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62 やがて夜が明ける

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 部屋へ戻ると、ニコロはルーランを座らせ、自身は髪を編み直しながら話し始める。あまり器用ではないようだが、言わずにおく。

「詳しい説明はしないよ。面倒だから。でもきみが会ったのは間違いなく今のルシーだ。夜明け前の時間だけ、彼女は話が出来る。普段は僕たち医師としか話をしないんだけど……『問題のある騏驥』と少しだけ話してくれないかって頼んだら応じてくれたよ。姿を見せなくていいなら、ってね」

「ルシーが言ったことは、本当なのか……? 馬の姿で、って……」

「本当。人にはもう戻れないけど、馬として暮らせるよ」

「そんな方法……そんなこと、出来たんだな……」

 驚きを隠せずルーランが言うと、なんとか髪を編み終えたニコロが深く頷く。
 とても綺麗とは言い難い出来だが、見なかったことにする。

「彼女は特別だったよ。運がよかった…という言い方はするべきじゃないんだろうけど……。順応できた。性格的にも体格的にもね。普通の騏驥はまず無理だから」

「…………」

「僕たち医師も、まずは彼女を元に戻すために力は尽くしたんだ。でももう……無理でね」

「……ん……」

「こういう選択になった。彼女を受け入れてくれる人もいたし」

「そいつ、大丈夫な奴なのか? やたら鞭打ったり、無茶な仕事させたりするような奴じゃ……」

 不安が、つい口をつく。ニコロはそんなルーランを安心させるように微笑んだ。

「大丈夫だよ。受け入れてくれるのは、元騎兵隊長で騎士学校のヴォエン正教官だから」

「え……!?」

 あの?

 ルーランは騎士学校で会った顔を思い出す。
 でも彼がどうして。

 戸惑うルーランにニコロは続ける。

「彼が領地に引き取って、面倒をみて下さるそうだよ。仕事は……あるのかなあ。あるとすれば子どもたちの相手とかじゃないかな。騎士や騎兵になりたい子たちを乗せたり……そんな感じの」

 ゆくゆくは彼女のご両親にも知らせて、引き合わせることも考えているみたいだよ。そっちは相手のあることだから追々とになるだろうけど……。

 ニコロはそう続けるが、ルーランはすぐに声が出せない。
 馬の姿で暮らすことに決めたと聞いた時は不安だったけれど、その環境なら願う限り最高の環境だろう。
 でも。

「……なんで、あの人が……」

 独り言のようにルーランが呟いたとき。

「頼んだ人がいるからだよ」

 さらりと、ニコロは言った。
 瞳だけは、ひたとルーランを見つめて。

「ルシーのために何かできないか考えて、可能性を探って、方々に頭を下げて……頼んで、お金をかけて、時間をかけて……。そんな風に、彼女のために尽力した人がいるからだよ」

「…………」

 どくん、とルーランの心臓が大きく鳴った。
 まさか……と一つの想いが、一つの名前が胸の中に去来する。
 鼓動が早くなる胸を抑えながらニコロを見つめると、彼は穏やかに、じっとルーランを見つめ返したまま続けた。 

「ルシーが受けた被害についてきみが感じた憤りは、それはきっと正しい感情だ。僕だって、もし自分の大切な人が同じ目に遭っていたならきみのように憤慨したと思う。でもね、肝心なのはそれからどうするか、だよ」

「……」

 そう。
 そうなのだ。今ならわかる。
 ニコロの声は続く。

「この件もあって、リィは今回の遠征に参加したんだよ。騎士会の後押しを得て、諸々の手続きを推し進めるために。一人では無理でも、騎士会の総意、ってことになれば議会や『塔』に認めさせる可能性がグンと高くなるから……そのためにね。そういうの、苦手だろうに」

 当然のようにリィの名前を出すと、ニコロは彼がルシーのために奔走してくれていたことを説明し始める。

 前例はあるのか。あるならそれに準じることはできるのか。なければ新しく認めさせるにはどうすればいいのか。可能性は? 手続きは? 誰に頼めば? 資金は? 方法は?
 時間を作ってはあちこちに出向き、そして時には力になってくれそうな人に頭を下げ、交渉し、そして――。
 彼はとうとう騏驥にとって新たな余生の一つを獲得したのだ、と。


 聞きながら、ルーランは過日を思い返す。彼と会っていた頃を。
 だがそんなこと、彼は一言も言っていなかった。
 馬房に来なかった時も、避けられているからだと思っていた。新しい騏驥に乗る方がいいのだと思っていた。なのに……。

「なんで……」

 なぜ、彼はそこまでして?
 呟くルーランに、

「彼も後悔していたからだよ」

 ニコロは言った。
 きっと彼もリィの協力者で、沢山話をしたのだろう。

「リィも自分の行いを悔やんでいて、申し訳ないと思ってたからだよ。だから彼はその後悔にきちんとカタを付けようとした。騎士として、騏驥にとって、ルシーにとってなるべくいい形になるように、って」

「…………」

「どうしてそこまでするのか——僕も尋ねた。だってルシーはリィとはなんの関係もない騏驥だからね。そうしたら、彼はこう言った」


『彼女は、わたしの騏驥が大切にしている騏驥だ』——。


「だからできる限りのことはしたい——って。『彼女のおかげでルーランが騏驥として生きていけるようになったのだとしたら、わたしが彼に乗れているのも彼女のおかげなのだから』——ってね」

