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第2話「雨上がりの匂い」
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男の傷はひどかった。
右の脇腹から背中にかけて、獣の爪で引き裂かれたような深い傷口が開いていた。
ルシアンは男の革鎧をはぎ取り、温水で傷口の汚れを丁寧に洗い流した。そして、自分で調合した傷薬をたっぷりと塗り込み、清潔な布でしっかりと縛り上げた。
血は止まったが、男の熱は下がらない。
ルシアンは暖炉の火を強め、男の体に厚い毛布を何枚もかけた。
治療を終え、水で手を洗いながら、ルシアンは男の顔を静かに見下ろした。
眠っていても、眉間にしわを寄せている。何か苦しい夢でも見ているのだろうか。
家の中には、男から発せられるアルファの匂いが満ちていた。雨上がりの森の土の匂い。それは不思議と嫌な感じはせず、むしろルシアンの心を落ち着かせるような静けさを持っていた。
ルシアンは椅子に座り、男の様子を監視した。
夜が明け、窓の外が白み始めたころ、ようやく男の呼吸が穏やかになった。
「……水……」
かすれた声が聞こえ、ルシアンははっとして顔を上げた。
男がゆっくりと目を開けていた。濁った金色の瞳が、ぼんやりと天井を見つめ、やがてルシアンのほうへと動いた。
「ここは……」
「北のエルムという村です。あなたは吹雪の中で倒れていました」
ルシアンは静かに答え、木の器にぬるま湯を入れて男の口元へ運んだ。
男は痛みに顔をしかめながら上半身を少しだけ起こし、器を受け取って水を飲み干した。
「助かった。あんたが手当てを?」
「ええ。村の薬師をしています。ルシアンと申します」
「……ガルドだ。ただの傭兵さ」
ガルドと名乗った男は、器をルシアンに返しながら、じっとルシアンの顔を見つめた。
その視線に、ルシアンはわずかに体をこわばらせた。アルファであるガルドが、自分の匂いに気がついたのではないかと恐れたからだ。
ルシアンは普段から、オメガの匂いを抑える強い薬草を焚き込んでいる。それでも、鼻の利くアルファをごまかしきれるとは限らない。
ガルドは小さく鼻をすするような仕草をした。
「……冬の夜の匂いがする」
ガルドの低い声に、ルシアンの心臓が大きく跳ねた。
「あんた……オメガだな?」
その言葉は、ルシアンにとって死刑宣告にも等しかった。
ルシアンは無意識のうちに数歩後ろに下がり、壁に背中を押し当てた。両手が震え、呼吸が浅くなる。
また軽蔑される。汚らわしいと言われる。あるいは、無理やり襲われるかもしれない。
『逃げないと』
頭の中で警告が鳴り響くが、足がすくんで動けない。
ガルドはそんなルシアンの様子を見て、ゆっくりと息を吐いた。そして、毛布を引き上げて自分の体をすっぽりと隠した。
「安心しろ。俺は誰かを襲うような野蛮な真似はしない。それに……番なんて面倒なものを作る気もない」
ガルドの言葉には、どこか冷たく、突き放すような響きがあった。
ルシアンは驚いて目を見張った。アルファの多くは、オメガを見れば本能のままに支配しようとする。こんなふうに静かに距離を置くアルファに会ったのは初めてだった。
「あんたの事情に首を突っ込む気はない。傷が塞がったら、すぐに出ていく。それまでは、少しだけ部屋の隅を貸してくれないか」
ガルドはそれだけ言うと、目を閉じて壁のほうに寝返りを打ってしまった。
ルシアンはしばらくの間、壁に寄りかかったまま動けなかった。
ガルドから発せられる土の匂いは、先ほどよりも少しだけ弱くなり、彼が意図的にフェロモンを抑え込んでいることがわかった。
ルシアンは小さく息をつき、震えていた両手を胸の前で組んだ。
「……傷が治るまでなら、ここにいても構いません」
ルシアンがそう告げても、ガルドからの返事はなかった。ただ、静かな寝息だけが部屋の中に響いていた。
外ではまだ、冷たい風が雪を運んでいた。
