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61 夜明け前が一番暗い
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「……おい、本当にこの道でいいのか?」
後ろから付いてきているはずのニコロにそう問いかけてみたが、なぜか声はなく、ルーランは小さく舌打ちして足を止めた。
足元の悪い暗い道を長く歩き続けるのは、さすがのルーランでも段々と不安になってくる。しかもここはどういう造りなのか方向がわかりづらい。
声は反響するし、おそらく自然の隧道なのだろう。
うねうねと左右に、或いは起伏を持って上下に曲がりくねった道は、人が通ることを考えて作られているとは思えない。
(おいおい)
まさかこういう形で「処分」されるんじゃないだろうな?
あのニコロがこんな騙すような真似をするはずが……と思うが、不安が信頼を凌駕しそうになる。
「……まあ、大丈夫だろ」
ルーランは悪い想像を打ち消すように声を上げると、頭を振り、落ちかかってきた髪をかき上げ、「よし」と再び歩き始める。
言われた通りに。
今朝、まだ夜が明ける前。ルーランは指示通りにニコロの診療所を訪れた。
案の定ろくに寝ないままやってきたわけだが、それでもニコロに治療してもらったおかげと、身体を休められたおかげでジァンに殴られた痛みはすっかり治まっていた。
ダンジァの治療のためだろう。ニコロも随分と疲れている様子だったが、ルーランの顔を見ると満足したように微笑み、「行こう」と先に立って部屋を出た。
道すがら、ニコロは、ダンジァの治療は順調であること、とはいえ、まだ自身やリィに起こったことの全てを説明できる状態ではないことを教えてくれた。
『——だから、事態の全容を知れるまでにはもう少し掛かりそうだね。とはいえ、取りあえずのところ、リィへの疑いは全て晴れたよ。それについては、ダンジァがきちんと証言した』
よかったね、と微笑みながら言われ、ルーランはほっとしたもののすぐに言葉が返せなかった。どんな顔をすればいいのかわからなかったのだ。
リィが疑われて頭に来ていたのは事実だが、それを他人に指摘されるのは、なんだか気恥ずかしくて。
そんな風にして、どれほど歩いただろうか。
いつしか騏驥の匂いも感じられなくなり、ここはどこなのだろう、とルーランが思い始めたとき。
目の前に、今ルーランがそろそろと歩を進めている暗い道への入口が姿を見せたのだった。
『気をつけて』
ルーランを先に行かせながら、ニコロは言った。自分の足元を、発光石で照らしながら。
『ここは特別な魔術が使われてるから、きみたちでも見えづらいだろう?』
『……』
特別な、魔術。
ということは、医師としてというよりは魔術師として連れてきたかった場所、ということか?
言われるまま奥へ奥へと歩きながら、ルーランは思う。
一介の騏驥をそんな場所に連れてくるなんて、ニコロは何を考えているのだろう?
不思議に思いながらも、ここまで来たら引き返す気もなく、ルーランは道なりに進んでいく。幸い——というべきか分かれ道はないから、迷うようなことはない。
とはいえ、「本当に」分かれ道がないのかニコロのおかげでそう見えているだけなのかはわからないが。
魔術師に詳しいわけではないルーランだが、それでも彼らの力をもってすれば、いくらでも不可思議なことを起こせることは知っている。
もちろん、魔術師の力にもよるのだろうが、まっすぐな道を迷路に見せることぐらい、造作もないだろう。その逆も。
そして、途中不安になったルーランがニコロに声をかけてみたり、その返事がなくてさらに不安になったり、それでも歩き続けて——どのくらい歩いただろうか。
『ちょっと待ってて』
それまで背後にいたのかいなかったのかわからなくなっていたニコロが不意にそんなことを言うと、ルーランの前進を止める。
ルーランは言われるまま立ち止まると、改めて辺りに注意を払った。
騏驥は夜でも目が見えるし、耳だって普通の人間より遥かにいい。けれど今いるここは、そんな目と耳を持ってしても怖さを感じるほどの深い闇と静寂だった。
(ここはいったい……)
ルーランが思ったときだった。
「……ルーラン……?」
どこからか、微かな女の声がした。
女の——ルシーの声が。
「ルシー!?」
聞き間違えるわけがない。
けれど驚きに、ルーランの声が上擦る。
「え……ほ、本当にあんたなのか!? ここどこだよ? 閉じこめられてるのか? だったら俺が出してやるよ。一緒に——」
「違うのよ」
動揺するルーランに、ルシーは落ち着いた口調で言った。
「違うわ。わたしが望んでここにいるのよ」
「……え……」
思いがけない言葉に、ルーランは一瞬虚をつかれる。
ここに? こんな何もない真っ暗な場所に?
