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第3話「境界線と温かいスープ」
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深い雪に閉ざされたエルムの村は、朝を迎えても薄暗い。
窓ガラスの表面には鋭い霜の結晶がびっしりと張りつき、外の景色をぼんやりとした白い塊に変えていた。隙間から忍び込む冷気が、床に敷かれた古い絨毯を這うように広がっていく。
ルシアンは分厚い靴下を履いた足で静かに台所へ向かい、鋳鉄の鍋を火にかけた。
乾燥させた根菜と固い干し肉を小さく刻み、水に放り込む。木のまな板を打つ包丁の音が、静まり返った家の中に等間隔で響いた。
鍋の底から小さな気泡が立ち上り、やがて白い湯気とともに素朴な塩の香りが漂い始める。
部屋の隅にある寝台では、ガルドが壁に背を向けたまま横になっていた。厚い毛布がわずかに上下し、規則正しい呼吸音が聞こえてくる。
『本当に、不思議な人だ』
ルシアンは木べらで鍋の中をゆっくりとかき混ぜながら、ちらりと背後を振り返った。
あれから三日が過ぎていた。ガルドの熱は下がり、深い傷口も少しずつふさがり始めている。大柄なアルファの回復力は、ルシアンの想像をはるかに超えていた。
共同生活は、ルシアンが予想していたような恐ろしいものにはならなかった。
ガルドは必要以上の言葉を発しない。ルシアンの過去を聞き出そうとすることも、オメガとしての性質に触れることもなかった。食事を受け取るときは短く礼を言い、あとはただ静かに痛みに耐えながら眠っている。
まるで、自分の存在がルシアンの負担にならないよう、息を潜めているかのようだった。
ルシアンは木製の器に熱いスープをよそい、湯気の立つそれを両手で包み込むように持って寝台へと近づいた。
「ガルド。食事の用意ができました」
声をかけると、毛布の山がゆっくりと動いた。
ガルドは顔をしかめながら上半身を起こし、背もたれに寄りかかった。無精ひげの伸びたあごをさすり、濁った金色の瞳でルシアンを見上げる。
「……すまない。いつも世話をかける」
かすれた低い声とともに、雨上がりの深い森の土の匂いがふわりと空気を揺らした。
ルシアンは胸の奥がきゅっと締まるのを感じた。アルファのフェロモンは、どれだけ相手が抑え込もうとしても、完全に消し去ることはできない。その匂いを嗅ぐたびに、ルシアンの体はオメガとしての本能に微かに反応してしまう。
それを悟られないよう、ルシアンは表情を崩さずに器を差し出した。
「温かいうちに食べてください。傷の治りが早くなります」
「ああ。助かる」
ガルドは大きな手で器を受け取った。その指先には無数の小さな傷跡があり、手のひらはひどく分厚く硬そうだった。剣を振り回し、血と泥にまみれて生きてきた人間の手だ。
ルシアンは自分の白く細い指先をそっと隠すように、修道服の袖を引いた。
ガルドは木の匙を使い、音を立てずにスープを口へ運ぶ。その横顔には、どこか遠くの景色を見つめているような、深い孤独の影が落ちていた。
二人の間には、見えないけれど確かに存在する、透明で冷たい境界線が引かれている。
互いに踏み込まない。互いに求めない。
それはルシアンにとって、これ以上ないほど安心できる距離だったはずだ。それなのに、なぜか器を包み込むガルドの大きな手から目が離せなくなっていた。
***
昼下がりになり、窓の外の雪が少しだけ小降りになった。
ルシアンが薬草の仕分け作業を終えて顔を上げると、ガルドが寝台から抜け出し、壁際にある薪の束に手を伸ばしているところだった。
「何をしているんですか。まだ動いてはいけません」
ルシアンは驚いて立ち上がり、足早にガルドのそばへ駆け寄った。
ガルドは傷口を押さえながら、少しだけ気まずそうに目を逸らした。
「ずっと寝ているばかりじゃ、体がなまる。それに、薪くらい俺が運ぶ」
「傷が開いたらどうするつもりですか。あなたの体はまだ完全に治っていないんですよ」
「これくらいの傷、戦場じゃかすり傷だ」
強がるガルドの言葉に、ルシアンは小さく息を吐いた。
「ここは戦場ではありません。私の家です。患者は薬師の指示に従ってください」
ルシアンが毅然とした態度で告げると、ガルドはわずかに目を見張り、それから諦めたように肩の力を抜いた。
「……わかった。あんたの言う通りにする」
素直に引き下がるガルドの姿に、ルシアンは少しだけ毒気を抜かれた。
荒々しい傭兵という生き方を選んできた男なのに、その振る舞いにはどこか不器用な優しさがにじみ出ている。
ルシアンは薪を両手で抱え上げ、暖炉のそばへと運んだ。