「…………」

 ルーランは頭を抱えた。
 頭を抱えたまま、俯いた。
 自分の愚かさに打ちのめされる。

 なんだそれは。

 自分が後悔ばかりしていた時に、彼は。
 そしてそんな彼を自分は——。

 だがリィはどうして一言それを言ってくれなかったのか。そうすれば——。

 そう思った直後に、「ああ」とルーランは思い直す。思い直して、眉を寄せた。
 そうだ。リィはそんなことをしない騎士だ。
 騏驥に恩を着せ、それで縛るような騎士ではなかった。
 彼はいつもいつも、自分の技量と信念と誇りだけで騏驥に向き合っている。

 一緒にいて、そんなことわかっていたはずだったのに。
 

 ルーランは俯いたまま、膝の上で拳を握りしめる。


『彼女は、わたしの騏驥が大切にしている騏驥だ』。


 どうして。
 どうしてこんなに自分は——。


 するとそんなルーランにニコロの声がした。

「……この間、きみは僕に訊いたね。どうして騎士にならないのかって」

 ルーランは俯いたまま、小さく頷く。そしてゆるゆると顔を上げた。

「だって、あんたは魔術師だ。だったら魔術で騏驥に乗れるだろ?」

 だがそう言ったルーランの視線の先で、二コロは首を振った。

「無理だよ、僕には」

「どうして。運動神経悪いとか」

「それもあるけど」

 苦笑して、ニコロは言う。

「魔術が使えても、僕は騎士じゃない。騏驥に乗るのは、やっぱり騎士なんだよ」

「?」

 どういう意味だ?
 
 だって騎士は魔術を使って騏驥に乗るのだ。鞭や手綱。魔術の込められたそれらを使って。それは傀儡ではないのか。
 魔術師が乗った方がよほど話が早いではないか。
 尋ねるルーランに、ニコロは再び首を振る。そして、微笑んで言った。

「魔術師が乗れば、それはただの魔術師の延長の存在に過ぎなくなってしまうんだよ。騏驥じゃない。僕の魔術を使って、きみを思う通りに動かしてるなら、それは騏驥じゃなくてもよくなってしまうよ。騎士と騏驥、二つが一つになって三にも十にもなれる……それが理想なんだから」

「…………」

「自分の頭で考えられることが、騏驥の最大の長所だよ。魔術師が乗れば、その良さを殺すだけだ」

「でも」

 ルーランは言った。

「リィはいつも言うぜ。『勝手なことをするな。お前はわたしの指示に従え』って」

 思い出して、唇を尖らせる。すると、ニコロはくすっと笑った。

「で、きみはその通りにするのかい」

「!」

 その言葉に、ルーランは黙ってしまう。ニコロは満足そうに目を細めて笑った。

「しないだろう? それが騏驥なんだよ。だから騏驥と騎士の関係は素晴らしいんだ。お互いに意思を主張し合いながら信頼を深めていける……。そういうのは、魔術師では無理なことなんだよ」

 しみじみ言うと、ニコロは少しだけ自分の立場を残念がっているように微笑む。
 次いで、懐かしむように目を細めて続ける。

「僕は、きみたちが駆けている姿をたまたま目にしたことがあるけど……とても素敵だったよ。きみの珍しい毛色が夕日に映えて、なびく鬣とリィの髪が解け合うように混じり合ってさ……。見とれたよ。綺麗で、生命力に溢れていて、リィもきみも心から気持ちよさそうで……。一人と一頭で、同時に一つのもので……。ああいう一体感は、驥騏と騎士だからこそじゃないのかな」

「…………」


 ルーランは思い出す。
 思う存分リィに乗ってもらった、最後の時のことを。

 あれはまだ遠征の前で、リィと一緒に騎士学校の魔術師の元へ行った後のことだった。
 魔術師の部屋でのやり取りにうんざりして、なんだか思い切り走りたくなったのだ。

 そう。あの時は——。
 あの時は、とても気持ちが良かった。
 とても気持ちが良くて、どこまでも駆けていけそうなほどで——。
 そして幸せだった。
 
 一人で駆けるよりも、ずっと。

 自分の背に彼がいることが。
 彼に手綱を握られていることが。

 彼の騏驥であることが。

 彼もきっと同じように感じているに違いないと、そう思えたことが。





 
 まだ、間に合うだろうか。 
 
 


 

 これほど愚かだった自分でも、まだ。







 彼は、わたしの唯一の騎士。
 背に乗ることを許し、命を託し、託され、共にあることを望む唯一の騎士。
 わたしに格別の陶酔をもたらす、たった一人の——。






 
 ルーランは深く俯くと、ぎゅっと目を瞑る。
 瞼の裏には夜が蘇る。
 夜。まだ明けていない深い闇。ルシーのいた場所。
 自分もまた、ずっと引き摺り続け、居続けた場所。

 けれど。

 ルーランは先刻の夜明けの美しさを思い出す。
 冴えた空気は肌に清々しく心地良く、全てを生まれ変わらせてくれるかのようだった。

 ルシーの残像が一瞬だけ胸をよぎり、そしてそこに消えていく。

 そういえば、とルーランは思う。
 そういえば、どちらも「さようなら」を言わなかったな、と。

 でも思い出すのは、きっとこれで最後だ。
 大切だった人。これからもずっと大切な——思い出。




 
 ルーランは息をつくと、目を開け、顔を上げる。
 そうすると、自分の抱いていた疑問がひどく馬鹿げたことに思えた。


『間に合うだろうか』——?


 冗談じゃない。
 
 間に合わせる。
 間に合わせる、絶対に。

 俺の騎士のために。
 俺のために。
 もう二度と後悔なんかしない。

 間に合わせる。
 俺は遅れをとったことなんて一度もない。



「——ニコロ」

 医師を呼ぶと、彼は予期していたように「なに?」と首を傾げる。
 ルーランは言った。


「俺をダンジァあいつに会わせろ」
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