ルーランは首を巡らせるが、ルシーがどこにいるのかわからない。
沈黙が続く。
再び、ルシーが口を開いた。
「わたし、もう酷い姿なのよ。こうして話せるのだって、あと少し。いずれは完全に馬の姿になってしまうわ」
「! っ……ルシー! どこにいるんだよ!? なんだよそれ!? おい! ニコロ! どこ行ったんだよ!? 出てきてちゃんと説明しろよ!」
「騒がないのよ、ルーラン」
「だっ——」
「言ったでしょう、全部わたしが望んだことなの。だからいいのよ。——それよりあなた、またなにかやらかしたのね。だからこんなところに来たんでしょう」
「え!? え……いや……これは…なんていうか……ニコロが……」
「先生が、なに?」
「いや……ニコロはここに連れてきてくれて……その……」
口籠ると、ルシーは我慢できなくなったように小さく笑う。
その声で、彼女がわかっていることを悟る。
「……なんだよ。もしかして全部知ってて訊いたのかよ」
意地が悪いな、とルーランが言うと、ルシーはまだ笑いながら言った。
「全部じゃないわ。お客様が来ることだけ。そして——わたしに会いにくるような物好きはあなたしかいないわ」
さ、何があったのか話して。
優しく促すようなその声に、ルーランは仕方なく、ここへ来るに至った経緯を説明する。
遡って、全てを。
リィとの仲違いまで、全てを。
それを、ルシーは黙って聞いてくれていた。
昔のように。
先輩の優しい騏驥として。味方など誰もいなかったルーランを姉のように導いてくれた、たった一人の騏驥として。
「俺、あんたを助けたかったんだ……」
そしてぽつりと、ルーランは零した。
そう。助けたかった。
大切な彼女を助けたかったのだ。なんとかして。それは無理だとわかっていても。
そして、そうできない憤りが……。
(馬鹿だな……)
ルーランは自分を責めながら俯いた。
自分の抵抗は、自分の反抗は、結局誰のためにもならずなんの役にも立たなかった。
むしろリィを傷つけ、危険に晒し、自分の後悔を引き起こしているだけだ。
冷静になって振り返ってみればそれがよくわかる。
以前のジァンからの助言も。
ダンジァを責めたルーランに対して、彼があれだけ怒ったのも当然だ。
ルーランは、はーっと大きく溜息を吐く。
と、辺りの空気が和らぐような気配があった。相変わらず周囲は墨を流したような闇だ。けれど、ルシーが苦笑したような、そんな気配が。
「ルーラン、気持ちは嬉しいけれど、あなたが助けるのはわたしじゃないわ。騏驥が騏驥を助けてどうするの。あなたが助けなきゃならないのは騎士よ。騏驥だけが、騎士を助けることが出来るんだから」
「……ルシー……」
「でも嬉しいのは本当よ。ありがとう。わたしのためにそう思ってくれた騏驥がいた思い出で、これからも幸せに生きていけるわ」
「…………」
その声は、いつもの彼女のように優しい。けれどその優しさの中には、後戻りする気のない強い決心のようなものが感じられる。
ルーランは、自分の全身が緊張するのがわかった。
彼女が何を考えているのか知りたい。けれど怖くて黙ってしまったルーランに、ルシーはそれまでと同じような柔らかな声で言った。
「……わたし、馬の姿でいることを決めたの。騏驥ではなく馬として……それなら引き取ってくれる方がいるそうなのよ。だから——」
ああ——やはり。
そんな想いが込み上げるのを感じ、ルーランはきつく目を閉じた。
全く考えなかったと言えば嘘だ。ルーランもそれは考えた。
「人に変化する馬」でも「馬に変化する人」でもなく、馬と人の入り交じった、ルシーのあの姿。
あの悲惨な姿を目の当たりにした者として——そしてルシーはおそらくもう二度と自分の意思で馬と人との変化を制御できないだろうことを察した者として、考えたことはあったのだ。
ならばいっそ、完全に馬の姿になった方がいいのでは、と。
とはいえ、そんなことが実際にできるかどうかわからなかったし、なにより、そう思うことがルシーに対して酷いことを考えている気がしたから、なるべく考えないようにしていた。
なのに。
なのに彼女は、それは選択するというのか。
馬になってしまうことを。
「……いいのかよ、それで」
馬鹿げていると思いながらも、ルーランはそう尋ねることしかできなかった。
いいわけがない。
誰もそんな選択はしたくない。
けれどそれしか選べない。
案の定、そんなルーランの問いに、ルシーは「ええ」と穏やかに応えた。