背中に刺さるガルドの視線を感じながら、ルシアンの心の中で、冷たく固まっていた何かがほんの少しだけ溶け出すような音がした。
窓ガラスの表面には鋭い霜の結晶がびっしりと張りつき、外の景色をぼんやりとした白い塊に変えていた。隙間から忍び込む冷気が、床に敷かれた古い絨毯を這うように広がっていく。
ルシアンは分厚い靴下を履いた足で静かに台所へ向かい、鋳鉄の鍋を火にかけた。
乾燥させた根菜と固い干し肉を小さく刻み、水に放り込む。木のまな板を打つ包丁の音が、静まり返った家の中に等間隔で響いた。
鍋の底から小さな気泡が立ち上り、やがて白い湯気とともに素朴な塩の香りが漂い始める。
部屋の隅にある寝台では、ガルドが壁に背を向けたまま横になっていた。厚い毛布がわずかに上下し、規則正しい呼吸音が聞こえてくる。
『本当に、不思議な人だ』
ルシアンは木べらで鍋の中をゆっくりとかき混ぜながら、ちらりと背後を振り返った。
あれから三日が過ぎていた。ガルドの熱は下がり、深い傷口も少しずつふさがり始めている。大柄なアルファの回復力は、ルシアンの想像をはるかに超えていた。
共同生活は、ルシアンが予想していたような恐ろしいものにはならなかった。
ガルドは必要以上の言葉を発しない。ルシアンの過去を聞き出そうとすることも、オメガとしての性質に触れることもなかった。食事を受け取るときは短く礼を言い、あとはただ静かに痛みに耐えながら眠っている。
まるで、自分の存在がルシアンの負担にならないよう、息を潜めているかのようだった。
ルシアンは木製の器に熱いスープをよそい、湯気の立つそれを両手で包み込むように持って寝台へと近づいた。
「ガルド。食事の用意ができました」
声をかけると、毛布の山がゆっくりと動いた。
ガルドは顔をしかめながら上半身を起こし、背もたれに寄りかかった。無精ひげの伸びたあごをさすり、濁った金色の瞳でルシアンを見上げる。
「……すまない。いつも世話をかける」
かすれた低い声とともに、雨上がりの深い森の土の匂いがふわりと空気を揺らした。
ルシアンは胸の奥がきゅっと締まるのを感じた。アルファのフェロモンは、どれだけ相手が抑え込もうとしても、完全に消し去ることはできない。その匂いを嗅ぐたびに、ルシアンの体はオメガとしての本能に微かに反応してしまう。
それを悟られないよう、ルシアンは表情を崩さずに器を差し出した。
「温かいうちに食べてください。傷の治りが早くなります」
「ああ。助かる」
ガルドは大きな手で器を受け取った。その指先には無数の小さな傷跡があり、手のひらはひどく分厚く硬そうだった。剣を振り回し、血と泥にまみれて生きてきた人間の手だ。
ルシアンは自分の白く細い指先をそっと隠すように、修道服の袖を引いた。
ガルドは木の匙を使い、音を立てずにスープを口へ運ぶ。その横顔には、どこか遠くの景色を見つめているような、深い孤独の影が落ちていた。
二人の間には、見えないけれど確かに存在する、透明で冷たい境界線が引かれている。
互いに踏み込まない。互いに求めない。
それはルシアンにとって、これ以上ないほど安心できる距離だったはずだ。それなのに、なぜか器を包み込むガルドの大きな手から目が離せなくなっていた。
***
昼下がりになり、窓の外の雪が少しだけ小降りになった。
ルシアンが薬草の仕分け作業を終えて顔を上げると、ガルドが寝台から抜け出し、壁際にある薪の束に手を伸ばしているところだった。
「何をしているんですか。まだ動いてはいけません」
ルシアンは驚いて立ち上がり、足早にガルドのそばへ駆け寄った。
ガルドは傷口を押さえながら、少しだけ気まずそうに目を逸らした。
「ずっと寝ているばかりじゃ、体がなまる。それに、薪くらい俺が運ぶ」
「傷が開いたらどうするつもりですか。あなたの体はまだ完全に治っていないんですよ」
「これくらいの傷、戦場じゃかすり傷だ」
強がるガルドの言葉に、ルシアンは小さく息を吐いた。
「ここは戦場ではありません。私の家です。患者は薬師の指示に従ってください」
ルシアンが毅然とした態度で告げると、ガルドはわずかに目を見張り、それから諦めたように肩の力を抜いた。
「……わかった。あんたの言う通りにする」
素直に引き下がるガルドの姿に、ルシアンは少しだけ毒気を抜かれた。
荒々しい傭兵という生き方を選んできた男なのに、その振る舞いにはどこか不器用な優しさがにじみ出ている。
ルシアンは薪を両手で抱え上げ、暖炉のそばへと運んだ。
背中に刺さるガルドの視線を感じながら、ルシアンの心の中で、冷たく固まっていた何かがほんの少しだけ溶け出すような音がした。
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