二人の大人は、互いに越えてはならない線を引いたまま、小さな家の中で奇妙な時間を共有し始めた。
右の脇腹から背中にかけて、獣の爪で引き裂かれたような深い傷口が開いていた。
ルシアンは男の革鎧をはぎ取り、温水で傷口の汚れを丁寧に洗い流した。そして、自分で調合した傷薬をたっぷりと塗り込み、清潔な布でしっかりと縛り上げた。
血は止まったが、男の熱は下がらない。
ルシアンは暖炉の火を強め、男の体に厚い毛布を何枚もかけた。
治療を終え、水で手を洗いながら、ルシアンは男の顔を静かに見下ろした。
眠っていても、眉間にしわを寄せている。何か苦しい夢でも見ているのだろうか。
家の中には、男から発せられるアルファの匂いが満ちていた。雨上がりの森の土の匂い。それは不思議と嫌な感じはせず、むしろルシアンの心を落ち着かせるような静けさを持っていた。
ルシアンは椅子に座り、男の様子を監視した。
夜が明け、窓の外が白み始めたころ、ようやく男の呼吸が穏やかになった。
「……水……」
かすれた声が聞こえ、ルシアンははっとして顔を上げた。
男がゆっくりと目を開けていた。濁った金色の瞳が、ぼんやりと天井を見つめ、やがてルシアンのほうへと動いた。
「ここは……」
「北のエルムという村です。あなたは吹雪の中で倒れていました」
ルシアンは静かに答え、木の器にぬるま湯を入れて男の口元へ運んだ。
男は痛みに顔をしかめながら上半身を少しだけ起こし、器を受け取って水を飲み干した。
「助かった。あんたが手当てを?」
「ええ。村の薬師をしています。ルシアンと申します」
「……ガルドだ。ただの傭兵さ」
ガルドと名乗った男は、器をルシアンに返しながら、じっとルシアンの顔を見つめた。
その視線に、ルシアンはわずかに体をこわばらせた。アルファであるガルドが、自分の匂いに気がついたのではないかと恐れたからだ。
ルシアンは普段から、オメガの匂いを抑える強い薬草を焚き込んでいる。それでも、鼻の利くアルファをごまかしきれるとは限らない。
ガルドは小さく鼻をすするような仕草をした。
「……冬の夜の匂いがする」
ガルドの低い声に、ルシアンの心臓が大きく跳ねた。
「あんた……オメガだな?」
その言葉は、ルシアンにとって死刑宣告にも等しかった。
ルシアンは無意識のうちに数歩後ろに下がり、壁に背中を押し当てた。両手が震え、呼吸が浅くなる。
また軽蔑される。汚らわしいと言われる。あるいは、無理やり襲われるかもしれない。
『逃げないと』
頭の中で警告が鳴り響くが、足がすくんで動けない。
ガルドはそんなルシアンの様子を見て、ゆっくりと息を吐いた。そして、毛布を引き上げて自分の体をすっぽりと隠した。
「安心しろ。俺は誰かを襲うような野蛮な真似はしない。それに……番なんて面倒なものを作る気もない」
ガルドの言葉には、どこか冷たく、突き放すような響きがあった。
ルシアンは驚いて目を見張った。アルファの多くは、オメガを見れば本能のままに支配しようとする。こんなふうに静かに距離を置くアルファに会ったのは初めてだった。
「あんたの事情に首を突っ込む気はない。傷が塞がったら、すぐに出ていく。それまでは、少しだけ部屋の隅を貸してくれないか」
ガルドはそれだけ言うと、目を閉じて壁のほうに寝返りを打ってしまった。
ルシアンはしばらくの間、壁に寄りかかったまま動けなかった。
ガルドから発せられる土の匂いは、先ほどよりも少しだけ弱くなり、彼が意図的にフェロモンを抑え込んでいることがわかった。
ルシアンは小さく息をつき、震えていた両手を胸の前で組んだ。
「……傷が治るまでなら、ここにいても構いません」
ルシアンがそう告げても、ガルドからの返事はなかった。ただ、静かな寝息だけが部屋の中に響いていた。
外ではまだ、冷たい風が雪を運んでいた。
二人の大人は、互いに越えてはならない線を引いたまま、小さな家の中で奇妙な時間を共有し始めた。
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