「ええ。決めたの」
「でも——」
「ルーラン。元に戻らない以上は、進むしかないのよ」
その声は穏やかで落ち着いていて、けれど芯のある声だった。
「大丈夫。納得してるわ。誰かに無理強いされたわけでもない。それに、引き取ってくれる方は素晴らしい方よ。信頼できる方。みんながわたしのことを考えて手配して下さったの。一番良いのはこの方法だと思ったから、そうするだけのことなのよ」
「…………」
「身体が回復するに従って、今後のことをいろいろと考えるようになって……決心して……。先生たちのおかげで、今のところは大きな問題もないわ。身体が変わっていくにつれて、騏驥だったころの記憶も……いずれ薄らいでいくでしょう」
「……だ」
「え?」
「嫌だ!」
ルシーの言葉に、ルーランは声を上げていた。
「嫌だ! なんだよそれ! 嫌だよ! 俺のこと、覚えててくれよ!」
ルシーがこれから先をなるべく幸せに暮らすためにはそうするしかないとわかっていても、彼女が離れていく寂しさが我慢できない。
会えなくても、ずっとどこかで生きてくれていればと思っていた。
でも——。
自分のことまで忘れられてしまうなんて。
そんなの、寂しすぎる。
ルーランは奥歯を噛み締め、「嫌だ……」と呻くように繰り返す。
しばらく、沈黙が続いたのちだった。
「前を向いて」
優しい、ルシーの声がした。
昔から変わらない優しくて穏やかな声。ルーランを拒絶せず受け止めてくれていた声だ。
騏驥になってしまったことに反発し、抵抗し続けていたルーランの背中をそっと押してくれた声だ。
「今までのことではなく、これからのことを考えて。これから、あなたはわたしとじゃなくあなたの騎士と色々なことを経験するの」
「……」
「わたしの仕事はもう終わっているのよ。リードホースの役割は、騏驥を騏驥として送り出すことなんだから」
「……ルシー……」
「あなたにはそれが出来るわ、ルーラン」
「…………」
乗ってくれる騎士もいないのに? とは言わなかった。言えなかった。
ここで彼女に弱音を吐きたくなかった。自分のせいで招いたことならなおのこと。
「……わかった」
ルーランは噛み締めるように言った。
「わかったよ、ルシー。——わかった」
ルーランが繰り返すと、ルシーがまた微笑んだ気配がある。
ルーランは思わず、ズイと一歩踏み出していた。
「なあ、ルシー。顔を見せてくれよ。少しでいい。ほんのちょっとでいいんだ」
どこに彼女がいるのかなんてわからない。
けれどルーランは前のめりになりながら周囲を見回す。
一目でいい。ほんの少しでも姿を見られれば心から安心してさよならを言えるのに。
だが、どれほど目を凝らしても周囲は暗闇のままだ。匂いもしない。
「ルシー!!」
ルーランは闇へ向けて名前を呼び続ける。
聞こえていないはずはない。話せていたのだ。なら少しだけでもその姿を——そう願って。
けれど。
「……ごめんなさい」
返ってきたのは、そんな謝罪の言葉と悲しそうな声だった。
「言ったでしょう。もうわたし——見せられる姿じゃないの。わかって。見せたくないのよ……」
「…………」
「なるべくなら、昔のわたしの姿を覚えていて欲しいわ。まだ元気だったころの——」
「覚えてるよ」
ルーランは涙が溢れそうになるのを堪えながら言った。
こんなに悲しい事なんて、騏驥になる前もなってからもきっと初めてだと、思いながら。
「覚えてる。あんたが俺のことを忘れても、覚えてる。でも今のルシーだって、絶対同じぐらい素敵だ」
「……ありがとう。迷ったけれど最後にあなたと話せて良かったわ。元気で……」
声が、小さくなる。
周囲の空気が揺れ、次第に辺りの気配が変わっていく。
闇が、深く底なしに思えた暗さから、冴えた夜明け前のそれに変わっていく。
(あ……)
いなくなった——。と、ルーランは思った。
いなくなった。
ルシーは。もう、ここには。
そう感じると同時、真っ暗だった道にぽつ、ぽつ、と灯りが灯っているのが見える。
誘われるようにそちらへ足を進めていくと、ほどなく、外へ出ることが出来た。
僅かに射しはじめた朝陽の中、ニコロが静かに佇んでいる。ルーランは思わず振り返ったが、今しがた出てきたはずの道はもう跡形もない。
驚くルーランに、髪をといた姿のニコロが「おかえり」と穏やかに言った。
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