタイプ的には似てるじゃん。綺麗な、さ>
結局似ているのかそうじゃないのか、何を言っているのかよくわからない。
とは言え。
「別に、好きと言うわけでは」
<そう?>
「それはお前の方じゃないのか。だからあんなことを言って……」
<あんな?>
「綺麗だと……直接彼女に……褒めて……」
すでに起こった事実を話しているだけなのに、なんだか胸が苦しくなって、どうしても歯切れが悪くなる。
リィがそんな自分に微かに顔を顰めていると
<あー……いや、んー……>
ルーランもなんだか奥歯に物が挟まったような口調だ。
気になって「どうした」と尋ねると、ルーランは少し考えるような間を開けて続けた。
<ん? いや。なんかあれ違和感あってさ。あんたはそう思わなかった? なんかこう……綺麗すぎるんだよな。精巧すぎるって言うか……>
「……」
また彼が口にした「綺麗」という言葉が、なぜか胸に刺さる。そこがじわりと痛む。
どうして。
間違ったことを言っているわけじゃないのに。リィだって、スゥファは綺麗だと、そう思っているのに。
<だからとりあえず声かけて反応みようかなと思ってさ。やってみたわけ。そしたら——>
「見つめあってたな。向こうも嬉しそうだったじゃないか」
<え? 冗談>
「?」
即座の否定に、リィは戸惑う。ルーランは続けた。
<俺はあれでますます変だと思ったね。あれは笑ったんじゃないよ。動物が噛みつこうとする前、ああいう顔をする。あれはこっちを威嚇してたんだよ>
「威嚇?」
<多分ね。だから——うん、あんたとは似てても違う。あんたはああいう顔はしないからさ>
淀みのないリズムで歩きながら、ルーランはさらりと言う。
「多分」と言いながら、しかし確信している様子で。
だがリィの戸惑いはますます深くなるばかりだ。
「ではスゥファは……どういう」
<さあね。まあ魔術師の部屋にいるような奴だから、まともじゃないんだろ。人じゃなかったのかもよ。あの爺さんが作ったのかも>
「…………」
リィは絶句した。
そんなこと考えもしなかった。
スゥファも、綺麗だと思ったがそれだけだった。確かに、師の部屋に他人がいるのは珍しいとは思ったが、そういうこともあるのだろう、と思っていた。
なのに。
(これが騏驥——ということなのだろうか)
リィは改めて思う。
結果としてそれが正解かどうかはともかく、こちらが思いもよらなかった考え方をする。
それとも、ルーランが特別優れているということなのだろうか?
ただ、これで一つはっきりした事がある。
(そうか)
リィは、さっきまで重たかった胸が、なんとなく軽くなるのを感じていた。
(そうか。そういうことだったのか)
『だからとりあえず声かけて反応みようかなと思ってさ』
ルーランの言葉が思い出されるたび、胸の中に巣食っていたモヤモヤとしたものが消えていく気がする。
なるほど。
なるほど——そうか。そういうわけか。
なんだか、もうルーランがスゥファを「綺麗」と褒めても平気な気がする。
そのことに、我知らずほっと息をつく。
「なるほどな」
リィが、一人肯きながら言った時。
<……なに>
ルーランが訝しそうな声を上げた。
<なんだよ。なんか今の声おかしいぞ。おい。なんだよ、くそ、顔見せろ>
相変わらず耳がいい。
そして目がよく視界も広いのが馬の特徴だが、残念ながら唯一、真後ろだけは見えない。
つまり、リィが今どんな顔をしているのかだけは。
ルーランはなんとかリィの顔を見ようとしているのか、暴れるように首を振るが、リィはそれを手綱で抑える。
そしてゆっくりと、足で、腰で、彼に速度を出すよう促した。
常歩から速歩。やがてそれは駈歩に、そして襲歩に変わり、みるみる速度を増していく。
「いいから走れ。好きなだけ——好きなように走っていい」
お前が望むまま——。
手綱でそれを伝えた、瞬間。
更に走りが変わり、一瞬で辺りの景色が置き去りになる。
(っ……すごい……)
リィは全く揺れない背の上で全身に風を感じながら、久しぶりの快感を噛み締めていた。
(気持ちがいい……)
気持ちがいい——。
本当に——本当に——心からそう感じる。
風と溶け合って、まるで身体が浮いているような気さえする。
実際は、気を抜けばこっちを落とそうとする生意気で性格が悪くて気性の良くない騏驥の背の上だから、一瞬たりとも気は抜けないのだが、それでも。
それでもこの心地良さは、他のなににも勝る。
少なくとも、自分が経験したことの中で、彼に乗ってる時ほどの快感を覚えたことはない。
緑の濃淡が美しい平原を、どこまでも騏驥が駆ける。
強い足取りで。誰にも追いつけない素晴らしい速さで。
落ちかけている陽が、空を橙色の淡いグラデーションに染める。
世界を、美しく染める。
彼の身体も、きっと喩えようもなく美しく映えているだろう。
「狂悦の緑」——。
この世で唯一の三つ輪の騏驥。
(私の騏驥————)
彼の背は、リィしか知らない。
全力で駆けたときの彼の背は、リィしか知らない。
この素晴らしい背中を、騏驥を、リィしか知らない。
(私だけが、知っている)
その事実が、堪らない興奮になって突き上げてくる。
(止めたくない……)
リィは思った。
止めたくない。降りたくない。
ずっとこのまま、彼の背に乗っていたい。
こんなに気持ちのいい場所、他にはない。
<ふふ>
すると不意に。
ルーランが笑ったような気配が伝わってくる。
「? なんだ?」
リィが訊くと、ルーランはまた小さく笑った。
<ん? いや……気持ちいいなって思ってさ。腹立つくらい、滅茶苦茶気持ちいいな、って思ってさ>
「…………」
<そんな風に思ってる自分にまた腹が立って……でも気持ちいいんだよな、滅茶苦茶……>
彼は、自分が騏驥であることを厭うている。
リィは思い出した。
彼は、自分が人でなくなったことに憤っている。恨んでいる。抵抗している。
でも——。
この快感は、騏驥でなければ味わえないものなのだ——。
<腹立つよな>
土地の起伏などないかのように自由に自在に駆けながら、ルーランは言った。
<いっそ、ずっと馬だったらよかったのにな>
走り終えれば、厩舎に戻れば、彼はまた人の姿になる。
人として生きたいから、人の姿になる。
騏驥は、そんな生き物だから。
<なあ>
再び、ルーランの声がした。
<なあ、あんたは気持ちいい?>
答えなど知っているだろうに、尋ねてくる騏驥。
(私の、騏驥)
「ああ。——とても」
リィは答えた。
「とても気持ちがいい」
リィが答えたと同時に、ルーランは跳ねるようにしてまたスピードを上げる。
まるで二つが一つに溶け合うような、濃密な時間。
一人と一頭だけの、幸せな————。
彼らの運命を一変させる遠征命令が下されたのは、それから数日後のことだった。
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